第7幕(Ⅰ) 山の麓にそよぐは・・・その馨香なる・・・。(前)
「ここは・・・。」
ルルディはこちらに挑戦的な在り方で彼女の眼前にそびえ立つ巨大な岩石のごときその岩山を見上げたが、その唇からは思わず呟きが洩れる。
皇都から馬車で五日程走った先にはモルティ山脈が大陸を縦断するかのように連なって聳え立っている。
そしてその大陸の血脈ともいえるその山脈が国境となっている故にこそ、それが皇国の左翼を担うことで皇国は周辺諸国からの侵攻に対して鉄壁の守りを誇っていたのであった。
モルティ山には闇があるとまでいわれるほど、その山の麓《暁の森》は人を拒み、そこに足を踏み入れた者はだれ一人戻ってはこないとまで言われている。
そう、皇家の者以外には。
「高貴なる光の女王陛下にご挨拶申し上げます。」
ルルディと護衛の聖皇騎士団からなる近衛親隊達を出迎えたのは、モルティ山を囲いこむように位置する辺境の地を守る家門アウリスティット伯爵家の当主とその騎士達だった。
「出迎え感謝する。辺境伯。久しいな。」
女王に膝を折って頭を垂れる辺境伯に、ルルディが声をかける。
「陛下。国境を守る身ゆえ、なかなか御前に参上できず。この不忠をお許しください。」
大きな体を彼女の前に折った伯爵が、ゆっくりとした、だが張りのある声で女王に敬意を捧げる。
「いや、全て承知の上だ。そなたたちがこの地を守ってくれるからこそ、皇家も、国の民達も安穏として暮らせているのだから。この地には感謝しかない。」
「陛下、ありがたきお言葉をいただき、光栄の至りに存じます。
さあどうぞ。我が館へご案内させていただきます。」
「うん。世話になる。」
女王ルルディは丁重な礼でもって辺境伯の館に迎え入れられた。
辺境伯の屋敷は堂々とした風情に包まれてはいてもそれは決して華美な造りではなく、時代に迎合しない旧邸宅風の館は不変の美しさとでもいう清澄な趣きを醸し出していた。
ルルディは女王の為にと念入りに整えられた二階の部屋の大きなガラス戸を開くと、そこに広がるバルコニーに足を踏みだした。
さああっと吹き抜ける風が彼女の頬に柔らかく触れた。
「ここは、心地よい場所だな。」
ルルディは、バルコニーから遠目に映るうっそうとした森が視界から離れないような錯覚を覚え、それを振り払うかのように瞳を動かそうと自分に言い聞かせながら辺りを見渡そうとした。
だが、どうしても剥がれないこれはいったい何なのか。
自分の胸の奥底に押し込めていた望郷の念のような、理屈ではない何かに焦がれるような思いに自分を見失いそうな、そんなあやふやななにかから自身を解き放ってくれるかのように螺旋に舞う爽快な風に自分を晒すことを彼女は己に許した。
幼い私。あまりにも儚い幼子であるだけの。
何も知らず、何も背負わず、何も恐れず、全てを愛しみながら生きる黄金の日々はどこかにあったのだ。
あったのだ、そう。
もう二度と戻れはしない、あの夢のような。幻のような時間は。
女王であるということは、総じてそういうことなのだと常に自分を納得させるような生き方で息をしてきた。
けれど。
理性では女王である己の責務に誇りを持つことで、と理解できていても。
ああ。
もしかしたら。
自分は、かつて自分に幸福の意味を教えてくれたかのようなこの場所を祈るかのように欲深く欲していたのだろうかと。
心の泉にふつりっと湧き上がったそんな認識が曲線美を描いて舞うかのごとくに自分の芯に浮かび上がってきた時、彼女は心の奥底に淀んでいた憂鬱なしこりがすうっと爽快な清浄に少しだけ融け出した気がしたのだった。
「失礼いたします。」
部屋を訪れた辺境伯の声で緩んだ気持ちが引き締められ、彼女は女王の顔に戻る。そして足早にバルコニーから部屋へ戻ると彼らにゆっくりと視線を向けた。
辺境伯の後ろに居たのは年配の落ち着いた女性だった。
「この国の光であられる陛下にご挨拶申し上げます。」
「顔を上げてくれ。」
「ありがとうございます。陛下。
神殿へ上がる”光日”まではまだ日がございます故、それまでは、どうぞ我が館にてお寛ぎください。」
相変わらずだな、とルルディは彼の言葉が耳に好ましい。
言葉を飾らず、用件を絞り込んだ辺境伯の物言いには彼の実直さがよく表れている。そして、そう、とても。とても朴訥ですらあるのだな、と心の内にクスリっと弾ける心地よさは、辺境伯の善なる善によるものなのだろう。
ああ、そういえば、と。
脳裏にふと兄上の言葉が思い浮かんだ。
「ルル。《暁の森》を抜けたその先はモルティ山の麓に続いているらしい。そしてそこに在るとされている神殿には神託に導かれた者だけが、神託によって開かれた”光日”にのみ上がることを赦されているのだよ。」
「館にご滞在中に陛下のお世話をさせていただきます者でございます。お見知りおきください。どうぞなんなりとお申し付けになってください。」
簡単に要件だだけ言って辺境伯はさっさと部屋を出て言った。美辞麗句も堅苦しい礼儀作法も彼の眼中はないことが妙な安堵をもたらす。
まったく、彼は相変わらずだな、とルルディの顔に好ましい苦笑が滲む。
さてと、とルルディは頭を垂れたままの女性に向き合うと声をかける。
「えっと、世話になるな。頭をあげてくれ。名は。」
「はい。侍女長のアミラと申します。陛下のご滞在中、お側に付かせていただきます。何なりとお申し付けください。」
「よろしく頼む。アミラ。」
ルルディはその年配の女性の謙虚な物腰にその女性の人間味を感じ出せる清潔感と、そこはかとなく漂うなにかを読み取った気がしたが、それがなんなのかを見極めることは難しいと悟る。
微かな不可解さが部屋に燻るような空気と化す前に、ルルディは会話を切り上げようと決めた。
これは。この不可解さは決して不快さをもたらさないという馴染み深い感覚が彼女を覆う、その心のままに。
「少し一人にしてもらえるか。」
「はい。では晩餐の前にお支度に参ります。」
侍女長は必要な言葉以外を発する事なく、ただただ最上の礼を捧げる丁重な作法でもって女王の部屋から立ち去ったのだった。