仕方姉ぇ
俺が四人分のパスタを茹でている鍋にひとつまみの塩を入れたとき。
バァン! と音がして、御厨家の玄関のドアが不機嫌丸出しで開く音がした。
この音を聞くに――また面白くないことが起こったに違いない。
俺はコポコポと沸き立つ鍋を菜箸でひとつかき回してから、キッチンの入口を振り返った。
「カー、今日は何があった?」
俺が言うと、ギリッ! と音がしそうな勢いで、眼光鋭い目が俺を見た。
それと同時に、後頭部の高い位置で結い上げられた長いポニーテールが、その美しい黒髪を誇示するかのようにシャラリと揺れる。
「おお、ジン、お前がいたか……! 何があったか聞いてくれるのか!?」
「いーや、聞かない」
「んな! なっ、ならなんで何があったか訊いてきたんだ!?」
「カーがそう訊いてほしそうだったから」
「聞いてくれるんだな!?」
「聞かん」
「なんでだ!?」
「訊いとかないと面倒くさいし、訊いたら訊いたで面倒くさいんだよ、お前の話は。何かあったのかと訊ねはするが詳細は聞きたくない」
「くっ、相変わらずのドS男め……! 」
「おや、そんなに褒めてくれるなよ」
へらへらっ、と俺は黒く笑った。
「まぁ、聞き流していいなら勝手に話してもいいぞ。壁に向かって話すよりはスッキリするかもだぞ」
その俺の言葉を最大限好意的に解釈したのか、この家の三女、カーこと御厨火凛はますます苛立ったように語気を荒らげた。
「うぉのれぇ剣道部の連中め……! 人のことを勝手に部員にしておきながら私のことを散々馬鹿にし腐って! 私は剣道になんか興味がないと前から言ってるのに! 私は手芸部だけに入りたかったんだ! あんな臭い道着を着てやるチャンバラの一体何が楽しいと言うんだ!」
火凛は地団駄を踏みながら、憤懣やるかたないと言うように喚き散らした。
そりゃまぁ、その風体で手芸部にさせとくのは勿体ないわな……。
俺は火凛に同情するかたわら、この人を是非剣道部に、と推挙したクラスメイトの方にも同情した。
真っ黒で艷やかな髪、切れ長の目、名前の通り火のような激しい性格と、筋金が入ったかのような凛とした立ち姿、そしてこの中性的な口調――。
まるでそれは、時代劇に出てくる女剣士のよう。
火凛はこういう人であるから、どこからどう見ても手芸部に入るようなタマには見えないし、その如何にも武人というような風体を買われ、一年生のときには剣道部と薙刀部と弓道部が奪い合いをしたという逸話がある人だ。
しかし反面、こう見えて火凛は運動のたぐいが全くできない。
かけっこすれば駄肉の塊である風夏の方がまだ早いし、逆上がりはいまだ練習中、キャッチボールすら怪しいというぐらい、全く動けない。
手先だけは三姉妹の中では例外的に器用で、唯一俺ができない裁縫なんかは火凛が率先してやってくれるのだけど――それにしたってこの凛々しい外見には似合わない。
毎日イヤイヤ顔を出している剣道部で、日に十回ぐらい竹刀でぶっ叩かれて床に転がることになるのだから、よく考えれば損な人でもある。
俺は確実に同情して助言した。
「そんなつらいならもうやめたらいいだろ、剣道部。手芸部と掛け持ちしてるんだろ? 手芸部が忙しくなったから辞めるって言えばいいじゃないかよ」
「ジン、お前までそんな事を言うのか!」
火凛はくわっという感じで俺に向き直った。
「私の友達が私を信じて剣道部に推薦してくれたんだぞ! 今更その顔に泥を塗るようなことができるか!」
呆れた俺は内心で肩を竦めた。
全く――子供の頃から、火凛はこれだから面倒くさい。
この人はこの見た目通りというかなんなのか、基本的にいい人なのだ。
ウソや誤魔化しが嫌いで、人に頼み込まれればイヤとは言えない、真っ直ぐな人であるから、いつもいつもやせ我慢を重ねて損ばかりする。
それ故、彼女以外の姉妹と俺は彼女を「仕方姉ぇ」と、ある種の惜しみない尊敬を持って呼んでいるのだ。
「でも、いつまでもそんな風に竹刀でぶっ叩かれてたらいつか大怪我するぞ? カーって運動神経良さそうに見えて実は逆上がりも出来ないしな」
「う――!」
「大体、手芸部の方だってそれなりに忙しいんだろ? どう考えても無謀だろ、あの強豪の剣道部と掛け持ちなんて」
「それは……そうだ。手に大怪我なんかしたらそれこそ手芸部の方を辞めなきゃならなくなる。最初に無理やり剣道部に入れられた時にそれは顧問にも話したんだけどな……」
「どうなった?」
「どうもなんとなく、煙に巻かれてしまったというか、その……」
火凛はそこで外見に似合わないモジモジさでモジモジとして見せた。
全くもう、この人は性格は真っ直ぐで激烈なのに、相変わらず妙なところで気にしいだし、気弱である。
「俺が一緒に行くか?」
「ん?」
「俺が一緒に行って断り入れたら流石に顧問も煙に巻けないだろ。もう剣道部辞めたいって二人がかりで言いにいけばいい。フーやリンについてきてもらうのは身内に恥を晒すみたいで嫌だろ?」
「おお、確かに流石に二人連れならいつものように煙に巻かれまい! お前頭いいな!」
火凛はそう言って顔を輝かせた。
そう、火凛は運動ができない上に、この通り単純な人でもある。
名案だ妙案だと繰り返す火凛に、俺はなんだか笑ってしまってから、湯が沸き立つ鍋に向き直った。
「さ、そうと決まればしっかり食ってたくさん寝て、断る勇気を充電しとけ。今晩はパスタな。そうと決まれば制服を着替えてきて――」
と、そのときだ。
いつの間にかすぐ背後にいた火凛にきゅっとワイシャツの肘を摘まれ、俺は背後を振り返った。
姉妹の中では一番色素の薄い、桜色の唇を噛み締めた火凛は――なんだか火照ったような赤い顔でぼそぼそと言った。
「あの……ジンよ。その、な」
「はい?」
「い、一応、な? お前にこんな事を頼むからには……その、私もお前に『課金』しなきゃならないよな?」
課金?! 火凛が!? 俺は真剣に驚いた。
何度も言うが、この人は基本的に善人であり、面倒くさい性格をしているが根は至って真っ直ぐで、曲がったことが嫌いである。
つまり――当然、お互い好きでもない男女が「課金」などと称した淫らな行為に及ぶことにも憤りを覚えられる、姉妹イチの常識人なのである。
それ故、この家庭において頼まれごとはされても、火凛が俺に「課金」シてくることはあまり多くはない。
ただ義務的にほっぺに口を寄せてくるのが今までは関の山で、それどころか二人の姉たちが俺に何か面倒事を押し付けるべく「課金」スると言うと、何をふしだらなことをと怒り出していたぐらいだ。
そんな火凛が、あの曲がったことが嫌いな火凛が、自分から「課金」スるなどと言い出したことなど――今まで一度もないのではないだろうか。
「あ、あの、カー……?」
「その、安心しろ。私はフー姉ぇやリン姉ぇのように上手でもないし、美人でもないけど……全力を出せば、もしかしたらお前を悦ばせるぐらいはできるかもしれない。その……」
「あ、いや! いいよ別に! そんな大したことお願いされたわけじゃないし! 課金いらない! カーもそんな無理することないって!」
「何を言い出すんだジン。それでは私の気が済まないじゃないか」
「いやいや、いい、本当にいい! フーやリンはともかく、カタブツのカーまでそんなふしだらな制度を真似することは……!」
「ああもう、やかましい! ナマイキ言うなッ!!」
その瞬間、火凛の左手が素早く動き、菜箸を握ったままの俺の右手首をぐっと掴んだ。
そのまま凄い力で俺を壁際まで押しやると、火凛は俺の右手首と左肩とを壁に縫い付け、逃すまいとするかのように俺の股の間に右膝を蹴り込んだ。
うひぃっ、と、俺は短く悲鳴を上げた。
手芸部掛け持ちとは言え、それなりに握力も鍛えられているのだろう。壁に縫い付けられた俺の右手はびくともしなかった。
火凛は全姉妹の中で一番上背もあるから――畢竟、俺と火凛はかなり至近距離で見つめ合うことになった。
「かっ、カー!? おおおお、お前ぇ、一体何を……!」
「男らしく課金サれろジン、行くぞ――!」
その言葉を最後に、火凛は俺の唇に真っ直ぐに唇を押し付けてきた――否、喰らいついてきた。
右手首を掴む手が熱くなり、既にゼロ距離の火凛の顔が更に圧力を掛けるかのように更に近づき――途端に、にゅるん、と、俺の口内に何かが侵入してきて、俺は言葉にならない声で悶絶した。
うわ、誰よりも超ディープ……!
興奮というよりも大混乱している俺を余所に――火凛は一生懸命に俺の唇に吸い付き、それどころか己の舌まで俺の口内にねじ込み、ぐちゃぐちゃと力いっぱいかき回してきて、とうとう俺の頭が真っ白になった。
不器用な中にも、必死さだけは伝わる動きで舌が動いた後――。
三十秒程もして、やっと火凛の顔が俺から離れ、俺たちはほぼ同時に詰めていた息を吐き出した。
途端に、たらっ、と、俺たちの唇に銀色に輝く糸が伸びて。
虚空に吸い込まれるようにして――消えた。
「……どうだ、課金に、なったか?」
風体だけは完璧な和風美人である火凛の本気の目と声に、俺の心の中の、今まで一度も震えたことのない部分が震えた。
「は、はひぃ、凄かったでしゅ……!」
思わず、敬語になった。敬語になって当たり前だった。この状況下で敬語になって何が悪いというのだ?
想像以上の「重課金」に、まだバクバク言っている心臓を両手で押さえながら答えると、よかった、と火凛は安心したようだった。
掴まれた手首から力が抜けると、同時に腰からも力が抜け、俺はすとんとその場に尻もちをついてしまった。
しばらく――お互いに無言になってしまった。
先に沈黙に耐えられなくなったのは俺だった。
「あ、あの……」
「……なんだ、ジン。こういうときは何も言うな」
「で、でも……!」
「ああ、うるさいうるさい、私だって恥ずかしいんだぞ。それとも、お前は私の課金じゃ、やっぱり不満、だったか?」
火凛がふいっと顔を背け、不安そうに呟いた。
その反応に、俺は全力で首を振った。
とにかく、凄かったです。その意気を込めてぶんぶんと首を振ると、そうか、とだけ言って、ようやく火凛の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「あ、あの、俺、パスタ作りましゅね――!」
そういえば鍋を火をかけたままだった。
俺が這々の体でその場を逃げ出そうとすると――また火凛に肩を掴まれた。
「待て。あの……あのな、ジン」
「まっ、まだなにか!?」
「その、折角の申し出を申し訳ないんだけれど……その、やっぱり剣道部は続けるよ」
「え……!? そ、それじゃ今の課金が無駄になっちゃうだろ!? いいのか!?」
「いい、一発貸しといたままにしてやる」
それから火凛は、その涼やかに白い顔をポッと桃色に染め、視線をわずかに伏せた後、蚊の鳴くような声で言った。
「それに、思った以上に悪くなかったからな、お前への『課金』。今剣道部をやめたら、その……今後、お前に課金スる口実が消えてしまうと思うから……」
普段はそんな事湿ったようなことを言わない火凛の言葉に、正直――俺はちょっとだけ、ちょっとだけだけど、興奮してしまった。
あ、あわわ……とパニクっている俺と視線を合わさずに、言うべきことは言ったというような雰囲気で、火凛は回れ右をした。
「話が長くなったな……わっ、私は部屋に戻る」
ポニーテールをムチのようにしならせて、火凛はぷい、と顔を反対側に向け、階段を昇っていってしまった。
後には、鍋の中ですっかり水気を吸って白く膨れたパスタと、おそらく真っ赤っかになったままの俺だけが残された。
「は」
どうにかこうにか立ち上がった俺は、両手で顔を覆い、耳まで真っ赤になりながら呻いた。
「激しすぎるだろ……!」
普段滅多なことでデレない火凛の「課金」だけに、そのデレの破壊力たるや、尋常ではなかった。
しかも――なんだか火凛は、今後も俺に継続的に「課金」を続けるつもりらしい。
あんな感じで毎度毎度「課金」サれ続けたら、俺、おかしくなるかも――。
俺の今後に重大な懸念が生まれた瞬間、鍋の中ですっかりふやけてしまったパスタが白泡を拭き上げ、旧式のガスレンジの炎が音を立てて消えていった。
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