第5幕 蔓延るものは・・・・煩わしきかな。
「次の議題を」という言葉を待っていたかのように立ち上がったのはトリテエマク公爵だった。
あの即位式から二年が過ぎようとしていた。
ルルディがあの夜、即位式の祝宴で天花から生まれいでたかのよう神秘的に登場した衝撃は、会場の全ての者に畏怖と憧憬の入り混じった敬愛の念を呼び起こし、その熱はいまだ冷めやらず、といったところであった。
あの日まで若干幼いと称されていた十六歳という幼い年齢の少女であった彼女は、その夜に己に捧げられた忠誠に値する女王であるということを、ルルディはこの二年で皇国だけでなく大陸中に証明したのだった。
だが、内政が安定すると共にさざ波が立ち始める。
「麗しの我が女王陛下に国を憂う下僕の願いをお聞き届けいただきたく。」
末端でもなく上座にでもない座席位置の公爵を使うとは考えたな、と苦笑いをこらえながらもルルディは卓上に肩肘をつきその手を軽くトリテエマク公爵に振って発言を許した。
「感謝申し上げます。陛下。かねてより我ら臣下一同陛下のお心の支えになるべきお相手をと進言申し上げておりましたが、この度、大陸東の大国マーケラッシュ王国より陛下に求婚の使者が参っております。陛下には何卒この使者のお目通りを」
公爵の言葉を別の者がさえぎった。
「陛下には我が皇国のお血筋を持ってのご婚姻を結んでいただくべきでは?と何度も申し上げておりますよね。」
「それは公のご子息をご念頭のお言葉か?」
次々と口を開いて自分の我を述べる臣下達の話を耳に、ルルディは肘をついて足を組み窓の方にそっと顔を向けた。
「空が。 青い、な。」
彼女の心音のままに呟きが洩れた。
白い雲がゆっくりと流れ水色の空と遊んでいるようだ。
ああ。あの空は、私の空はもっと澄み渡っていたか・・・。
「陛下。」
彼女は自分のすぐそばに座っている兄が女王である彼女を見つめているのに気付き現実に引き戻された。
目と目で頷き合う。
「陛下。私から申し上げても?」
耳にストンと響く声色で諭すように言葉を繋ぐ宰相の発言に室内は静寂を取り戻した。
「陛下の婚姻については、皇家のしきたりにのっとり、成人の儀を迎えられる十八の年に横に並び立たれるべき、・・・」
宰相の言葉が耳に通りぬけていくのを流しながら彼女は顔を動かさずに視線だけで居並ぶ臣下たちを一瞥する。
淡々と。だが決して冷徹にではなく。
だが決して感情を込めずに静かな圧をかけるような物言いの兄上には誰も叶うまいな。
自分の婚姻のことが話されているのに。
人ごとのような気しかしない、とは。
ルルディは自分はいつからこんなに感情の薄い人間だったのだろうとふと思う。
女王としての責務に追われたこの2年は自分が時間に刷り込まれいくかのように目まぐるしかった気がするが。
だが、時間に追われながらもどこか別の所で別の自分が女王ルルディをじっと見ているような錯覚に陥る時がある。
いつから女王なのかと思うくらいずっと自分はあの玉座に吸い付けられているような錯覚に胸が浮き上がり、だがそれすらすぐ時間の波が引き下げていく。
女王とは難儀なものだな。
もはや女王でない自分を感じないとは。
記憶とは容赦ない生き物だ。
会議も終わり執務室で書類の山と向き合っていたはずが、いつのまにかぼうっとしていた自分に気付く。
「お疲れですか。陛下。お茶でもお飲みになりませんか。」
そしていつのまにか兄上は執事にお茶を用意させていた。
「そうですね。ありがとうございます。兄上」
うんざりするほどの山のような書類が置かれた机から立ち上がり、座り心地の良いソファに移動して楽な姿勢で腰掛ける。
兄が自分の手でティポットからカップにお茶を注いでくれる。
飾り気のない執務室を包み込むように温かな香りがひろがってゆく。
ティカップを持ち上げて立ちのぼるその香りを楽しむ。
ああ、心地よい香り。
私の好きな種類の茶葉の香りが鼻孔から体中に染みわたってゆくかのよう。
ほんとうに。
兄上はよく分かってくださっている。
「そんなに、疲れて見えますか。兄上」
「ルルディ、いや、陛下。」
「兄上。二人の時は「陛下」はなしですよ。」
「ええ。そうだったね。」と言って宰相閣下から私の兄に戻ってくれる。
「ルルディ。眠れているのか?最近遅くまで寝室にまで書類を持ち込んでいると聞いているぞ」
心配そうに私の顔を見ながら問いかける。
「まったく。メリーは本当におしゃべりだな。」
彼女は自分が悪いことをしたのを見つかった幼子のような気さえしてきて、そんな自分に苦笑いが込み上げる。
「メリーアンはお前のことが心配なんだよ。
大事なルルが食事も寝る間も忘れて仕事ばかりでやせ細っていく、とね。
宰相なのにお嬢様にばかりお仕事を押し付けるのですか、と私を無能呼ばわりまでして食ってかかってくるのだからな。」
メリーのお小言を想いだしたのか、兄上自身も自分の中にこみ上げる笑いを堪えながら揶揄い口調で言う。
そして私はその軽口にほっと安堵し、擽られるかのように疲れた身体も心もがほぐれていくのを感じた。
「もう一杯飲むか?」
と言って空になったティーカップに兄上が注いでくれた温かいお茶からまた優しい匂いが立ち上った。
「このお茶の匂いって、いつもなんだかとても・・・」
草原の風のような爽やかな温かさが疲れた心に染み入っていく。
ルルディは目を瞑ってほおっと安堵の吐息を漏らした。
少しだけでもリラックスした様子の妹を見つめながら、彼は先だっての国議会のことを思い返していた。
【 女王の婚姻 】
この国の、いや大陸中の国々が女王の親夫たる国婿の座を追い求めて様々な攻勢をかけてきている現状は事を急かすばかりで決して好ましいとはいえないだろう。
確かにルルが新女王になった即位式のあの夜、この皇家がいままで噂には語り継がれていたものの、決して表にはでることのなかった秘された聖魔士達の力をまざまざと見せつけるかのように、漆黒の夜空に星よりもあでやかにルルディを華咲かせたあの時から、賢明な者達にはこうなることは予想できていたのだ。
ルルディを、神秘なる神の天花と詠い語え伝える人々は、それに伴う絶大なる力を欲してやまないのだから。
しかし、とまた私は同じ問いに戻ってしまう。
「なぜ、彼らは、そう彼らが、何ゆえに姿を現したのだろう?」
あの夜の衝撃が収まった後、私の中にこだまし続けるこの疑問にいまだ答えは見つからない。
「兄上。私が神殿に向かう日に、母上にご挨拶を差し上げたいのですが。」
少しくぐもった声に思考を遮られた私は、兄である私を見つめるルルディの瞳に少しばかりの不安を読み取った。
「母上か。しかし、ルル。前女王であられる母上は誰にもお会いにはなれないのだよ。」
自分が妹をすこし宥めるかのような声色になっているのを自覚しながら、ゆっくりとした口調で言葉を返す。
「ええ、そういうしきたりなのですよね。知っています。でも。私はしきたりは是々非々を重んじるべきかと。悪しき慣習は。」
と言いかけたルルディは兄が困ったかのような顔つきで微笑んだのを見て、口を閉じた。
今まで二人の間で何度も、何度も論じようとしてきたこの問題。皇家のしきたり。
『女王がその座を退いたのち、彼女は天母となる、という伝承から、退位後、前女王は決して人前には出ず、その命が尽いるまで隠宮にて暮らすべし』
まったく、なんというばかげた慣習なのか。
そもそも、物心ついた時から私には母上との時間を過ごした記憶などないというのに。
母上は常に女王の責務に時間を追われていて女王は子の母ではなく、常にこの国の母であった。
そう女王は、この国を民の為に生きるべく全てを捧げて生きる。
私はそんな母上を子供心に誇りに思い、決して子どもじみた甘えを見せないように努め振舞っていた。
それ故にかその当時の自分には喜怒哀楽すらなく、ただ振舞うべく振舞う皇女としての自分という記憶が自分に張り付いているかのような錯覚すら覚える。
そんな私の子どもらしからぬ大人びた振る舞いの奥底にある寂しさを、兄上だけは感じ取ってくださっていたのか。
兄上はいつも努めて私の側に寄り添ってくださっていたような気がする。
そして今、自分の目の前でそんな兄上の困惑する表情を見つけてしまった私には、これ以上の諍いの予兆に対峙することはとても耐えられない。
「兄上。
母上にはまたの機会を得ることにいたします。神殿から戻りましたら、またぜひ。」
これについて論じましょうと、いうささやかな私の反抗心を兄への敬愛という温もりに包んでひとまずは兄に預けようと、私は妹のルルディとして幼い心で微笑んだ。