夕陽に溶ける影は、二人の共同戦線
フォロワーさんと盛り上がって書くことになった短編です。お題は同じ──「ラッキースケベで即結婚!?」
じゃあその内容で書いたらどうなるのか?と挑戦してみました。
触れれば結婚。そんな世界で、隣に立つのは相棒だけ。
教室の扉を押した瞬間、空気が張り詰めた。
黒板に走っていたチョークの音も、机を叩くリズムも止まる。
転入生に注がれる好奇の視線は、鋭くもあり、どこか無関心でもあった。
深呼吸をひとつ。
その時、足元の椅子が不意に動いた。支えを失った身体が前のめりに崩れた。
視界の端に、男子生徒の姿。
膝が迫り、衝突は避けられない──そう思った。
だが次の瞬間。
椅子が鳴り、机が揺れた。
彼は身を翻し、宙を裂くように跳んだ。机の端を片手で押さえ、あり得ない角度で着地した。
私は床に倒れ込み、手のひらに鈍い痛みが走った。
『……不慮婚だと、今ので即結婚ルートだったわ』
低い声。
誰に向けられたでもない、ただの独り言。
けれど、その単語を耳にした瞬間、心臓が跳ねた。
聞き間違えるはずがない。
──不慮の接触は運命婚。
通称《不慮婚》。
私の世界で、一度だけ名前を見かけた発禁乙女ゲームのタイトルだ。
床に手をついたまま、思わず問い返す。
「……え? 今、なんて言ったの?」
彼は動きを止め、眉をひそめてこちらを見た。
その目には、驚きよりも探るような色が浮かんでいる。
胸の奥がざわついた。
けれど、声は飲み込んだ。
今すぐ問いただせば、何かを壊してしまう気がしたからだ。
ざわめきが戻る教室の中で、私たちだけが切り取られたように静かになる。
背筋に冷たい感覚が這い上がった。
同じ“知識”を持つ人間が、こんな場所にいるとは思わなかった。
痛む手のひらを撫でながら立ち上がる。
彼は机に腰を戻し、視線を寄越すでもなく窓の外を見ていた。
ただ一言、呟いただけのように振る舞っている。
だが、耳に残った単語は重く沈む。
《不慮婚》──この世界が、あの禁じられたゲームの舞台だと示していた。
問いただしたい衝動は胸に残ったまま、唇は動かない。
今はまだ、声に出すべきではない気がした。
ざわめきは完全に戻り、周囲はもう私に興味を失っていた。
それでも、彼だけはちらりと視線を寄越す。
目が合った瞬間、すぐに逸らされた。
冷ややかというより、探るような色。
何を隠しているのか──そう問われているようで、背筋が固まった。
授業が始まる。
教師の声は遠く、黒板の文字も霞んで見える。
ただ一つ、隣の席から漏れる短い吐息だけが、やけに鮮明だった。
ペン先が滑り、机からノートが落ちる。
ぱさりと音を立て、彼の足元へ転がった。
思わず手を伸ばす。
同時に、隣からも手が伸びる。
互いの指先が交差しそうになった、その瞬間。
彼の動きがふっと消えた。
わずかに肩をずらし、掌を引き、あえて触れないように拾い上げる。
机に戻されたノートが、すっと私の前に置かれた。
『……これも結婚フラグだったな』
冗談めかすでもなく、淡々と事実を述べる声。
胸が跳ねる。
聞きたくない単語を、また耳にしてしまった。
「……ありがとう」
努めて平静を装い、ノートを引き寄せる。
しかし、視線は勝手に彼へと吸い寄せられた。
彼は顔を上げず、ノートの隅にペンを走らせている。
表情からは何も読み取れない。
それが余計に、心の奥をざわつかせた。
昼休み、食堂はざわめきに満ちていた。
列に並び、ぎこちなくトレーを持ち上げる。
まだ慣れない感覚に手が滑り、器の中のスープが大きく揺れた。
危うく隣の生徒にぶちまけそうになった瞬間、横から影が走る。
彼が片足で机を蹴り、空を裂くように身体を翻す。
トレーを支え、零れ落ちる寸前で安定させた。
『……また即婚フラグか』
吐き捨てるような声。
周囲は何事もなかったように会話を続けている。
けれど、私の胸だけが強くざわめいていた。
午後の体育。
校庭の空気は熱を帯び、砂の匂いが靴底にまとわりつく。
整列した生徒の間で、私は緊張を隠せずにいた。
運動中の接触──それこそ、この世界で最も危険な場面だからだ。
掛け声とともに走り出す。
風に煽られた髪が視界を塞ぎ、前方の影に気づくのが遅れる。
転びかけた体は、そのまま隣の男子に倒れ込みそうになった。
その瞬間、背中を押すような力が走る。
彼が横から割り込み、肩を掴んで進路を変える。
倒れ込んだ先には、転がったボール。
衝突は免れ、舞い上がった砂が視界を曇らせるだけで済んだ。
『……危なかった』
「ほんとにね」
短く言葉を交わす。
心臓の鼓動はまだ速い。
笛の音で列に戻るとき、すれ違いざまに彼がぼそりと呟いた。
『この授業、罠みたいなもんだな。至る所にフラグが落ちてる』
「……やっぱり分かるんだ」
『お前もだろ』
目が合い、互いにすぐ逸らす。
それだけで、胸の奥に妙な熱が広がった。
高い棚から本が滑り落ちた。
分厚い背表紙が、頭上めがけて落下する。
反射的に目を閉じる。
だが、衝撃は来なかった。
本は宙で止まっていた。
片手で受け止めたのは、隣にいた彼。
もう片方の手で私の肩を押し、倒れ込みを避けさせている。
息を呑む間もなく、背後から別の影が迫った。
〈危なかったね。支えてあげるよ〉
整った顔立ち。
クラスでも人気の高い“攻略対象”のひとり。
腕を伸ばし、抱き留める体勢に入っていた。
だが次の瞬間、その動きは遮られる。
彼が身体を割り込み、本を棚に戻すと同時に私をぐっと引き寄せた。
第三者の腕は空を掻き、寸前で止められる。
『こいつはもう助かってる。……必要ないだろ』
低い声が空気を断ち切る。
攻略対象は一瞬目を見開き、腕を引っ込めた。
胸の鼓動はまだ収まらない。
本よりも、その一連の動きが信じられなかったからだ。
「……ありがとう」
『これ以上、勝手にルートに入らせない。……そういう約束だろ』
彼の声は冷ややかだったが、不思議と安心を与えていた。
本を棚に戻し終えた彼は、ため息をひとつ落とす。
私はまだ胸のざわめきを抑えられず、視線を宙にさまよわせた。
『……見ただろ。ああやって、どこからでも“結婚ルート”が仕掛けられる』
「……うん。私も何度か、危なかった」
声に出した瞬間、喉がひどく乾く。
互いに隠していた秘密が、ようやく言葉になり始めていた。
「放っておいたら、あっという間に誰かと結婚させられる。そんな世界なんでしょ?」
『ああ。俺は……生まれた時からずっと、これを避けてきた』
彼の目は鋭い。
けれど、その奥に滲む疲労と諦めが見えた気がした。
「じゃあ、これからも一人で全部回避するつもり?」
『……お前だって、一人で何とかしてきただろ』
返す言葉に、思わず口をつぐむ。
確かに私は、転移してから今日まで必死に耐えてきただけだった。
けれど──。
「でも、今日みたいに誰かが割り込んできたら……私、一人じゃ防げない」
震える声。
彼は短く沈黙し、やがて視線を合わせる。
『……組むか。お前と俺で』
「……回避のために?」
その言葉は、妙に重く響いた。
図書室の静けさが、余計に強調していた。
喉の奥で息を留める。すぐには返せない。
けれど──その選択肢を、もう捨てきれなかった。
「……考えさせて。けど、きっと……」
声はそこで途切れたが、答えはもう傾いていた。
放課後の廊下は人影がまばらだった。
彼は掃除用具を肩に担ぎ、淡々と歩いていく。
通りすがりの生徒が近づくたび、ほんのわずかに身体を傾け、腕の角度を変え──自然に距離を取っていた。
その動きに、私はようやく気づく。
癖ではない。生き残るために染みついた習慣。
結婚ルートを避けるため、幼い頃から積み重ねてきたものだった。
角を曲がろうとした瞬間、鮮やかなリボンを揺らす少女が駆けてくる。
〈あっ、ごめんなさい!〉
わざとらしい勢い。
彼にぶつかり、転倒して抱き合う──そんな筋書きが見えた。
彼も気づいたのだろう。
わずかに身体をひねり、横に跳んで避けようとする。
だが肩に抱えた掃除用具が邪魔になり、動きが遅れる。
このままでは間に合わない。
「──止まりなさい!」
私は咄嗟に前へ飛び出し、掃除用具の柄を横に突き出した。
少女の腕は遮られ、勢い余って床に倒れ込む。
振り返ると、彼は立ち尽くしていた。
いつもの素早い回避ではなく、初めて守られた側の顔をしている。
『……今の、お前が止めなければ……俺は捕まってたな』
「ええ。だから言ったでしょ、今度は私が守るって」
彼はしばらく黙っていたが、やがてわずかに笑った。
『……悪くないな。その言葉』
少女は床に尻もちをつき、悔しそうに唇を噛んでいた。
それでも周囲は誰も気に留めない。
廊下の空気は何事もなかったように流れていく。
けれど私の心臓だけは、まだ強く脈打っていた。
視線を向けると、彼がこちらを見ていた。
驚きでも安堵でもない。
ただ──長く張り詰めていたものが、少しだけ緩んだような顔。
『俺は、ずっと避けてきた。そうしなきゃ、生き残れなかったから』
「知ってる。さっきの動きで、全部わかった」
彼は肩に担いだ掃除用具を下ろし、静かに笑う。
視線が絡む。
あと一歩踏み込めば関係が変わってしまう。
それを二人とも分かっているから、足は動かない。
けれど、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
「……もし私がいなかったら、あなた、きっと誰かと結婚させられてた」
『逆もそうだろ。お前だって一人なら危なかった』
言葉の端に、照れを含んだ笑みが滲む。
ほんの少しだけ縮まった距離が、余計に胸をざわつかせる。
「……なら、これからも一緒に避けましょう。あなたと私で」
『ああ。結婚させられないための、共同戦線だ』
そう口にした瞬間、奇妙な安堵が二人を包む。
互いの存在が逃げ場ではなく、支えに変わっていた。
夕陽が廊下を染め、影がひとつに重なる。
距離は近いのに、決して触れ合わない。
──恋人じゃない。けれど、それ以上に特別な関係。
結婚ルートを拒むための誓いは、誰よりも強い絆になっていた。
「……あなたが隣にいると、怖くない」
思わず零れた言葉に、自分でも驚く。
唇を噛む前に、彼が短く答えた。
『俺もだ。お前となら、背中を預けられる』
その声音は低く、迷いがなかった。
胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
ふと気づけば、距離は手を伸ばせば触れられるほど近い。
視線を逸らす理由はなく、けれど見つめ合いすぎれば──危うく“別のルート”に落ちてしまう気がした。
沈黙を破ったのは、彼の小さな笑みだった。
『……でも、これは恋じゃない。俺たちはあくまで回避のための相棒だ』
「……そうね。その方が、ずっといい」
そう答えながらも、心臓の鼓動は収まらなかった。
夕陽が廊下を染め、影がひとつに重なる。
『……ありがとう。俺、初めて守られた』
「私もよ」
その一瞬だけ、この理不尽な世界が優しく見えた。
指先は触れなかった。
けれど、その距離こそが二人にとっての答えだった。
夕陽に溶けた影のように、二人の物語もまた静かに続いていくのでしょう。
同じテーマで書かれた えむさん の作品はこちら
「ラッキースケベで即結婚!? 乙女ゲームは断固阻止!」
https://ncode.syosetu.com/n4092lb/
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。