第1話 雷鳴と本音
激しい雨音が、古びた離れの屋根を叩いていた。
窓ガラスがびりびりと震えるたびに、私の体も反射的に縮こまる。
季節外れの嵐だった。
公爵家の広大な敷地の隅、忘れ去られたように建つこの離れは、隙間風が酷い。
暖炉の火も心もとなく、私は薄いショールを肩に強く巻きつけた。
「……寒い」
白い息が漏れる。
本館にいれば、魔導具による空調が効いていて快適なのだろう。
けれど、今の私にそこへ行く資格はない。
半年前、父である前公爵が亡くなり、義弟のルーカスが当主となったあの日から。
『邪魔だ。視界に入らない場所へ行け』
氷のような瞳でそう告げられた時の絶望は、今も胸に突き刺さっている。
彼は若くして「氷の公爵」の異名をとる天才魔導師であり、国の宰相まで務める傑物だ。
血の繋がらない、才能もない平凡な義姉など、確かに邪魔なだけだろう。
追い出されなかっただけ慈悲深いと思うべきかもしれない。
ピカッ、と視界が白く染まった。
直後、鼓膜を破るような轟音が炸裂する。
「きゃっ――!」
衝撃が走った。
天井の照明が破裂し、火花が散る。
雷が落ちたのだと理解するよりも早く、強い痺れが指先から全身を駆け抜けた。
視界がぐらりと揺れる。
床に崩れ落ちた私は、焦げ臭い匂いの中で必死に呼吸を繰り返した。
体が重い。指先がうまく動かない。
心臓が早鐘を打っている。
このまま、誰にも気づかれずに死ぬのだろうか。
薄れゆく意識の中で、そう覚悟した時だった。
バンッ!
乱暴に扉が開く音がした。
同時に、猛烈な冷気が部屋になだれ込んでくる。
嵐の風ではない。もっと鋭利で、肌を刺すような絶対的な冷たさ。
この屋敷で、この冷気を纏う人間は一人しかいない。
「……何をしている」
低く、温度のない声。
霞む視界の中に、銀色の髪が見えた。
ルーカスだ。
整いすぎた美貌は、彫像のように無表情だった。
彼は部屋の惨状と、床に倒れている私を見下ろしている。
怒られる。
そう思った。
騒々しい音を立てたこと、彼の手を煩わせたこと。
ただでさえ嫌われているのに、これ以上不快にさせてしまった。
私は震える唇で謝罪しようとした。
『エレナ! 無事か!?』
え?
頭の中に、切羽詰まった叫び声が響いた。
耳からではない。脳に直接届くような、鮮明な声。
『息は? 怪我は!? くそっ、どうしてこんなことに! 今すぐ抱き起こしたいが、俺が触れたら凍らせてしまうかもしれない!』
誰?
この部屋には私とルーカスしかいないはずだ。
使用人が駆けつけた気配もない。
私は混乱して、目の前の義弟を見上げた。
彼は依然として、氷像のような冷徹な表情で佇んでいる。
青い瞳は冷ややかに細められていた。
「騒々しい。……こんな嵐の夜に」
口から出た言葉は、棘のある冷たい響きだった。
やっぱり、怒っている。
そうだよね、ごめんなさい。
私が俯こうとすると、またあの声が脳内に雪崩れ込んでくる。
『あああ、顔色が悪い! 震えているじゃないか! 寒かっただろう、怖かっただろう! すまない、俺がもっと早く離れの修繕を命じていれば!』
『いっそこのボロ屋ごと結界で包んでおけばよかった! 俺の馬鹿! 無能! 死んで詫びたい!』
声がうるさい。
しかも、言っている内容が表情とあまりに乖離している。
これは幻聴だろうか。
雷に打たれたショックで、私の頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
願望が作り出した都合の良い妄想?
いいえ、それにしては必死すぎるし、語彙が独特だ。
ルーカスは私の足元に視線を落とし、眉ひとつ動かさずに言った。
「立てるか。……無様だな」
『その細い足に傷ひとつでもあったら、この嵐を止められなかった気象管理庁の役人を全員解雇してやる』
「ひっ」
思わず短い悲鳴が漏れた。
役人の解雇はやめてあげてほしい。
というか、本当に誰の声なの?
私が怯えたように身をすくませると、ルーカスの周囲の温度がさらに下がった気がした。
床板にうっすらと霜が降りる。
彼は私から一歩、距離を取った。
『怖がらせた……! 俺が近づくと冷気が強まるからか? くそっ、感情を抑えろ、俺。これ以上エレナを凍えさせてどうする』
『離れろ。愛しい人のそばにいたいなら、今は離れるのが最善だ』
ルーカスは踵を返した。
背を向けたまま、扉の外に控えていたらしい家令に短く命じる。
「医師を呼べ。それから、この部屋は使い物にならん。……客間を用意しろ」
「は、はい! 直ちに!」
家令が慌てて走り去る気配がする。
ルーカスは一度だけ肩越しに私を振り返り、侮蔑するような視線を投げた。
「治療が終わるまで、大人しくしていろ。余計な手間をかけさせるな」
冷たい言葉を残し、彼は足早に去っていった。
取り残された部屋には、再び雨音だけが響く。
……はずだった。
『神よ、感謝します。エレナが無事でよかった』
『後で最高級の毛布と温かいスープを届けさせよう。いや、俺が運びたい。でも俺が行ったらスープが冷める。詰んだ』
『……エレナ。愛している。無事でいてくれて、本当にありがとう』
遠ざかる足音と共に、その切ない響きも徐々に小さくなっていく。
最後に聞こえたのは、泣き出しそうなほど優しい「愛している」だった。
私は呆然と、彼が消えた暗い廊下を見つめ続けた。
今のは、何?
幻聴にしては、あまりにも具体的すぎる。
それに、あの冷徹な義弟が「スープが冷める」なんて生活感のあることを気にするだろうか?
「……夢、よね」
私は痺れの残る手を握りしめた。
きっと、雷のショックで一時的に脳がバグを起こしたに違いない。
そうでなければ説明がつかない。
あの氷の公爵が、私を愛しているなんて。
そんなこと、あり得ないのだから。
けれど、私の胸の奥には、不思議な温もりが残っていた。
それは冷え切った体には不釣り合いなほど、熱く、確かな余韻だった。




