第9話 氷解のキス
『温かい……。これは夢か?』
そんな声が、静寂に包まれた執務室に響いた。
もちろん、肉声ではない。
私の脳内に直接届く、彼の心の声だ。
私はルーカスの背中に回していた腕に、そっと力を込めた。
ペンダントの魔石が放つ熱と、私自身の体温。
それが冷え切っていた彼の体を、ゆっくりと溶かしている。
「……夢じゃないわよ、ルーカス」
耳元で囁くと、私の肩に預けられていた彼の頭が、びくりと動いた。
彼はゆっくりと顔を上げる。
氷漬けだった睫毛からは霜が消え、いつもの美しい銀髪がサラリと揺れた。
ただ、その青い瞳だけが、まだ信じられないものを見るように揺らめいている。
「……エレナ?」
掠れた声。
喉が凍りついていたせいで、いつもの威厳ある低音とは程遠い、弱々しい響きだった。
「どうして、ここに……。俺は、君を部屋に閉じ込めて……」
「抜け出してきたの。あなたが心配だったから」
私は彼の頬に手を添えた。
まだひんやりとしているけれど、もう死人のような冷たさではない。
ルーカスは私の手触りを確認するように瞬きをし、ハッと息を呑んだ。
部屋を見渡す。
床も壁も氷に覆われているが、猛吹雪のような魔力の奔流は収まっていた。
「……馬鹿な。俺は、君を殺すところだった」
彼は青ざめた顔で、私の体を引き剥がそうとした。
手が震えている。
「離れろ。まだ魔力が安定していない。また暴走したら、今度こそ君を凍らせてしまう」
『怖い。離したくない。でも、俺のそばにいたらエレナが死ぬ』
『俺は化物だ。感情一つ制御できずに、最愛の人を危険に晒した』
心の声は泣いていた。
自分を責め、恐怖に怯えている。
私は彼の抵抗を無視して、逆にその手を強く握りしめた。
「平気よ。見て」
私は胸元のペンダントを示した。
青い石は、まだほのかに温かい光を放っている。
「あなたがくれた魔石が守ってくれたわ。最強の結界なんでしょう?」
「……あ」
ルーカスは呆然と石を見つめた。
第5話で、彼が密偵を使ってまで手に入れようとしていた最高級の防御魔石。
それが今、彼の命を救った私を守っている。
「……役に、立ったのか」
「ええ。あなたの過保護のおかげよ」
私がふふっと笑うと、彼は力が抜けたように肩を落とした。
張り詰めていた糸が切れたようだった。
「……よかった」
『本当によかった。エレナが無事で。生きていてくれて』
『神よ、感謝します。俺の愚かな行いが、最悪の結果にならなくて』
安堵の波が伝わってくる。
けれど、次の瞬間、彼の思考は急速に暗い色を帯び始めた。
『……待てよ』
『なぜエレナは、「過保護」だと言った?』
彼の瞳が鋭く私を捉えた。
賢い彼のことだ。
違和感に気づくのは時間の問題だった。
「……エレナ。君は、なぜこれがお守りだと知っている?」
彼はペンダントを指差した。
私はまだ、彼から直接これを受け取っていない。
あの密会騒動の時、彼は「プレゼントだ」とは言わなかった。
心の中で叫んでいただけだ。
そして今、私は「あなたがくれた」と言い切った。
私は覚悟を決めて、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「……全部、聞こえていたの」
「え?」
「雷の日からずっと。あなたの心の声が、私に届いていたのよ」
沈黙が落ちた。
部屋の温度が、また少し下がった気がした。
ルーカスの顔から、さっきまでの安堵が消え失せ、絶望の色が広がっていく。
「……聞こえて、いた?」
「ええ。あなたが私を心配してくれたことも。スープの味を気にしてくれたことも。ドレスを見て大騒ぎしていたことも」
私は包み隠さず告げた。
笑い話にするつもりだった。
「あんなに騒がしいとは思わなかったわ」と茶化して、彼の緊張を解こうとしたのだ。
けれど、ルーカスの反応は違った。
彼は私の手を振り払い、ズルズルと後ずさった。
背中が氷の壁にぶつかる。
『……全部?』
『俺の、あの醜い嫉妬も?』
『男を殺そうとした殺意も?』
『君を部屋に閉じ込めて、誰にも見せたくないと思った、あの汚い独占欲も?』
彼の心の声が、悲鳴のように響き渡る。
「……知っていたのか」
彼は震える両手で顔を覆った。
「俺が、どれほど君に執着しているか。兄としてあるまじき感情で、君を見ていたか」
『終わった』
『軽蔑された。気持ち悪いと思われた』
『当然だ。あんな思考、誰だって引く』
『今まで優しくしてくれたのは、俺の能力を恐れていたからか? 心の中で何を考えているかわかるから、機嫌を損ねないように演技をしていただけなのか?』
ネガティブな思考の渦が止まらない。
彼は自分を「化物」だと定義し、私に拒絶される未来しか描けていない。
その絶望がトリガーとなり、再び彼の体から青白い冷気が漏れ出し始めた。
ピキピキピキ……。
床の氷が再び成長し、私の方へと伸びてくる。
魔力の再暴走だ。
このままでは、彼は自分の心を氷に閉ざして、二度と戻ってこられなくなる。
「違うわ、ルーカス!」
私は叫んだ。
伸びてきた氷の蔦を踏み砕き、彼のもとへ踏み出す。
「来るな! 俺を見るな!」
彼は顔を覆ったまま叫んだ。
「俺は冷酷な公爵だ! そう振る舞わなければならないんだ! 感情を表に出せば世界を凍らせる、呪われた血筋なんだ!」
「だから心の中に閉じ込めていたのね? でも、溢れちゃってたわよ!」
「……っ!」
「すごくうるさかった! 毎日毎日、『可愛い』だの『天使』だの『結婚したい』だの!」
私は彼の腕を掴み、無理やり顔から引き剥がした。
涙で濡れた青い瞳が、露わになる。
彼は驚愕に目を見開いていた。
「軽蔑なんてしない。……嬉しかったわ」
「……は?」
「あなたが言葉足らずで、ぶっきらぼうで、冷たい態度をとっていても。心の中では私のことを一番に考えてくれているって、わかっていたから」
私は彼の手を、自分の胸に当てた。
心臓の音が、彼に伝わるように。
「あなたの独占欲も、嫉妬も、全部知ってる。その上で、私はここに来たの」
「エレナ……」
「気持ち悪くなんてないわ。むしろ……」
私は少しだけ顔を近づけ、悪戯っぽく微笑んだ。
「可愛かったわよ、ルーカス」
その一言が、決定打だった。
彼の時が止まる。
『……可愛い?』
『俺が? 氷の公爵と呼ばれるこの俺が?』
『あのドロドロした感情を、可愛いと言ったのか?』
「ええ。とっても」
私は背伸びをして、彼の冷たい唇に、自分の唇を重ねた。
触れるだけの、優しいキス。
けれど、それはどんな魔法よりも強力だった。
カッ、と光が弾けた気がした。
私のペンダントではない。
ルーカスの体の奥底から、温かな魔力の波紋が広がったのだ。
部屋を覆っていた分厚い氷が、一瞬にして音を立てて崩れ落ちた。
冷気は春風のような温もりに変わり、凍りついていた窓ガラスからは、朝日が差し込んでくる。
嵐が止んだ。
物理的にも、彼の心の中でも。
私はゆっくりと唇を離した。
目の前には、見たことのないルーカスがいた。
いつもの能面のような無表情ではない。
目尻が下がり、頬が紅潮し、口元がだらしなく緩んでいる。
それは、年相応の青年の、恋に落ちた顔だった。
「……ああ」
彼が声を漏らした。
その声は震えていたけれど、もう冷たくはなかった。
「……好きだ」
彼は私の腰に腕を回し、強く抱き寄せた。
今度は躊躇いがなかった。
「愛している、エレナ。君が欲しい。誰にも渡したくない」
『愛している! やっと言えた! 声に出して言えた!』
『もう隠さなくていいのか? 俺の全部を、君にぶつけてもいいのか?』
『世界で一番愛している!』
口から出る言葉と、脳内に響く声。
それが初めて、完全に一致していた。
裏表のない、ストレートな愛の告白。
その音圧に、私は胸がいっぱいになりながらも、少しだけ苦笑した。
「……ええ。知ってるわ」
「知っていても、何度でも言わせてくれ」
彼は私の肩に顔を埋め、深呼吸をするように匂いを嗅いだ。
「君が好きだ。……これからは、もう我慢しない」
その宣言と共に、彼は私を抱き上げ、くるくると回り始めた。
まるで子供のような喜びよう。
かつて「氷の公爵」と恐れられた男の威厳は、朝日と共に完全に溶けて消えてしまったようだった。
塔の窓から差し込む光の中で、私たちは笑い合った。
もう凍えることはない。
彼の心も、私の未来も、これ以上ないほど温かかったから。




