第10幕(Ⅱ) 夜の護り人(後)
「建国の神話はこの前、話したな。」
いつもの夜と変わらない、ぶっきらぼうなその物言いで言葉を放ってくる。彼の声のトーンがすうっとルルディの脳裏をそよがせるかのようにルルディを今(現実)に引き戻した。
「ええ。」
彼女は彼の方に顔を向けながら軽く頷く。
兄上にさえこんな風に話すことは無い気がする。
彼女はふと自分がまだ知り合ったばかりの人間にこんなにくだけた物言いをしていることに奇妙な可笑しさを感じた。だが、そんな自分が嫌ではない。
そんな矛盾に自分が浸っていることが不思議なことに不快ではない。
そう、むしろこのくすぐったいような温かさはなんなのだろう。
彼女は自分の瞳にくっきりと浮かぶ彼のその瞳に薄っすらと映し出される自分自身を見つめながら、自分の中でふんわりとゆっくりと色が入り混じって無彩の世界が有彩へと刷新されていくかのような感覚を覚え始めていた。
彼の淡々とした話しぶりとは対照的に、その口から零れる語彙の端々にはその者の造詣が深いことが迸っている。そんな語り口で様々な神話を彼女に伝承する(つたえる)彼は、ルルディ(わたし)を女王としてではなく、まるで学びを乞う年下の教え子のように扱う。
そう、年相応の学生のように扱われること。
それが今の私には無意識の内に心を弾ませるほど嬉しいことなのかもしれない。
いままで、誰も私にそう接した者はいなかった故に。
私が女王である限り、私を取り囲む関係は必然の在り方となり、それは女王である故にという在り方となるのは当然ではあるのだが。
「神殿・・・については? なにか知ってる?」
今回の大仰な御幸を引き起こした原因といっても過言ではない”神託”という名の神殿からの招聘。
ルルディは、この辺境の地に自分が呼ばれた理由に見当がつかないまま、この地に足を踏み入れている今も尚、自分が答えの見つからぬ問いに絶えず翻弄され続けているという自覚を噛み締めていた。
神殿は聖魔塔と同じくらい秘されている場所であり、その正確な位置も、その内実も皇家の長い歴史の中ですら表面的なことしか伝承されてきていない。
予めの知識のない未知の場所へ、神託~神の言葉と称される大仰なものを拾いに行くのだから、一国の女王としての政治的な観点、その立ち位置を把握しながらの言動、その責務を貫く為に推定される己自身に女王の自負はあれど、それでもやはり心のどこかに不安が芽吹いていたのも確かだったようだ。
自分自身の胸の内を凝視するようにそこに在る彼女を、少し感情の籠った彼の声が引き戻した。
「大丈夫か?」
いつの間にか俯き加減になっていた自分にハッとしたルルディが咄嗟に顔を上げたその先で、彼が彼女を見つめていた。
きれい。
なんて、綺麗な。
深い、緑?
黒曜石のような黒い瞳が光の反射でかその奥に夜の泉のように煌めいて見える。
じいっと私の瞳を見つめる彼。
私を気遣う言葉、それより更に彼のその瞳の中に言葉では言いかねる何か切なげな情が垣間見えた気がしたのは、錯覚だったのだろうか。
「ぼっとしてるな。眠たいなら、帰って寝たほうがいいんじゃないのか。」
彼の口ぶりが、またそっけないものに戻る。
ふふふ。この人は。
なんだか胸に沁みこんだ温かいものが気持ち良い笑顔に変わる心地よさが染み入って来るかのよう。
「うん。大丈夫よ。それより神殿をどう思う?」
「文献によれば、神が始祖にこぼした光の祝福、それが大陸が興り人が生まれた所以、という話はしたな?」
ルルディは首を縦に振って頷く。
「神はその光の雫を地に降ろす時、雫が消えて亡くならぬように、守護を置いた、と建国古記には記されている。」
「守護?」
「そう、神の剣として光の雫を守る為に聖魔の力を与え、神の結界を張ることで光が光たるべくその儀式をもって守護の力を発揮する神の盾。
神は光の雫を守るために二つの守護力を地に与えたんだ。」
ルルディの中で物事の合点がいく透明感が豪快な爽快さとなって、すうっと男の話が芯まで浸透していく。
「つまり。聖魔士の力と神殿の力はどちらも・・・」
「そうだ。皇国が興った時に神が皇家を守るために置いた守護の力だ。」
「でも、代々の文献によれば、その二つの勢力は決して相容れない要素で成るため、拮抗する関係を続けていると。」
「そもそもの目的は同じなのだがな。
どちらも守護者であり、互いに守りたいものも同じ故。
だが、歴史に揺蕩う時と共にあらゆるものが、たとえそれが真実であれ虚実であれ、その流れの中で変遷されていくのが常ということか。
時代のどこからか、なにかしらが原因で至っていった、その果てが現在ということだろう。」
「ふうん。」
ルルディは皇城に保存されている蔵書の数々、皇家にのみ伝承されてきた文献を読み漁ってかなりの知識を己の内に取り込んでいる自信があったのだが。
だが実はそれがあまりにも表面的な、上辺に塗りつけられたような継ぎ接ぎだらけの事柄の上澄みのようなものでしかないのかもしれないと、彼の話を聞けば聞く程、彼女の中は何度もそう感じざるを得なかった。
「これほどの知識を、何故皇城図書館で有していないのだろうか。
大陸中で最も知識を蓄えた図書館という名さえもが恥ずかしいくらいだな。」
呟くように彼女の口から零れた言葉を、彼は素知らぬ顔で捨てさせることなくさらりと応えて言った。
「中央に全てを蓄えるのは、実に危険だと思わないか。
もし、愚鈍な王族、国婿が、万一歴史を塗り替えようとしたら?
国を脅かし、真の文献を焼き払うことすらやりかねないかもしれない。」
「そんな、ことは。決して許しはしない。」
ルルディの胸に怒りがこみ上げる。
「誰が何を思い、どう動くのか、いつの世もそれだけは決して誰にも読めないものなんだ。
そう、その人自身にすら・・・」
呟くように言いかけた言葉を呑み込むように語尾を霧散させながら、彼はルルディの頭をポンポンと撫でた。
「だから、この始祖の地、国の守護たる辺境の者達の生きるこの地に、真実は伝承される。
これもまた、神の意思なのかもしれないな」
「神の意思か・・・。」
彼の言葉を唇から洩らしながら、ルルディはその言葉の余韻が消えぬままに、彼女自身がその深淵を反芻するのだった。