第2話 朝食は氷点下
私は震える手で、銀のカトラリーを握りしめた。
金属の冷たさが指先に染みる。
広い食堂には、カチャン、という食器が触れ合う微かな音だけが響いていた。
天井からは豪華なシャンデリアが吊り下げられているけれど、今の私にはそれが鋭利な氷柱に見えて仕方がない。
昨晩の嵐が嘘のように、窓の外には朝の光が射し込んでいた。
けれど、室内の気温は冬のように低い。
理由は明白だ。
長テーブルの向かい側、上座に座っている人物が冷気を放っているからだ。
「…………」
義弟のルーカスは、一言も発さずにナイフを動かしている。
整えられた銀髪、陶器のように白い肌、そして感情を一切映さない氷のような瞳。
彼は今朝も完璧に「氷の公爵」だった。
私は縮こまりながら、目の前の空の皿を見つめる。
昨晩、離れが半壊したため、私は本館の客間に泊められた。
そして今朝、家令に「閣下が朝食を共にせよと仰せです」と告げられたのだ。
拒否権などあるはずがない。
(怒られるのかな……)
昨日の騒動について、改めて説教をされるのかもしれない。
あるいは、離れの修理費を請求されるのか。
胃が痛い。
食欲なんてあるはずもなく、私はただ嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のような心境で俯いていた。
すると、向かいで椅子が引かれる音がした。
ビクリと肩が跳ねる。
顔を上げると、ルーカスが立ち上がり、無言でこちらへ歩いてくるところだった。
彼の足元から、床にうっすらと霜が広がっていくのが見える。
冷気が近づいてくる。
(な、なに?)
彼は私の席の横で立ち止まった。
威圧感が凄まじい。
見上げると、彼は冷酷な眼差しで私を見下ろしていた。
そして、無言のまま私の皿をひったくった。
「えっ」
彼は中央の大皿から、湯気の立つ温野菜と、透き通るような黄金色のスープを私の皿へ盛り付け始めた。
手つきは優雅だが、有無を言わせぬ迫力がある。
たっぷりと盛られた皿が、私の前にドン、と置かれた。
「食え。……残すなよ」
低い声。
拒絶は許さないという命令口調だった。
私の細い体を見て、嘲笑っているのだろうか。
「みっともないから少しは肉をつけろ」という嫌味かもしれない。
私は怯えながら、小さく「はい」と頷いた。
その時だった。
『あああ、手が震えている! 怖がらせてしまった!』
まただ。
昨晩と同じ声が、頭の中に直接響いてきた。
『すまないエレナ、だが食べてくれ。君は痩せすぎだ。ウエストなんて俺の片手で折れそうじゃないか。見ていて心配で心臓が痛い』
ルーカスの表情は能面のように動いていない。
冷ややかに私を見据えたままだ。
けれど、脳内に流れてくる声は必死そのものだった。
『このスープは領地特産の薬草と最高級の鶏ガラを三日煮込んだ特製だ。滋養強壮にいいし、昨日の感電のショックも和らぐはずだ』
『本当はパンケーキも用意させたかったが、胃が弱っているかもしれないから消化にいいメニューにしたんだ。気に入ってくれるだろうか? 不味いと思われたらどうしよう。シェフをクビにするべきか? いや、俺が味見した時は完璧だったはずだ』
情報量が多い。
そして思考の速度が速い。
私は瞬きをして、目の前のスープを見た。
これが、そんなに手間のかかったもの?
嫌がらせで無理やり食べさせるわけではないの?
『……どうした? 食べないのか? やはり俺がよそった料理など汚らわしいか? すまない、だが毒見は俺が済ませた。安全だ。頼むから一口だけでも……』
声がどんどん悲痛になっていく。
目の前のルーカスは、「早くしろ」と言わんばかりに眉をひそめているのに。
このギャップは一体なんなのだろう。
もしこれが幻聴だとしたら、私の願望は随分と具体的で図々しい。
私は意を決して、スプーンを手に取った。
黄金色の液体をすくい、口へと運ぶ。
「……っ」
温かい。
そして、驚くほど優しい味だった。
鶏の旨味がじんわりと体に染み渡り、薬草の苦味は全く感じない。むしろ香ばしい香りが鼻を抜けていく。
昨晩の恐怖で冷え切っていた胃袋が、内側から解けていくようだ。
美味しい。
公爵家の本館では、いつもこんなに美味しいものを食べているのだろうか。
自然と、強張っていた頬が緩んだ。
私はスプーンを下ろし、ルーカスに向かって頭を下げた。
「……美味しいです。ありがとうございます」
お世辞ではなく、本心からの言葉だった。
すると、ルーカスの目がわずかに見開かれた。
彼は口元を手で覆い、ふいっと顔を背ける。
「……そうか」
そっけない返事。
また機嫌を損ねてしまっただろうか。
不安になった直後、脳内に爆音の絶叫が響いた。
『天ッ使ーーーーーー!!!』
「っ!?」
私は思わずスプーンを取り落としそうになった。
『笑った! エレナが笑った! しかも俺の目の前で! 俺が勧めたスープを飲んで! 「美味しい」って言った! 可愛い! 無理! 尊い!』
『待ってくれ、今の笑顔の破壊力はなんだ? 聖女か? いや女神だ。直視したら目が潰れる。あぶない、魔力が暴走して食堂ごと氷漬けにするところだった』
ルーカスは背を向けたまま、小刻みに肩を震わせていた。
周囲のメイドたちは「閣下が苛立っていらっしゃる……!」と青ざめているけれど、私には違う景色が見えていた。
聞こえてくる声が本当なら、彼は今、感動で打ち震えていることになる。
『もっと食べてくれ。その笑顔のためなら、俺は国中の鶏を捕まえてきてもいい』
『ああ、神よ。今朝の俺は勝った。昨日の失態を取り戻したぞ』
ルーカスはゆっくりと振り返り、咳払いを一つした。
表情は相変わらず氷点下だが、耳の先がほんのりと赤い気がする。
彼は冷徹な声音を崩さずに告げた。
「……ならば、全部平らげろ。栄養失調で倒れられては迷惑だ」
『おかわりもあるぞ! デザートの果物も最高級だ! ゆっくり食べてくれ、俺はずっと見ていたいから!』
私は呆然としながら、再びスプーンを動かし始めた。
一口ごとに、彼の心の声が『いいぞ』『可愛い』と合いの手を入れてくる。
なんだか、すごく食べにくい。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
昨日の雷で私の頭がおかしくなったのでなければ。
この冷徹な義弟は、もしかすると、とんでもなく不器用なだけなのかもしれない。
スープの温かさが、胸の奥まで広がっていくのを感じた。




