新しく、歩いていく
この作品は、拙作『私が見た悪役令嬢の追放劇は、彼女自ら選びとったものだった』(https://ncode.syosetu.com/n1504ko/)のスピンオフ作品です。
もしよろしければ、より本作が楽しめるかも知れませんので、読んでみて下さいね。
「アニェッタ・ノルデグレーン伯爵令嬢。ご自分では何もなしていないのに、どのような根拠があって、そんな傲慢な態度をとるのです?」
「――っ!!」
全身がこわばった。
何とかやり過ごせていると思っていたのに、最後の最後で見とがめられてしまった。
今から私は、鋭利な刃で切りつけられるように、言葉によって心を削がれていくのだ。
学園生活の最後にして、この仕打ち。やってしまった――。
それは、卒業を祝う謝恩会でのことだった。
私、アニェッタ・ノルデグレーンは、うっかりやってしまった。
だって、学園には侍女や侍従なんていないもの。
謝恩会だから、今日で最後だから。
少し浮かれてしまっていたのだ。つい、家で侍女に接するような態度がでてしまった。
あのひとは絶対に嫌うって解っていたのに。
気を付けなければいけないと思っていたのに。
華やかな会場、美しい衣装。そんな高揚感をはらんだ雰囲気に飲まれ、油断してしまったのだ。
「ちょっと、早く拭きなさいよ」
食べ物が皿からこぼれ落ちたとき。近くを歩いていた給仕を呼び止め、咄嗟に言ってしまった。
普段、家ではそうしていた。侍女にも、侍従にも。
それが当然で、正しい振る舞いだと信じて疑っていなかった。
だって、厳格な両親は何も言わなかった。
私が、侍女に怒鳴る姿を何度も見ていたはずなのに。
ふたりが何も言わないなら、問題のないことなのだと思っていた。
伯爵家の令嬢と召使い、身分が違うのだから命令するのが当たり前。
顎で使う関係が自然だと。そう、思っていた。
なのに――。
彼女は、それが間違いだとはっきりと言った。
まるで刃のような言葉で、私を斬りつけた。
冷静に、情け容赦のない瞳で、勘違いするなと。
春の夜のはずなのに、頬を撫でる風がひどく冷たく感じた。
私は、ぶるりと震えた。
アストリッド・トリストシェルン公爵令嬢。王国随一の名門公爵家の一人娘。
長く、美しい銀髪は絹のように美しく、艶めいて輝いている。
端正な顔に大きく占めるのは、吊り目がちの勝ち気な瞳。コバルトブルーの瞳は澄んだ泉のようだ。
すらりとした肢体は男を惑わすというには多少物足りないかもしれないが、それでも充分なほど、なよやかにカーブを描いていた。
肌の色艶は、豪奢な白銀のドレスを通して光り輝いている。
磨き上げられた美しさと漂う威厳。
同じ学園に通っていたというのが、今でも不思議なくらいだ。
そんな、舞台に立つ女王のような彼女が、私を見据えている。
「……みなが貴女を敬っているのは、貴女の“血”に対して、ですの。今の貴女に敬われる価値など、ひとつもなくてよ」
「なっ……っ!」
胸に突き刺さる言葉が猛烈な痛みをもたらす。
泣きそうになるのを必死でこらえる。
彼女は、学園に入学して以来ずっとこんな調子だった。
誰かの過ちを見逃さず、正確に、痛烈に、突きつける。
それが正論だと誰もが分かっているのに、反論できないほどに完璧だった。
私は、いつもそれを遠くから眺めていた。
やり込められる学友たちの姿に、どこか他人事として安堵していたのかもしれない。
ついに、自分の番が来てしまった。
想像以上だった。これほどまでとは。
「何もしていない貴女が、その成果を当然のように手にし、威張り散らすのは、盗人の発想というものですわ」
「ぬすっ……!?」
なんてことを言うのだ。
五代百年続く、栄えある北方の雄・ノルデグレーン家の娘に向かって、「盗人」とは――。
しかし、本能が込み上げる怒りを抑えた。
相手は公爵令嬢だ。格も財も兵も、すべてにおいて私の家は劣っている。
貴族という生き物はどれだけ屈辱を与えられても格上に逆らわない。悲しい習性を持つ生き物なのだ。
けれど、逆らえないことが逆に命拾いした。これが子爵や男爵が相手なら即、私戦を始めるくらいの侮辱だった。
「……もし、貴女がその果実を望むのならどうすべきか、それすら分からないというのでしたら、一から教えて差し上げましょうか?」
「……っ!」
言葉よりも、その言い方が胸を抉った。
急激に怒りが冷やされてゆく。
抑揚のない、冷ややかで理性的な声。
それが、どうしようもなく怖かった。
「大丈夫だよ」
震えている私の肩を、そっと級友が抱いてくれた。
「つらいよね」
「ひどいよね」
遠くで、王子殿下が何かを言っている。
そうじゃない。
私は、大丈夫。
つらくも、ひどくもない。
ただ、怖かったのだ。
優しく言ってくれていたら、受け入れられたと思う。
もっと穏やかに伝えてくれたなら。
私は、こんなにも泣きたくはならなかったと思う。
***
「アストリッド・トリストシェルン、お前との婚約を、今をもって破棄する!」
その言葉は、広間の隅々まで響き渡った。
王子の声は朗々として、どこまでも澄んでいる。まるで、演説でもするかのように。
――ああ、やっぱり王族って話し方も訓練されてるのね。
湧き上がる歓声の中、私はそんな場違いなことを、ぼんやりと考えていた。
そしてそれを、この場で言うのね、とも思った。けれど、もしかしたら“この場”だからこそ、なのかもしれない。
トリストシェルン公爵令嬢が、王子に嫌われていたのは公然の事実だ。
彼女の態度はいつだって容赦がなく、言葉は鋭かった。
失敗や未熟さを見つけては、誰に対してであろうと――それが王子であっても――、遠慮なく刃のような言葉を投げつける。
私だってついさっき、それを味わったばかりだ。
たしかに、彼女の指摘は正論だった。
でも、だからといって、そのまま伝える必要があるのだろうか。
正しければ、何を言ってもいいのか。
人は、感情で生きている。理屈だけでは納得できないこともある。
それに、あのきつい物言いに、心を折られた同級生が何人もいた。結局立ち直れずに、留年してしまった子だっている。
……あれ?
私はふと、自分の考えに引っかかりを覚えた。
正論。感情。言い方の問題……?
それはつまり――。
広間では断罪劇が続いている。
誰もが興奮し、胸を高鳴らせ、まるで、芝居を観ているかのような表情を浮かべていた。
あの“気に食わなかった令嬢”が、どんなふうに追い詰められていくのか、見届けたいのだ。
罵倒され、縋り、泣き崩れれば最高。
そんな期待に満ちた目が、彼女に注がれていた。
ただひとり、苦虫を噛み潰したような顔をしているのは、オードゥン・ヴィトナール男爵令息だった。
トリストシェルン様の幼なじみであり、私たちの間で唯一、彼女とまともに会話ができる数少ない人物。
その彼でさえ、今は言葉を失っていた。
「……いっそ、追放してくださいませ」
声色には、怒りも悲しみも感じられない。
静かで、冷ややかな。まるで用意されたセリフを読み上げるみたいに、感情の薄い言葉だった。
本来なら王子がその言葉に応える義務などない。
婚約破棄を告げた時点で、あとはどうなろうと知ったことではないはずだ。
でも、会場の空気がそれを許さなかった。
同級生たちの“ケリをつけてほしい”という視線。
観客としての欲望と、断罪された者への制裁を求める喝采の声。
王子は、頷かざるをえなかったのだろう。
断罪には、追放がつきものなのだから。
「……寛大な処置、感謝致します」
その一言とともに、すっと広間から音が消えた。
つい先ほどまで罵声や歓声が飛び交っていた空間が、彼女の美しい一礼によって、凍りついたように静まる。
誰もがその優雅な仕草に言葉を、視線を奪われてしまったのだ。
かく言う私も、ただ見惚れていた。
作法の先生も、王宮の夫人たちも敵わない。
あれほど気高いお辞儀を、私は二度と見ることないと思う。
ためらいなく去っていく背中には悲しみも、後悔もなかった。
そこにあったのは、静かな自信と、晴れやかな解放感だけだった。
……どういうこと?
私は、思わず首をかしげた。
頭に血が上ったときに、水をかければこんな感じになるのかな。
夢のような興奮はどこかへ姿を消し、行き場のない戸惑いだけがそこに残っていた。
あれほど素敵な令嬢を、私たちは、追放してしまったのか。
つい先ほどまで好き勝手に罵っていた人々が、今では沈黙し、気まずそうに目を逸らしている。
王子とその側近たちも、複雑な表情だ。
整った眉が八の字に歪み、正解が解らなくなったかのような顔をしていた。
その空気を破ったのは、やはりと言うか、オードゥン様だった。
発言を求めると、王子はどこかほっとしたように大きく息を吐き、頷いた。
彼は、振り返って私たちを見やる。困惑する私たちに、語りかける。
「――私たちは、誤解していたかも知れません」
そうやって話を始めるから、長々と話し出すのかと思っていたのに、いきなり話を振られて変な声が出てしまった。恥ずかしい。
オードゥン様は私たちに語りかける。
彼女は、追放という代償を受けた。
だからこれ以上、彼女を責め続けることに意味はない。
しかし、心に残った傷はそう簡単に癒えはしないだろう。
それでも、私たち自身が傷付けられたあの言葉たちを、良きものだったとして“再定義”したなら、前に進めるはずだ。彼女をこれ以上、責める必要はなくなるはず。
「うう……ん?」
相変わらずオードゥン様のお話は良く解らない。過去にトリストシェルン家で進んだ教育を受けたせいか、難解な言葉遣いをされて困ってしまう。
「つまり……アストリッド様は、私たちのためを思っていたってこと?」
「きつい言い方を選んだのは、忘れられないようにするため……?」
「でも痛みの記憶って、残るものだから……」
友人たちと小声で言葉を交わしながら、少しずつ、言葉をかみ砕いてゆく。
私の場合なら、たぶん「もっと謙虚に。努力を怠るな」かしら。
そういうメッセージだったと考えた方が良い、と?
もちろん、真意は確かめようがない。
彼女はもういないのだから。
だからこそ、好きなように解釈して良いはずだと。彼女と違って、私たちには未来がある。
その未来へ気分良く歩むために、言葉の意味をポジティブに考えよう。
そうすれば、彼女を恨む必要はないはずだ。
「なんて……」
なんて、都合の良いことを。
そう思った反面、すごくひたむきで、孤高な忠誠心だとも思った。
はっとした。もしかしたら、これこそが彼女が私に言いたかったことなのかも……。
主が舞台から退場してもなお、庇ってくれる部下がいる。これってオードゥン様がアストリッド様個人に敬意を払っているってことよね。
じゃあ私はどう? 私に丁寧に接している人たちは、私がもし、何らかの理由で処罰されたとして、こんなにかばってくれる?
みんな、私個人に敬意を持っているわけじゃない。ノルデクレーン家に対して敬意を払っているのよ。
ノルデクレーン家が貴族でなければ、私なんかに丁寧に接するわけないのよ。
なるほど。私は、侍女が従う意味をしっかりと意識しなきゃいけない。
私自身に対して敬意を払ってもらうよう、努力しなければいけないんだと。
すとんと落ちた。
もちろん、これが彼女の真意かどうかは解らない。でも、こう考えることで私は、将来に向かって頑張ろうと思える。
そういうことなのね、オードゥン様。
感動して顔を上げれば、なんとオードゥン様の旗色はかなり悪そうだった。オードゥン様を見る周囲の目が厳しい。
……やれやれ。貸しひとつですわよ?
「やり返す相手がいないのでしたら、仕方ありませんわね」
少し恥ずかしかったけれど、私は救われたから、オードゥン様に乗って差し上げることにした。
だってその方が、建設的だもの。
これから頑張れるやり方だと、思えたから。
まぁ、でもいつか、一言ぐらいは言ってやらないと、気が済まないかもしれないけれどね。
***
黄金のシャンデリアが、天井の鏡にまばゆい光を跳ね返す。
壁際に並ぶ巨大な花瓶には、王国各地から運ばれた珍しい花々が惜しげもなく飾られ、甘く気品ある香りを漂わせていた。
王立の楽団が奏でる演奏は控えめで、それでいて優雅に華やかに。
ここは、まさしく夢にまで見た“社交界”――貴族の世界の中心だった。
私は、アニェッタ・ノルデグレーン。
今日が、私の社交界デビューの日だ。
社交界といえば夜会が有名だが、昼間に催されるものもある。
お昼に開催されるのは、舞踏よりも会話に重きを置いた、より知的なもの。
少し心配ではあったけれど、私は舞踏に自信がなかったので、むしろこちらの方が向いていると思った。そうして、参加の許可をいただいたのだ。
頬にはほんのりと薔薇色をさし、胸元にはノルデグレーン家の家紋が入ったブローチを添える。
ドレスは母の助言で選んだ、アイボリーと水色のグラデーション。
控えめだけれど、決して地味ではない。
しっかりと「伯爵令嬢」に見えるよう、背筋を伸ばして一歩ずつ踏み出す。
礼儀作法も、話し方も、表情も――すべて、復習してきた。
あの夜、アストリッド様の言葉を受けた私は、胸を張って立てるよう努力してきたつもりだった。
私は、周囲の視線に笑顔で応えながら、できるだけ自然に振る舞うよう心がけた。
目の前を通りかかった令嬢たちに小さく会釈する。
見知った顔もいた。学園で何度か話したことのある子たちだ。
でも、せっかくの社交界デビューなのだから、知らない人とお話して人脈を広げなければ。
私は、勇気を出して一歩、声をかけてみる。
「まあ、公爵夫人。素敵なお召し物ですわね。ドレスのお色がとてもお似合いで――」
「あら、ありがとう。ごめんなさい、どちら様でしたかしら?」
「アニェッタ・ノルデグレーンと申します。以後、お見知りおきを」
「ああ……伯爵家には、珍しい色合いかもしれませんわね」
「えっ……」
固まってしまった。伯爵家って、私のことを知ってるんじゃない。
伯爵家には珍しい? 伯爵家には望むべくもない色合いだと、優位性を主張しているということかしら。
柔らかな笑顔で知らんぷりをし、穏やかな口調で嫌味を言って優雅に立ち去る――これが、社交界?
勇気を出して声をかけても、軽くあしらわれてしまう。人脈を広げるどころではなかった。
「まあ……どなた? あら、失礼。あなたのご家門に、見覚えがなくて」
「アニェッタ・ノルデグレーンと申します」
「あらあら。こんな場にまでお顔を出されるとは、近頃の社交界もずいぶん“開かれた”ものですわね」
上品な笑顔を保ちながら、優雅に振る舞い、言葉には軽蔑を込めて。
今度は、アプローチを変えてみる。
「お隣、よろしいかしら?」
「今、お席を探していまして……」
そそくさと離れていった。
さすがに、心が曇っていく。
伯爵令嬢って、そんなに位が低いものだったかしら。
公爵の次が侯爵、その次が伯爵――のはず。
子爵や男爵よりは上のはずなのに。
さきほど逃げていったのは、たしか子爵夫人だったような……。
ああ、そうか。子爵だから嫌味が言えず、代わりに距離を取ったのかしら。
……いけない、冷静にならなくちゃ。このままだと落ちていく一方だ。
ひと息入れよう。
飲み物でも飲んで、リラックスすれば、良い方法が思いつくかもしれない。
私は、テーブルに置かれたカップを手に取ろうとして。
「きゃっ……」
なんと、ドレスの裾を踏まれてしまった。
ぐらりと身体が揺れ、ティーカップの中身が跳ねて、手袋を濡らす。
それだけで済んだのは、幸運だったかもしれない。
けれど、どうも今日は、すべてがうまくいかない。つらい。
「もっ、申し訳ありませんっ!!」
慌てて深く頭を下げる給仕の少女。
顔を真っ青にして、全身を震わせ今にも泣き出しそうだった。
「……大丈夫よ。でも、気をつけて」
言葉にしてみたものの、優しくは言えなかった。表情も、きっと固まっていた。
その様子を見ていただろう近くの令嬢たちが、ひそひそと何かを話している。
「ちょっと見た?」
「あれって……」
聞こえるようで聞こえない、けれど確かに“刺す”ような言葉たち。
私はそっと目を伏せ、濡れた手袋をハンカチで拭いた。
今日はもう、帰ろう。
すべてが逆風だ。
これ以上ここにいるのは、危険だ。
ごめんなさい……。
部屋に戻ると、着慣れないドレスの締めつけがいっそう重たく感じられた。
髪をほどきながら、鏡の前に座る。
整えていたはずの化粧も、目元が少しにじんでいた。
気づかれなかったと思いたいけれど、自信はなかった。
「……あれが、社交界」
つぶやくと、苦笑が漏れた。
夢を見ていたのは、甘かったのだろうか。
社交界とは、嫌味の応酬で成り立つ世界だったのか。
ため息が出る。
お母様に、どう申し開きをしよう。
「途中で逃げて帰ってきました」なんて、言えるはずがない。
そのとき、扉をノックする音がした。
「失礼いたします。本日は……申し訳ありませんでした」
入ってきたのは、昼間、私に付き添っていた侍女だった。
「なにが?」
私は首を傾げた。彼女に責めるようなことはなかったはずだ。
「私が……しっかり周りを見ていれば……お嬢様のドレスを、踏まれるようなことは……っ」
「ああ……」
責任を感じているのね。
顔を伏せ、すすり泣く彼女に、私はどう声をかけていいか迷ってしまった。
だって、彼女の言うことは、正しいのだ。
侍女の務めには、主人を守ることも含まれている――それは事実。
でも、起こってしまったことは取り返せない。
私としては、許してあげたい。
でも、許すことでお父様やお母様がどう思うか。
それがまだ解らない。解らなくなっていた。
私は学園を卒業したばかりで大人のルールなんて、ろくに知らないから。
自分の考えに従っていいものかどうかも、解らない。
だからこそ、軽はずみに何かを言ってはいけない――そんな気がした。
侍女が退室したあと、私はカーテンを開けて夜空を見上げた。
満月が、雲の切れ間から静かに顔を覗かせていた。
その光はやさしかったけれど、胸の奥は冷たいままだった。
私はやはり、どれだけ頑張っても誰かを傷つけてしまうのだろうか。
あの夜。
アストリッド様に叱責された、あの夜。
あの人の言葉が、思い出される。
「今の貴女に敬われる価値など、ひとつもなくてよ」
……そうね。本当に、そう。
横を向くと、鏡に映った自分がいた。
問いかけるように、そっと口を開く。
「どうすれば、よかったのかな……」
当然、鏡の中の私は、黙って私を見ているだけだ。
「私は、アストリッド様のようにはなれない……でも」
――なれたら、いいのに。そう、思ってしまった。
「寝よう……」
布団にもぐりこみ、目を閉じる。
私は、眠りにつくまでの間、静かに月明かりを感じていた。
***
「アニェッタ、一体どうなっているのかしら?」
「……申し訳ございません」
「あなたは、ノルデグレーン家名に泥を塗ったの。解っているの?」
「それは……はい」
やらかしてしまったことは理解している。
でも、どれだけあの場面をやり直したとしても、あの時の私には、無様に逃げ帰る以外の選択肢はなかったと思う。
言い訳になるけれど、社交界があんな恐ろしい場所だとは知らなかった。
マナーやルールは学んだけれど、社交界がああいった貴族としての“格”を示す場所だなんて、事前知識がなければ解るはずがない。
社交界って、知識階級が、お互いの知見をつまびらかにして、深めあう場所だと思っていた。
てっきり有意義な話ができるものだと。
その中で立ち居振る舞いや話し方など、さりげないところのスマートさや気遣いが評価され、認め合うものだと思っていた。
単に、初めて参加する者に厳しいだけなのだろうか。
昨日ちらりと見かけた同級生はどうだったのだろう。
私と同じような目にあってなければいいのだけれど。
昨晩は一睡もできなかった。
色んな思いが駆け巡り、断続的に泣いてしまった。
悲しくて、悔しくて、驚きで、恐ろしさで。
それ以外の感情も湧いては消え、消えては湧いた。
でも、そんなこと言ってもお母様はとうてい許して下さらない。
逃げ帰ったことを厳しく叱責するだけ。
何があったのとか、何を言われたのとかは気にも留めない。
ただ、途中で帰ってきたことにのみ、スポットを当て、責めるのだ。
責められることに思うところはない。どれだけ理由があっても、逃げ帰ったのは事実だから。
その結果は変えることができないし、お父様もお母様もそこだけを見て私を評価するのだから、そういう意味では私はさぞかしできの悪い娘なのだろう。
「私は、あなたと違って恥を知っているのよ。これからどんな顔をしてサロンに出ればいいの。あなたはノルデグレーン家の恥よ!」
「申し訳ありません……」
「ああ、もう。どうしてくれるの。あなたのせいでめちゃくちゃよ!」
世界が真っ暗になる。貧血の時みたいに。
久々の感覚だった。
……こわい。
そんなにきつく、言わないで。
凍り付いた視線と、冷たい言葉を添えて。
お母様からは叱責を。お父様からは――追放を賜った。
追放は少し大袈裟かもしれないけれど、私はノルデグレーン領に戻るよう言われ、都を離れることになった。
ノルデグレーン領は王国の最北端にある、常冬の土地だ。
春が来て、めでたいことが重なるから、お手伝いをするよう言われたのだ。
結婚式、婚約の儀礼、成人の儀式――。
厳しい冬を越えた人々にとって、春は命を育む季節なのだ。
都で過ごし、儀式についても学んでいる私が派遣される。
執事や、部下の貴族ではなく、私が。
慶事はいくつも行われるから、しばらくは都に戻ってこれないだろう。
実質、これは追放だと言っても過言ではないと思う。
馬車の中で思い出すのは、アストリッド・トリストシェルンという女性のこと。
彼女は文字通り追放され、いずこかへと去って行った。
二度と歴史の表舞台に立つことのない彼女は、どんな思いで追放されたのだろう。
少なくとも今の私が抱いているような、みじめな気持ちではなかっただろう。
だって、マイナスの気持ちだったら、あんなに軽やかな足取りにはならない。
その顔には、澄んだ湖ように表情がなかったのだ。
森の奥でひっそりとして、風も吹かず、誰も石を投げ入れない。
そんな、静かな水面がそこにあった。
状況に違いはあるが、同じような状況を経験している今なら解る。
私は、たぶん王都に帰ることができる。
でも、二度と戻ることを許されない彼女が、清々しく退場するのはやはり違和感がある。
言っても仕方ないことだけど、やはり体験しないと解らないこともあるんだなって思った。
北方への道のりは、馬車で一週間以上もかかるので、途中何度も休憩や宿泊をしなければならない。
休む場所も大きな町、小さな村などさまざまだ。
さすがに、床に寝わらということはないけれど、硬い木のベッドなんかは普通にあった。
私の両親なら怒り狂いそうだけれど、やはり私は軽んじられているのかしら。
「今の貴女に敬われる価値など、ひとつもなくてよ」
いつか聞いた言葉が思い出される。
もしこの扱いがお父様の指示や許可でなかったのならば、そういうことなのだろう。
沈みそうな気持ちを救ってくれたのが、町や村での、人々との交流だった。
「ほぅ、あんたおえらいさんなのかい? それにしてはあんたの手は苦労をしているね。よほど頑張っているんだねぇ」
記憶力も失い、人の顔も解らなくなったという老婆は、私の手を取ってそう言った。
「おねえちゃんかわいいね~」
老婆に手を取られたまま、子どもたちに囲まれる。どういう状況だと戸惑ったけれど、これはこれで、心から素直に楽しめる体験だった。
身分にとらわれない、純粋な好意の波を受け、氷が融けてくるのを感じる。
こんな私でも、今の私にも好意を向けてくれる人がいるんだ。
それがとても嬉しかった。私は、私に価値を認めてもいいのかもしれないと思った。
伯爵令嬢でなくても、私を認めてくれる人はいるんだ。
お婆ちゃんや子どもたちに別れを告げ、再び馬車に乗って数時間後。
馬車が止まり、ノックとともに馬車の扉が開けられた。
「本日はここで休憩をします」
「ええ。ありがとう。お疲れ様」
従者に笑いかけ、手を出されるのを待ってから誘導に応じて馬車を降りる。
昔なら、エスコートしろとばかりに先に手を出していた。お母様は今でもそうしている。
どちらがどうとは思わない。差し出される手を待つのは逆に偉そうだと思われる可能性だってあるだろう。
それでも、誘導の手に自分の手を預ける時、一言かけるようにはしていた。
「親しくお声かけいただき恐縮です。いつからか、お嬢様は変わられましたな」
馬車を降りきったところで、初老の従者が声をかけてきた。直接の関わりは数えるほどしかないが、昔から我が家に仕えている執事のうちの一人だ。
良く解らないけれど、と前置きして私は笑顔で答えた。
「学園で色々学んだのよ。貴方たちがいてくれるありがたさも知ったわ。感謝してる」
「良き経験をなさいましたな……我々は、あなた様を応援しております」
「……良い景色ね」
私は慌てて身体ごと別の方向を向いて、そっと目元を拭う。
氷が溶けたら、水になるのは当然でしょ。
***
お昼をいただいてから、私は村を散策していた。
本当に景色が素晴らしい場所だった。
大きな湖を望み、遠くには雪の残る高い山々が連なっている。
王都では珍しい景色は、目の保養となって、心が洗われるようだった。
ふと、湖の畔に小さな修道院が建っているのに気付く。
村から少し距離があるかな。今がお昼過ぎだから、夕食までに戻れるかしら。
「ねぇ、あそこの修道院、ちょっと見に行ってもいい?」
「行くことは問題なさそうですが……」
やはり距離がネックらしい。侍女長は執事に意見をうかがいますと一人の侍女を走らせた。
見れば見るほどのどかな景色だった。
心が休まる。
冬が去り、この地にも春が訪れていた。
雪の白から、草木の緑へと。
そんな光景も見てみたいと思った。
「あら?」
気が付くと、少し離れたところから小さな女の子がこちらを見ていた。
どうも王都から離れれば離れるほど、私は子どもに好かれるようだ。
苦笑いしながらも、頬が緩んでしまう。私はしゃがんで、少女に手招きした。
少女は満面の笑顔になって、こちらに駆け寄ってきた。
子どもは手加減がない。全力で飛びかかり、抱きついてくる。
もろとも倒れたらどうするのかなんてたぶん、考えていない。
それは、全幅の信頼だ。受け止めてくれると思っているからこそ、思い切り抱きつくのだろう。
「お嬢ちゃん村の子?」
「うん。そうだよ。お姉ちゃんはどこの子?」
「うーん。どこだろう……都、かな?」
はっきりと言い切れなかった。
だって私は、都から追い出されたのだ。胸を張って私は都の子です、なんて言えない。
本当に。
……私は、どこの子なんだろう。
少女と遊んでいるうちに、侍女が帰ってきた。彼女は年若い従者を引き連れており、彼は一頭の馬を曳いていた。
「お嬢様は、馬によく乗られると聞いておりますので」
馬で往復するのならよいとのことだったが、ちょっと待って。私、今ドレスなんだけど?
「いえ、さすがにそれは。私の後ろにお乗りいただければ」
だよね。早とちり恥ずかしい。
馬は楽ちんだ。
流れる景色も馬車とは違って楽しい。
湖岸に、修道女らしき姿が見える。
お散歩だろうか。遠目だけど、ちらりと見えた横顔は、どうやら若い女性のようだった。
へぇ。こんな田舎にも若い修道女がいるのね。あとでお話できるかしら。
たまには、同世代の女性と損得抜きの話をしてみたいな、なんて思っていると修道院に到着した。やっぱ馬よね。
馬から下りて、修道院を見上げる。
修道院というか、ほこら?
優雅で優美な教会を見慣れているせいもあって、目の前の建物が教会と言っていいものなのか戸惑ってしまう。
でも、そこに祈る人がいるのなら、教会でも修道院でもほこらでも、なんだっていいはずだ。
従者が扉を叩くが、返答がない。こちらを振り返り、どうするか目で尋ねる。こういうのって、勝手に入っていいのかしら。
そこまで敬虔な神の子ではない私は、教会のお作法をよく知らない。
困っていると、後ろから声がかかった。
「責任者はただいま留守にしております。責任者にご用でしたら、また、おいで下さいませ」
清らかで、凜とした声だった。
どきりとした。
心地よく響く、この声は。
がばりと振り返る。
先ほど見た修道女だろうか。
端正な顔の作り。ヴェールの隙間から見える長く、艶々しい銀髪。
抑圧的な衣装で身を包んでいても隠し通せない、白く美しい柔肌。
修道女は、私の顔を見て、少し驚いたようだった。
「これは……畏れ多い。中央の貴族様をお迎えすることになるとは」
柔らかな微笑みは花が咲いたようだった。
「あ……」
「ユリア、と申します。こちらでお世話になっている修道女ですわ」
「あ……」
先回りされた。
「あ?」
小首を傾げただけで、空気がやわらかくなる。この方には、すべてが絵になる。
最初の「あ」と次の「あ」は別の意味だと解っているくせに。いたずらも言えるお方なのね。
感心していたら、自分が落ち着いていることに気付いた。たったそれだけで私を落ち着かせるなんて。本当に、とんでもないお方。
「いえ、失礼しました。あなたが、旧知の方によく似ていたものですから、驚いてしまって」
「そうでしたか。あっ、もしよろしければ、中でお茶でもいかがですか?」
話している間に、責任者が帰ってくるかもしれないと。
でも、私は首を横に振る。充分だ。
「旧知の方に、感謝を伝えたいと思っていたのです。いつかいただいた言葉のお陰で、頑張れていますと」
「……そうですか」
笑顔が、柔らかくなった。それは、初夏の陽だまりのように、暖かくて。
「もしかすると、せめて姿だけでも、と神様が引き合わせてくださったのかもしれませんね」
不思議な縁を感じる。
「なるほど。それは素敵なお話ですね」
ユリアと名乗った修道女は、優しく頷いた。
ささやかな夕食をいただいたのち、私は窓から星空を眺めていた。
「普段はあんな感じだったのね。そりゃぁ、オードゥン様が、必死でかばうわけだわ」
おきれいだし、声も耳に心地よい。優しくて、いたずらっぽいことも言える。そんな人が主なら、そりゃあ忠誠心も深くなるというもの。
次に会ったとき、色々と聞いてやろうと心に誓いつつ、私は星空に思う。
敬愛される貴族令嬢になる――。
それは、いまだに遠い目標だ。
近付けている気もしない。
どうすればいいのか。
あの方の笑顔が目に浮かぶ。
穏やかで、優しい物言い。両親とは正反対だ。
父から、母から強く叱られたことを思い出した。
ものすごく怖かった。誰も慰めてくれなかった。抱きしめてもくれなかった。
だから私は、自分で自分を守るしかなかったのだ。
こうして、従者に厳しい私が誕生した。
傷付けられる前に、傷付ければ。誰も、私を傷付けない、と。
今なら解るけれど、それは間違っている。
誰も、誰かを傷付けてはいけないのだ。
サロンでいっぱい高飛車な態度をとられ、傷付けられたではないか。
つらかった。こわかった。
こんな思いを、従者たちはずっと抱いていたのだ。
私は、両親から優しくされたことがないから、根本的に優しくする方法を知らない。
だから、友人に教えを乞い、自分なりに感謝を伝え、せめて周りの人だけでも、笑顔でいられるように努力するんだ。
それが、他者に愛される貴族令嬢になるということではないだろうか。
ご先祖様に誇れる私になれるのではないか。
これからに血脈を繋いでも赦されるのではないだろうか。
うん。がんばろう。
***
二ヶ月後、私はノルデグレーン領でのお仕事を無事に勤め上げ、王都へと戻ってきた。
分家の皆さんは私の差配にいたく感動してくれて、ぜひ息子を部下に、使用人に、などの要望がたくさんきてびっくりしてしまった。
本家の人間が参加する必要のある儀式を代表して取り仕切っただけなのだけど、なぜか水利や境界などの争い、都市計画などの相談まで受けてしまった。
私は、別に普段通り、知っていることをただ知っている通りに行っただけなのだけど。
できるだけ多くの言葉を聞き、公平に、中立の立場で意見を出したことが良かったのだろうか。
どちらにも利害関係ないから、より中立性に信頼が置けたとか?
まぁでも、将来的にたぶん、繋がりができるのでみんなに好印象を与えたのは良かったかな。
帰りも同じルートで、同じ村で宿泊した。
記憶力がなくなったおばあちゃんはやっぱり私の事を忘れていたし、子どもたちは私を囲み、遊んでくれた。
ちなみに、あの修道院には、足を運ばなかった。
たぶん、もう行くことはないかな。これ以上は迷惑だろうし。
王都はすでに新緑の季節となり、初夏の風が心地よかった。
お父様は渡された分家の方々の手紙を読み、満足そうに頷き、私にお褒めの言葉を下さった。
それは、素直に嬉しかったけれど、これまでとは違ってもっと褒めて欲しいとはならなかった。
無理に頑張らず、普通に努力して、成果が出れば褒めてもらえるし、失敗したら叱責される。ただそれだけだと思うようになっていた。
自分の心を守るため、厳しい言葉を出さないためにお褒めの言葉を引き出し続ける、ということをしなくなった。
お父様はひとまず合格を下さった。
次はお母様だ。当然、社交界への復帰が条件となる。
あの夜の社交界と同じ広間。今日はのどかな光に包まれている。
あの日と同じ場所、同じ顔ぶれ。
けれど、私の歩幅だけは、違う。
「あ……ノルデグレーン様……」
おずおずと私に近付いてきたのは、いつかの給仕。
「あら、久しぶりね」
「あ、はい。あの」
全身を震わせ、すでに泣きそうになっていた。これは最初に言わせたらだめよね。
「ねね。私ね、あなたにずっと謝りたかったの。今日会えて良かったわ」
給仕の肩に手を置いて、ゆっくりと語りかける。
「えっ……?」
「あの時ね、ちょっと気持ちが穏やかじゃなかったの。だからといって許されるものじゃないかも知れないけれど……」
目をパチパチさせていた。戸惑っているんだろうな。謝りたかったのに、遮られて、何を言われるんだろうと不安なのかも知れない。
「きつい言い方して、ごめんなさい。傷ついたでしょう」
「あ……そんな、そんな。私の方が、悪いので……」
彼女は、両手で顔を覆ってしまった。肩を震わせ、小さく泣き出す。
「ごめんね。大丈夫よ。私は、何とも思ってないから。私は、あなたを悩ませてることが悲しいの」
「ノルデグレーン様……」
「次もよろしくね。おいしいもの、持ってきて頂戴」
私は、彼女の背をぽんぽん叩いて彼女を仕事へと送り出した。
それから、私はさまざまなご夫人や令嬢に、自分から声をかけて回った。
そこで気付いたのは、全てが全て、私に悪意を持っているわけではないということ。
気さくに応じてくれて、自然と話が弾んだ方もいた。
ちょっと警戒しながらでも話をしてくれ、意外にも興味を同じくする方もいた。
もちろん、相変わらず高慢で不遜で増長した方々もいらっしゃった。
でも、と私は思う。あの時、逃げなかったら、あのあと普通に盛り上がっていた可能性はあったんじゃないかと思う。
最初に当たった人たちが特殊だっただけなのだ。
運不運の話。
私は、たまたま運が悪かっただけだ。
だとしたらそれは、今日、取り戻した。
帰りの馬車の中で、サロンでの会話を思い出す。
「アニェッタ様、なんだか雰囲気が変わりましたわね」
「この前は、雰囲気にのまれてしまいまして……お恥ずかしいことです」
苦笑いしてやり過ごしたのだが、あれはもしかして、前回の私を知っての揶揄だったのだろうか。
まぁでも、嫌みだったとしても気にしない。
もちろん、いつかは上手く言い返せるようになりたいけれど、それは、嫌味を返すためじゃない。
みんなが、笑顔で話を終えられるように。
私は、私のやり方で大きくなるんだ。
おわり