1. 旅立ち
朝日に照らされた石畳の街路が、まるで古い傷跡のように幾重にも走っている。
ここは階層都市アルセラの最下層――“ロウレイヤー”。木造の建物が密集する路地裏の一角で、ひとりの少年が小さく息をついた。
レイ・フロスト。
十代半ばほどの年頃で、痩せぎすの体躯にぼさぼさの黒髪。深い碧色の瞳は、光を浴びたときに氷の欠片のような冷ややかな輝きを宿すと噂されている。彼は肩に担いだ荷物袋を少し持ち上げ、背後の古びた建物を振り返った。
建物といっても半分は倒壊しかけ、壁板はところどころ剥がれ、釘がむき出しの部分も目立つ。そんな隙間から、獣人の子どもたちが好奇心に満ちた目でこちらを覗いていた。
「レイ兄ちゃん、本当に行っちゃうのか?」
獣人の幼い声が、わずかに湿った空気を揺らす。
レイは微笑みを返すと、静かに頷いた。
「うん。入学が決まったんだ……やっとね」
その言葉に、子どもの尻尾がしょんぼりと垂れ下がる。ここ、下層――ロウレイヤーでは、魔法学園に通うなんて夢物語にすぎない。だがレイは奨学生試験に合格し、正式に学園の門を叩ける立場になった。そこに至るまで支えがあったとはいえ、周囲の大半は否定的だった。下層に生まれ落ちた者は、生涯そのまま這い上がれないのが当たり前だからだ。
(……ほんの少し前までは、セリスも一緒にここで暮らしていたのに)
幼馴染のセリス・アーク――赤茶色の髪が印象的な少女だ。
彼女とは、小さな路地で一緒に粗末な屋台の leftovers を分け合ったり、獣人の子どもたちと追いかけっこをしたりした思い出が山ほどある。
今でも彼女が笑いながら「レイ、もう少しこっち来て!」と手招きしていた記憶が鮮明だ。
下層の暮らしは苦しかったが、そんなセリスの明るさに何度も救われた。
(でもセリスは今、上層で新しい世界を目指している。あの時から、上層に憧れていたし、いつかここを出て華やかな場所で活躍したいって……)
レイは扉の錆びた取っ手を握りしめながら思う。セリスが下層を出た理由は、ただ貧しさから抜け出すためだけではなかった。彼女の強い意志と熱い心が、いつか上層や学園で花開くのだと感じていたから、レイ自身もそれに引っ張られるように学園を目指してきた面がある。
「……お世話になりました」
レイは最後にそう呟き、扉を静かに閉じる。住み慣れた場所を離れる寂しさはもちろんあるが、感傷に浸っている暇はない。行かなければならない理由があるからだ。
彼が“師匠”と呼んだ男――ルーファス。
ひょんな縁で出会い、魔術の基礎――とりわけ氷の扱いについて独学めいた指導を受けた。そのルーファスが残した言葉を、レイは今も心の底で反芻している。
“おまえの魔力は絶対零度。きっと世間に認められる時が来る”
それが具体的にどういう意味をもつのか、彼自身まだ手探りだ。ただ、学園で学べば、この正体不明の力を制御する糸口を見つけられるかもしれない。それが、レイにとって唯一の希望だった。
足元を見ると、割れた瓶の欠片や食べかすが散らばり、路地全体に酸味の混じった生臭い匂いが漂っている。
これがロウレイヤーの現実。右手には重そうな荷車を押す獣人の女、左手ではエルフの行商人が疲れ切った面差しで品物を並べていた。多種多様な種族が混在しながら、日々の糧を求めて必死に生き延びているのだ。
「おい、レイ」
しゃがれた声が背後から響き、レイが振り返る。そこには屋台店主のガロンじいさんが立っていた。深い皺を刻んだ頬にはタバコのにおいが染みつき、その手には何かの紙袋がぶら下がっている。
「行くんだってな。学園……本当に受かったのか?」
「うん。じいさんにもいろいろお世話になったよ。それは……?」
「ま、餞別みたいなもんだ。さっき作ったばかりのスパイシーまんじゅうだ。腹が減ったら食え」
紙袋から立ち上る香辛料の香りが、冷えた下層の空気を少しだけ和らげてくれる。レイはありがたそうに頭を下げた。
「ありがとう。……絶対に成果を出してくる。下層のままで終わるつもりはないから」
「へっ、楽しみにしてるぜ。ただあんまり無茶すんなよ。お前の力……まだ制御しきれてないんだろ?」
「……はい、まあ」
ガロンじいさんは苦い表情を浮かべる。レイの氷属性の魔力は、普通の“氷魔法”と呼ぶには危険すぎる。それが、下層の人々ですら敬遠する原因になっていた。
「ま、師匠が何を考えていたのかは知らんが……しっかり学んで、上層にいる連中にも負けるなよ」
「ああ、行ってきます」
レイが一歩踏み出そうとしたところで、路地の先に人影が立っているのが目に入った。華奢な体つき――というより、長い銀髪を後ろで結ったエルフの青年だ。彼はレイに会釈だけし、特に感情を表すでもなく近づいてくる。
「……お互い、上へ行くのかな?」
声をかけてきたエルフは、小さなカバンを提げており、どうやら旅慣れた様子がうかがえる。レイは軽く頷く。
「俺は学園に。奨学生で合格したんだ」
「それはおめでとう。……僕は行商の依頼があって上層へ行くところなんだ。一緒に昇降リフトを使おう」
こうして、レイはエルフの青年と並んで下層の昇降リフトを目指す。周囲も同じように上層へ向かう人々の列ができていて、獣人や他国からの旅人など、雑多な姿が目立った。
リフトは木製の大きな籠のような台で、魔力石を動力に上下へ移動する仕組みらしい。ただ、下層の住人には到底手が出ないほど使用料が高額だ。レイは奨学生認定証のおかげで補助を受けられるのが救いだった。
「へえ、学園に行くんだ。下層からって珍しいよ。相当な実力があるんじゃない?」
「実力というか……運が良かっただけかも。正直、自信はない」
レイは柵に手をかけながら苦笑いを浮かべる。ゆっくりとリフトが昇り始めるとともに、下層の街並みが視界の下へ沈んでいった。石造りの建物が迷路のように密集していた様子が、まるで塵のように遠ざかっていく。
「そういえば君の幼馴染が同じ学園に通うんだろう? セリス・アークって名前、ちらっと聞いたよ。下層出身なのに上層のパーティによく呼ばれてるって」
「え……」
想像以上に広まっている噂に、レイは胸がざわつく。セリスが上層に憧れているのは知っていたが、まさかそこまで活発に動いているとは聞いていない。
リフトが上層付近に到着する頃には、レイはどうにも落ち着かない気分になっていた。かつて下層の狭い部屋で「いつか絶対にここを出る!」と目を輝かせていた彼女の姿を思い返す。あの真っ直ぐな情熱こそが、セリスの一番の魅力だったのかもしれない――そして、それが今のレイをも奮い立たせている。
「じゃあ、僕はここで。お互いがんばろう」
エルフの青年はそう言って別れを告げると、颯爽と人混みに消えていく。レイも彼に一礼し、さらに上層へ続く道をたどった。中層を抜けてきたとはいえ、そこも完全に整備されているとは言いがたく、レンガ造りの建物が並んだ程度だ。商店の呼び声が遠くで響き、人々の表情は下層ほど暗くないが、決して豊かでもない。
そして、夕暮れが近づくころ、レイはようやく目的の大きな門にたどり着いた。門の向こう一帯が学園区。正式名をアルセラ魔法学園というが、その規模は相当なものだと聞く。
高い石造りのアーチには、微弱な魔力のきらめきが走り、荘厳な雰囲気を漂わせている。門の奥からは学生らしい明るい声や、教員たちが巡回する声がわずかに聞こえてくる。
「……ここが、学園」
レイは足を止めて小さく息を吐いた。かねてより憧れていた学園生活の舞台が、ついに目の前に広がろうとしている。だが胸の奥がひりつくのは、期待と不安がないまぜになっているからだろう。
「……絶対に負けられない、か」
誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやく。幼馴染のセリス、師匠だったルーファス、そして下層に残る仲間たちの想いを、何ひとつ裏切るわけにはいかない。学園で成果を出せなければ、“危険な氷使い”と蔑まれるだけだし、上層という大きな渦に吞み込まれてしまう恐れだってある。
門番の守衛がちらりと視線を向けた。奨学生証を確認すると、門が静かに開かれる。
レイは唇を一度湿らせるようにして、見えない境界線をまたぐように重い空気を割って一歩前へ進んだ。
「……よし、行こう」