11. 模擬試合
会場全体を包む空気は、凍りついたように張り詰めていた。ひときわ大きく響いた開始の合図と同時に、レイ・フロストは床を蹴って正面へと駆け出す。
細かな氷の結晶が靴裏できしみ、わずかに冷気が漂った。
相手は風属性を操るAクラスの少女。彼女は軽やかにステップを刻みながら、両腕をくるりと回して風の渦を生み出す。
その勢いでレイの氷弾を左右に逸らしてみせるたび、観客席から小さなどよめきが起こる。
「やっぱりAクラス…すごいな」
レイは息をつき、胸の奥でうずく絶対零度の魔力を慎重に抑える。
まだ氷魔法を使いこなし始めて日が浅いが、ここで怖じ気づいては何も示せない。
ステージに立つように視線をまっすぐ相手へ据え、魔力の制御を段階的に行うイメージを頭の片隅で繰り返す。
風の少女がすかさず脚に風の魔力を集中し、アリーナを滑るように近づいてくる。
まるで空気の刀のような衝撃波がレイに向かい、ビリッと耳を刺す音が響いた。咄嗟に氷の壁を生み出して防御を試みるが、氷と空気の刃がぶつかり合う衝撃でバリバリと嫌な割れ音がする。
いくつかの破片がレイの頬をかすめ、細い痛みが走るが、深手には至らない。
(どう攻める…?)
一瞬の逡巡。胸の奥に眠る絶対零度を思い切り解き放てば、一気に決着をつけられるかもしれない。
だが暴走リスクが高く、試合会場で破裂させるわけにはいかない。レイはふっと息を整え、手のひらに小さな氷塊を二つほど浮かべると、風使いの様子を探る。
「フロスト! 下がってるだけじゃ勝てないぞ!」
遠くから誰かが呼びかける。視線を向けるわけにもいかないが、きっとリオンあたりが高みの見物を決め込んでいるのだろう。
セリスもどこかで見ているはずだ。レイはその名を思い浮かべ、胸をきゅっと締めつけられるような思いを受け流す。
「やるぞ…!」
気合いを入れるように呟き、レイは床へ魔力を滑らせる。張りつめた冷気が瞬く間に薄い氷膜となり、足元をツルリと変化させた。
前かがみに身体を倒し、まるでスケートのように自らを滑らせる。実戦ではまだ試行回数の少ない動作だが、この場で賭けに出るしかない。
「なっ…!」
相手の少女が驚いた声を上げる間に、レイは低い姿勢で相手の懐へ潜り込む。
地を這うように滑り込んだ位置から氷塊をアッパーのように打ち上げると、少女が慌てて作った風の盾が砕け、肩を鋭く打ち抜いた。バランスを崩した彼女に向けて、もう一発だけ氷弾を撃ち込む。
腰に直撃し、淡い凍結が生まれたところで笛の合図が響いた。
「そこまで!」
レイは肩で息をしながら氷魔力を収束しようと意識を切り替える。
回復係のスタッフが少女のもとへ駆け寄っていくのが視界に入ると、観客席からは小さな拍手が起こり始める。リオンが運営サイドらしき人物と話し合っているのが見え、「フロストの勝ちだな」とうなずく仕草を見せていた。
「あんた…意外とやるじゃない。風の私に、ここまで踏み込むとはね」
少女がやっと立ち上がりながら苦笑すると、レイは「ごめん、怪我してないか?」と案じる。
彼女は少し頬を赤らめ、「下層出身だと甘く見てた。悪かったわ」と頭を下げる。
勝ち名乗りを上げたはずなのに、どこかレイの胸はすっきりしない。
周囲で「すごい試合だったな」と囁き合う声を聞きながら、レイはつい観客席のほうを見やる。
セリスの姿が確認できるが、こちらへ視線を向けもしない。まるで彼の存在などどうでもいいというような態度に、苦い感情がこみ上げる。
「フロスト、もう少し試合を続けられるか?」
リオンが声を上げる。消耗を考慮してか、やめてもいいという口ぶりだが、レイは一瞬だけ迷い、「あと一戦…やってみる」と固く答える。
クラス対抗試験へのステップとして、少しでも実戦経験を積むべきだと考えたのだ。
雷属性を短剣にまとわせる男子生徒が登場し、合図が鳴ると同時に一気に懐へ踏み込まれた。
ビリビリと雷撃が放たれ、レイが氷壁を間に合わせてもあっさり破壊される。反撃の氷弾は雷の衝撃に負けて逸れることが多く、レイの腕をかすめる一撃が思わず唸り声を上げさせた。
(ここで終わってたまるか…!)
胸の中で絶対零度がざわめくが、レイは呼吸を整え、再び段階制御のイメージを頭に刻む。
足元へ微細な氷の霜を散らし、相手の動きを鈍らせる。最後の隙をつくように再度距離を詰め、足元への氷塊を放り込むと、相手は思いがけない滑りで突きがずれ、レイは腹部めがけて氷弾を撃ち込む。
「ぐあっ…!」
重い衝撃音とともに相手が大きく後退したところで、リオンが「そこまで!」と制止の声を上げる。レイは肩で息をしながら、勝利を告げる教師の言葉をただぼんやりと受け止めた。腕や足はもはや鉛のように重いが、何とか二連勝を収めた形だ。
「まじか、あの氷使い…二連勝だぞ」「氷ってこんな使い方があるのか」
ざわつく客席を感じながら、レイは思わずその場で膝をつきそうになる。暴走は防げたが、魔力の制御に相当な負担がかかったのだ。気を抜けば絶対零度が噴き出しそうな怖さもまだ残っている。
「よし、フロスト。今日はここまでにしといたほうがいいな」
リオンが気づかい半分の笑みを浮かべて声をかける。レイはかろうじてうなずき、「助かる」と呟いてひと息ついた。
二連勝の拍手が周囲で起こり始めても、実感が湧かないほど疲労が大きい。
観客席のあちこちで、「思ったよりすごいじゃん」「絶対零度って本当にあるんだね」などの声が飛び交う。
複数のAクラス生が「今度一緒に練習しよう」などと話しかけてくるが、レイは笑みを返すのが精一杯だ。足も震えているし、魔力の余力もほぼない。
そのとき、アリーナの隅からセリスが階段を下りてくる気配を感じる。レイは微かに手を挙げ、「セリス…」と呼びかける。
彼女は足を止めたが、振り向かないまま「二連勝、おめでとう」とだけ言って、すぐに背を向けた。
リオンが「あ、セリス?」と追おうとするも、彼女は返事をしないまま立ち去る。その冷たい態度に、レイは呼吸を飲み込んだ。
掌に残る氷の感触を名残惜しそうに解きながら、レイは苦い想いを噛みしめる。勝てたのに、彼女との距離は遠いまま——その現実がいっそう胸をえぐってくる。
「フロスト、無理するなよ。医務室へ行け」
いつの間にか姿を見せたグレン教師が穏やかな口調で声をかける。レイは弱々しく礼を言い、足を引きずりながらアリーナを出ていく。
入り口付近ではガルドとマリアが駆け寄り、「すげえじゃん、レイ!」「大丈夫? ケガとかない?」と嬉しそうに声をかける。レイは笑顔を返す余裕も乏しく「ちょっと消耗がやばい…」とだけ答えると、二人は「じゃあ付き添うよ」と腕を貸してくれた。
道すがら、マリアが「セリスさん、最後まで見てたけど何も言わなくて…」と話を切り出すが、レイはそっと首を横に振る。
ガルドが軽く肩を叩いてくれて、「ま、あいつはあいつで考えがあるんだろ。おまえがちゃんと実力を見せたんだ、それで十分だろ」と笑う。
その豪快さに少しだけ心が軽くなるが、セリスの冷たさが頭から離れない。
(これで少しは俺の氷魔法を認めてくれたかと思ったのに…。でも、まだだ。クラス対抗試験もあるし、もっと鍛えないと)
レイはそう考え、自分の胸を熱いものと冷たいものが入り混じる不思議な感覚で満たしていた。
今はただ、医務室で休むことを最優先にしよう。いずれセリスの前に堂々と立ちふさがれるほど強くなれば、きっと何かが変わる。
そんな期待を抱きながら、レイは肩を貸してくれる仲間たちと連れ立って歩き続ける。