第8幕(Ⅰ) 黄金の鳥は羽搏く(前)
「これほどの・・・」
思わず感嘆の声が漏れる。
伯爵夫人の案内で足を踏み入れた途端に彼女の視界は圧倒された。
建物の中央は屋根に向かって吹き抜けの造りとなっていて、壁一面が天井までといっていいほど書棚になっていた。
この屋敷の庭園の奥に位置するこの図書が所有する蔵書の数はざっと見回しただけでもかなりのものだろう。
その場所が一般的な貴族の図書室とは異なっていることは一目瞭然だった。
本を好む人間なら胸躍るだろうという予想を裏切らないほどの、書物の、紙の、インクの匂いが香ばしいとうっとりするようなそんな、書物の宝箱のような場所だった。
驚嘆と感嘆が交差しながら胸に染みわたって女王であるという集中の途切れたルルディを、その側で好ましい視線を向けて見守っていた伯爵夫人が、ルルディの様子を見計らったかのように軽い口調で言葉を零した。
「ふふふ。こんな辺境の地にと驚かれたのでは?」
興奮の熱気で頬をうっすらと染めたルルディが伯爵夫人の方に顔を向けると、伯爵夫人は無防備にこちらを見つめ返すルルディににっこりと微笑んで言葉を繋いだ。
「わたくしは本を読むのが大好きですの。
ここにはあらゆる分野の書籍がございますわ。
陛下。大陸のあらゆる首都で流行っている恋愛物語も最新刊まで全て揃っておりますよ。
ふふふ。
わたくしも世の常の貴婦人達と同じように我儘を通してしまうのですわ。
だた一風異なっているのは。
わたくしが貪欲に夫にねだるのは、宝石ではなく書物ですの。」
実に穏やかな、だが歯切れよい口調の伯爵夫人の話しぶりには、こちらの好ましくさせる茶目っ気を載せた笑顔が溢れ出ていて、まるで少女のような彼女の一面が垣間見えた。
この美しく年を重ねたのであろう彗敏な女性と、繊細さとは無縁のような実直剛健な辺境伯とが夫婦であるということがルルディにはなんとも理解しがたい数式のように摩訶不思議に感じられるのだった。
これほどの美貌を持つこの麗しく聡明な女性ならば、おそらくは皇都の社交界でも大輪の華として崇められるであろうに。
そんなルルディの思いを読み取ったのかのように、伯爵夫人が顔を綻ばせながらルルディに温かい笑顔を向けた。
「陛下。わたくしはこの土地を愛しております。始祖の光の雫と讃えられるこの古き土地は決して豊かではありません。
けれど。そう、あらゆるものが・・・誠実なのです。人も、自然も。」
伯爵夫人の言葉はまるで夜を懐に抱いて揺らす月の光が微笑む子守唄のようにルルディの心までもあやすかのように響いてきた。
「誠実か。まるで、辺境伯そのものだな。」
思い浮かんだままに口から漏れたルルディの呟きに、伯爵夫人はふんわりと微笑む。
そしてそのまま自分の感情に溶け込んだルルディは解答を見出したかのように言葉を零した。
「あなたは。彼を、愛しているのだな。」
女王として他者の私情に踏み込むことは禁忌であると、きつく自らに課してきたその一線を無意識の内とはいえ踏み越えてしまった自分に彼女自身が驚きを隠せない。
そしてその衝撃と女王らしからぬ言動を取ってしまった己の不甲斐なさに動揺している自分を持て余したままではあったが、ルルディは俯きつつあった自分の顔をぐっと上げて伯爵夫人に瞳を向けた。
「そうでございますね。彼と結ばれることは、わたくしが選んだ祝福。
光の果ての運命、なのかもしれません。」
ルルディの困惑など全く気付かぬ態で、伯爵夫人はルルディを慈しむかのような柔らかな瞳で見つめながらルルディの独り言のような問いに応えたが、ルルディはすぐには言葉を探せなかった。
不快ではない少しばかりの沈黙が流れた後に、吹き抜けの天井から風が通り抜けるかのように静寂を破ったのは伯爵夫人だった。
「おそれながら、陛下。此度の神託が下る(くだる)ことを、なにかしらお心の内で御憂慮されていらっしゃるのでは?」
神託。そう、神託、それは大いなる。聖なるそれは。
ああ。確かになにかしらの、というそのもの。
それが神託であるのだが。
ルルディの思いは、記憶が頁をめくりこの行幸の発端へと遡っていくままにそこに身を沈めるのに己を任せた。