第8話 凍れる塔の夜
窓の外では、季節外れの猛吹雪が吹き荒れていた。
ゴウゴウと唸る風の音が、世界の終わりを告げているようだ。
私の部屋は結界に守られているため静かだが、ガラス一枚隔てた外の世界は、視界が真っ白になるほどのホワイトアウト状態だった。
「……ルーカス」
私は窓ガラスに手を当てた。
冷たい。
この異常気象の原因が、彼にあることは明白だった。
あの断罪劇のあと、彼は屋敷の敷地内にある「魔術師の塔」へ一人で籠もったと聞いた。
そこで分家への反撃準備を進めているはずだ。
けれど、この吹雪は尋常ではない。
彼の怒りと魔力が制御を失い、漏れ出している証拠だ。
(大丈夫なわけがない)
あんなに顔色が悪かった。
私を守るために、彼は今、一人で巨大な敵意と、暴れ狂う自身の魔力と戦っている。
それなのに、私だけが温かい部屋でお菓子を食べていていいはずがない。
私は決意を固め、ドアの方へ向かった。
鍵はかかっている。
けれど、私には護衛がついているはずだ。
「……そこにいるのよね?」
虚空に向かって話しかける。
返事はない。
でも、気配は感じる。
ルーカスが配置してくれた、姿なき「影」の護衛たちが。
「お願い、ここを開けて。ルーカスのもとへ行きたいの」
沈黙が続く。
彼らの任務は、私をこの部屋に閉じ込めて守ることだ。
私の要求は、主人の命令に背くことになる。
それでも、私は引き下がらなかった。
「このままじゃ、彼が死んでしまうわ。……私なら、彼を止められるかもしれない」
根拠はない。
あるのは、聞こえてくる彼の心の声だけだ。
『エレナ……会いたい……』というか細い悲鳴のような思考が、吹雪の音に混じって途切れ途切れに届いている。
数秒の沈黙のあと。
カチャリ、と鍵が開く音がした。
姿は見えないまま、低い声が風のように耳元を掠める。
「……お頼み申す、エレナ様」
彼らもまた、主人の身を案じていたのだ。
私は深く頭を下げ、廊下へと飛び出した。
塔への道のりは過酷だった。
屋敷から塔へと続く渡り廊下は、吹き込む雪で膝まで埋まっている。
風が刃物のように肌を打ち付け、呼吸をするだけで肺が凍りそうだ。
「っ……!」
寒い、痛い。
けれど、不思議なことに、私の体温は奪われていなかった。
胸元が熱い。
コートの下、服の上からでもわかるほど、ペンダントが熱を発している。
(これは……)
第5話で、ルーカスが密偵を使ってまで取り寄せてくれた青い魔石。
『最高級の防御魔石』だと言っていた。
それが今、淡い光の膜となって私の全身を包み込み、猛吹雪の冷気を遮断してくれているのだ。
『君がまた雷に打たれたりしないように』
彼の不器用な優しさが、今、物理的に私を守ってくれている。
涙が出そうになった。
こんな時まで、あなたは私を守っているのね。
私はペンダントを握りしめ、雪の中を一歩ずつ踏みしめて進んだ。
塔の重い扉を押し開ける。
内部は静寂に包まれていた。
だが、その静けさは死の世界のそれだった。
床も壁も、手すりさえも、すべてが分厚い氷に覆われている。
吐く息が瞬時に氷晶になって落ちるほどの絶対零度。
普通の人間なら、足を踏み入れた瞬間に心臓が止まるだろう。
それでも、ペンダントの熱は消えない。
むしろ、中心部に近づくほど強く輝き、私を先へと導いてくれる。
私は氷の階段を駆け上がった。
最上階の執務室。
そこが、冷気の発生源だ。
「ルーカス!」
扉を開け放つと、そこは吹雪の中心だった。
書類が舞い、インク壺が破裂して凍りついている。
その中央、執務机に突っ伏すようにして、銀髪の青年が倒れていた。
「……ッ、う……」
苦しげな呼吸音。
彼の体からは青白い魔力の奔流が溢れ出し、周囲の空間を凍結させ続けている。
床には霜が降り積もり、彼自身の髪や睫毛さえも白く凍てついていた。
限界だ。
私は駆け寄ろうとしたが、魔力の風圧に押し戻されそうになる。
その時、途切れかけていた彼の心の声が、直接脳に響いた。
『……エレナ……?』
『だめだ……来るな……』
『俺は今、怪物になっている……近づけば、君まで凍らせてしまう……』
『逃げろ……温かい場所へ……俺のことは置いて……』
拒絶の声。
けれど、その裏にある本音は、泣き出しそうなほど寂しがっていた。
『寒い……寂しい……』
『死にたくない……エレナの手を握りたい……』
『愛している……最期にもう一度だけ、声が聞きたかった……』
「馬鹿言わないでよ!」
私は叫んだ。
風圧に逆らい、一歩強く踏み込む。
ペンダントがカッと強く輝き、私を阻もうとする冷気の壁を中和した。
その隙に、私は彼のもとへ滑り込む。
「ルーカス!」
私は躊躇なく、氷のように冷たい彼の体に腕を回した。
背中から抱きしめる。
冷たい。
生きている人間とは思えないほど、彼の体温は下がっていた。
けれど、私の腕の中で、彼はビクリと大きく震えた。
「……え、れ、な……?」
虚ろな青い瞳が、ゆっくりと私を映す。
焦点が合っていない。
彼は幻覚だと思っているのだろうか。
「本物よ。あなたを助けに来たの」
私は彼の凍りついた髪を撫で、耳元で囁いた。
ペンダントの熱と、私の体温が、彼の冷え切った体をじんわりと温めていく。
すると、部屋中を荒れ狂っていた魔力の風が、ふっと勢いを弱めた。
『……温かい』
彼の心の声が、少しだけはっきりとした輪郭を取り戻す。
『これは、エレナの温度だ』
『幻じゃない。どうしてこんな危険な場所に……』
『俺が渡した魔石か。あれが守っているのか。……よかった、役に立った』
彼は震える手で、私の腕に触れようとした。
けれど、その手は空中で止まった。
自分の指先が白く凍傷のようになっているのを見て、私を傷つけるのを恐れたのだ。
「触っていいのよ」
私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。
冷たいけれど、そこには確かに脈打つ命があった。
「あなたがくれた魔法が、私を守ってる。だから、あなたの冷気なんて全然平気よ」
「……馬鹿な、人だ……」
ルーカスのかすれた声。
でも、その表情からは険しさが消え、安堵の色が広がっていく。
彼が深く息を吐き出すと同時に、窓の外で唸りを上げていた風音が止んだ。
嵐が、過ぎ去っていく。
絶対零度の部屋に、静寂と、微かな温もりが戻り始めていた。
彼はそのまま、糸が切れたように私の肩に頭を預けた。
意識を手放す寸前、彼の心から聞こえたのは、ただ一つの純粋な願いだった。
『……離さないでくれ』
「ええ。離さないわ」
私は彼を支え直し、その冷たい背中を何度も優しく撫で続けた。
最強の公爵様が、こんなにも脆くて、寂しがり屋だなんて。
それを知っているのは、世界で私だけだ。
その秘密の優越感が、凍えた夜の中で、私の心を熱く満たしていた。




