痴漢
時刻はまだ六時過ぎ、ということで、帰りの電車ではなんとか座席に座ることが出来た。
俺と火凛はきっちりと隣同士で座り、特に会話もなく、吊り革を掴んだまま電車に揺られている乗客たちを見ていた。
隣で、火凛は随分機嫌が良さそうだった。何がそんなに楽しいのか、さっき買い込んだ参考書の表紙を愛おしく見つめながら、滅多になく鼻歌まで聞こえてくる。
そんなに警察官になる未来が待ち遠しいのだろうか、と考えて、俺は違う可能性に思い当たった。
まさか――さっき俺がその夢を褒めたから、火凛はこんなに上機嫌なのか?
そんな事を考えてしまうと、なんだか急に気恥ずかしくなり、俺は隣の火凛から気まずく視線を逸らした。
いいや、そんなことあるわけない。いくらさっきの言葉が本心からの言葉だったからって、幼馴染である俺の一言で火凛がそこまで喜ぶわけがない。
大体、火凛は道ですれ違えば誰もが振り返るような美人で、幼馴染という特権的な立場がなかったら、俺などおいそれと声もかけられないような人だ。
下心あるなしに関わらず、ただ生きているだけで称賛の声など飽きるほどかけられているだろうこの人が、俺の言葉ひとつでこんなに上機嫌になるなんて、そんなことは――。
そこまで考えた、その時だった。
ぴりっ、と、すぐ隣に殺気のようなものを感じて、俺は隣の火凛を見た。
火凛は――真っ直ぐ目の前、吊り革を掴んでいる乗客たちの中の、ある一点を見つめていた。
その視線を目で追うと、この辺りにある中学校の制服を着た、如何にも引っ込み思案と言えそうな眼鏡の女の子が、なんだか青い顔で俯いて立っていた。
ん? なんだ、あの子がどうしたんだ? と訊ねかけて。
ふと、俺はその女の子のすぐ背後に立った、頭のハゲ散らかったスーツ姿の中年男の存在に気づいた。
俺たちもなんとか座席に座れるぐらいの混雑具合だというのに、男はやけに女子中学生に引っ付いて立っているし、吊り革を掴んでいない左手はだらんと垂れ下がったままだ。
なんだか、嫌な予感がした。
俺がよくよく目を凝らすと――ガタン、と電車が揺れた瞬間、ハゲ頭の左手が揺れ、その指先が女子中学生の太ももに触れた。
それと同時に、ひっ、と女子中学生は身を固くし、ますます顔を青褪めさせる。
痴漢――なるほどそういうことか、と理解した俺は、人を殺すような視線でハゲ頭を凝視している火凛の横顔を見た。
この人はやっぱり、将来は警察官になるべきだろう。そう確信していると、火凛が座席を立ち上がろうとしたので、俺は手首を掴んでそれを制した。
「じっ、ジン――!?」
なんで止める!? というような憤りの表情で俺を見た火凛に、俺はスマートフォンを取り出し、以下の文字を打ち込んで火凛に示した。
『痴漢を告発するにしても証拠がいる。今は動くな、俺に任せろ』
はっ、と火凛が息を呑み、俺を見た。
俺が頷くと、火凛は視線はハゲ頭から逸らさないまま、座席に座り直した。
俺は素早く頭の中で計算した。
この場合、俺たち二人が男を告発したところで、どこまで証拠として信用されるかはわからないし、相手は女子中学生に欲情するような変態だ。野放しにしてはおけない。
だから、証拠が要る。出来れば動画で犯行の瞬間を押さえておきたい。
見ている間にも、ハゲ頭の指先はどんどん行為をエスカレートさせ、もはや電車の揺れも関係なく、ぐりぐりと指の腹を擦り付けるように女子中学生の太ももを触っている。
胸が悪くなるような光景に、火凛が悔しそうに下唇を噛んで耐えている。それと同時に、俺の姉弟分にこんな表情をさせやがったあのハゲ頭への、俺の中の怒りも倍増してきた。
ちら、と、俺は目だけで背後の窓の外を伺った。
もうあと一~二分で、電車は川に架けられた高架を渡り、同時に都市部を抜けて田園地帯に入る。
慎重に、俺は以下の文字をスマホに打ち込んで、隣の火凛に見せた。
『いいか、カー。もう間もなく電車が都市部を抜ける。その時がチャンスだ』
火凛が、戸惑ったように俺を見た。
俺は深く頷いてから――ゆっくりと、火凛の肩に手を回し、その身体を引き寄せた。
「うぇっ――!? おっ、おい、ジン――!?」
「静かに。こうしてれば傍目にはカップルがイチャついているようにしか見えない」
俺が耳元にそう囁くと、うひゃっ、と火凛が声を上げて身を竦ませた。
「――なんだよ?」
「じ、ジン、あんまり耳元で囁くな……! そっ、それに、この距離はいくらなんでも……!」
「何を照れてんだ、幼馴染だろ? いいからもっと引っつけ、遠慮するな」
「あ、あうう……! こ、これ以上くっつくのか……!?」
「あのハゲに正義の鉄槌を下すためだろ。いいからほら!」
ぎゅっ、と、俺は更に右手に力を込めて火凛を抱き寄せ、尻をにじって角度を調整した。
途端に、密着したところから火凛の体温が直接流れ込んできて、同時に物凄くいい匂いがしたが、気にしてはいられない。
俺は右手で俺と火凛の目の前にスマホを掲げてインカメラに設定した。
これでよし、これで傍目には、カップルがイチャつきながらスマホで仲良く自撮りしているようにしか見えないだろう。
俺が慎重に頃合いを見計らい、スマホの録画ボタンに指を置いた瞬間――ガタンッという音とともに電車が高架を渡り、電車は都市部を抜けて田園地帯に入った。
途端、街の灯りが途切れて窓の外が真っ暗になり、電車内の照明によって乗客たちの姿が窓に映し出される。
俺は録画モードにした画面を、慎重に背後の窓に向けた。
窓の外から都市の光が消え、闇に塗り潰されて鏡のようになった俺たちの背後の窓には当然、乗客たちの姿が映し出される事になり――。
スマホに四角く切り取られた窓の像に、斜め向かいにいる女子中学生と、その背後にぴったり貼り付くハゲ頭の姿が映り込んだ。
隣の火凛が、目を丸くした。
俺は火凛の肩から手を離し、右手でカメラをズームさせ、女子中学生の太ももに触れているハゲ頭の手つきをバッチリと録画した。
そのまま、動画で犯行の動かぬ証拠を押さえた後――電車にゆっくりと慣性がかかり、電車は俺たちが降りる予定の駅に到着した。
俺がスマホの録画を終わらせたのと同時に、火凛が素早く動いた。
乗客たちの乗降車の波の中でも素知らぬ顔をしているハゲ頭の手首を、火凛が鬼の形相とともに掴んで捻り上げた。
途端に、ハゲ男がぎょっと目を見開いて火凛を見た。
「うおっ――!? なっ、なんだ!? 突然なんなんだ君は!?」
「やかましい、恥知らずの痴漢め! お前、ずっとこの女の子の身体を触っていただろうが! 私たちが見ていたぞ!」
火凛の怒声に、車内の乗客たちの視線が一斉にハゲ頭に集中した。
俺も立ち上がり、やんわりと女の子を身体ごとハゲ頭から引き剥がして、ハゲ頭に詰め寄った。
「なッ――!? ちっ、痴漢だと!? 突然何を言い出すんだ君は!? しっ、証拠はあるんだろうな!!」
「ああ、証拠ならここにあるとも。これから一緒に然るべき場所で確認しようぜ、おっさん」
今度は俺が手に持ったスマホをぷらぷらと振ると、ハゲ頭の顔が物凄い勢いで青褪めた。
あ、う……! と唸ったまま固まっているハゲ頭の身体を俺が押し、ホームに降ろしたところで、火凛が被害者の女子中学生の肩を抱いて降りてきた。
俺たちが登場したことで、とうとう緊張の糸が切れたのだろう。女子中学生の女の子は既に激しくしゃくり上げ始めていた。
「可哀想に、こんなに震えて……! でももう大丈夫だぞ、お姉さんたちがついてるからな。……駅員さん、ここにいるこの男は痴漢の現行犯です、逮捕してくださいッ!!」
火凛の人差し指が、まるで刀の鋒を突きつけるかのようにハゲ頭に向かって伸び、よく通る声が駅のホームに響き渡った。
既に正体を失い始めているハゲ頭が狼狽える間に、四方八方から複数人の駅員が駆け寄ってきて、ハゲ頭を取り囲んだ。
「さぁ火凛。この痴漢野郎に引導渡してやろうぜ」
「おう、そうするか」
俺たちは瞬時視線を合わせ、とてもいい表情で笑いあった。
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