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彼月がわたしを連れて行ったのは、研究室と隣り合った部屋だった。
「一応、こっちは控室ってことになってるんだけど。」
扉を開けると、なかからは獣臭い臭いというか、なにか饐えたような臭いが漂い出してきた。
「うっわ、くっさ。
・・・やっぱりか・・・
千鶴はちょっとここで待ってて?」
彼月は肘を曲げて鼻の辺りを覆いながら、部屋のなかへと踏み込んだ。
なにやら、がらがら、ばさばさ、という音がしばらくしたかと思ったら、彼月が顔を覗かせた。
「まだちょっと臭いけど。
ここにずっと立ってるのもなんだし。」
なかに入ると、窓という窓が全開してあった。
左右の壁には作り付けの棚。
そして、部屋のなかは、混沌に支配されていた。
床には座卓らしきものと、敷きっぱなしの布団。それから大量の衣類。
あとは、布やら、食器やら、食べ物やら、何に使うのかよく分からない道具まで。
ありとあらゆるものが、無秩序の名の元に、予想外のところにある。
毛足の長い、高級そうな敷物は、元は花の絵が描いてあったみたいだけど。
得体のしれない染みと、こびりついた固形物で、混沌を描いた抽象画のようになっていた。
「忙しいとすぐこれだから・・・」
彼月はぶつぶつ言いながら片付けて行く。
彼月の周りから、部屋のなかへと、みるみる秩序が拡がっていくようだ。
わたしも、彼月を手伝おうと、ごそごそと、その辺のものを手に取った。
広がった毛布を畳んだは畳んだけど・・・これ、どこに置こう?
床に置いたらまた元の木阿弥だし・・・
きょろきょろしていたら、うっかり床にあった器を倒してしまった。
器には、言葉にはし難い色の液体が入っていて、敷物の混沌にさらに混沌を付け加えてしまった。
「・・・ごめん、わたし・・・」
謝ろうと彼月を見たら、ああ、いい、いい、と軽く手を振った。
「今さら、染みのひとつやふたつ増えたところで、誰にも分らないよ。
というか、千鶴がつけた染みだって言ったら、あの人たち、大喜びで保存しようとするかも。」
保存?!
「ああ、でも、片付けはいいから、千鶴はその辺にでも、座っ・・・いや、座る場所なんか、ないな。
まったく・・・三日前に、いったん全部、片付けたのに・・・」
三日?
三日でこれですか?
すごい。
それはまた、べつの意味で才能を感じますね?
とにかく、うっかり歩き回ったりしたら、惨状に惨状を付け加えるだけだ。
そう考えたわたしは、あとは彼月にお任せして、なるべく動かないことにした。
ふと、足元を見ると、一冊の古い絵本が落ちていた。
何度も読み返したのか紙は柔らかくなって、手の当たるところは手垢で黒くなっている。
背表紙もぼろぼろになって、糸が出ていた。
わたしはその絵本を見るともなしに眺め始めた。
開いてみると、小さいころに、わたしも読んだことのある物語だった。
多分、島の人なら、みんな一度は読んだこと、あると思う。
そのくらい有名な物語だ。
千の鶴が空を舞うとき。世界に奇跡が訪れる。
その言い伝えを物語にしたものだ。
古い古い物語で、作者ももう分からない。
だけど、わたしにとっては、自分の名前の由来でもあったから。
大好きな物語で、何度も何度も繰り返し読んだ。
こんなところで、この物語と再会するとは思わなかった。
それにこの本は、わたしの読んだ本よりも、さらに古そうに見えた。
わたしは、本をばらばらにしてしまわないように気をつけながら、懐かしく眺めた。
そうこうしているところへ、みすずが顔を出した。
戸口から部屋のなかを覗き込んだみすずは、あらら、と笑った。
「ごめんなさいね。
片付けをさせようと思って、お茶に誘ったわけではありませんわ。」
そう言いながら入ってきて、彼月と並んですばらしい速さで部屋を片付け始める。
「まさか、こんなになってるとは、流石に思いませんでした。」
「みすずはこの部屋は使ってないの?」
「ええ。わたしは、夜は部屋に戻るようにしているので。
あとの三人は、戻る時間が惜しいと言って、ここに寝泊りしているみたいですけど。」
彼月とみすずの連携は素晴らしかった。
あっという間に、部屋はきれいに片付いてしまった。
「部屋に戻って、とっておきのお茶を取ってきたの。
千鶴さんに飲んでいただこうと思って。」
最初見たときには分からなかったけど、綺麗になった部屋の一角には、小さな台所がついていた。
みすずはそこでお湯を沸かして、いい香りのするお茶を淹れ始めた。
「千鶴さんがいらっしゃるって知っていたら、いろいろと用意しておきましたのに。
こんなものしかなくて、残念だわ。」
そう言いながらも、綺麗なお菓子を次々にお皿に並べる。
あっという間に、座卓の上はお菓子の花園になっていた。
最初のあの惨状を思えば、まったく魔導みたいだ。
準備が整ったのを見計ったように、ぞろぞろとあとの三人がやってきた。
それぞれ座る場所は決まっているのか、思い思いの席につく。
みんな自分の隣にとわたしを呼んだけど。
わたしは彼月と並んで座卓の一辺に座ることにした。
器のなかには、塩漬けにされた花がひとつずつ入っていた。
みすずがそこへお茶を淹れると、その花はふわっとお茶のなかで開いた。
「すごい。きれい。」
思わず歓声をあげると、みすずは嬉しそうに微笑んだ。
「すずさん、これ、滅多に淹れてくれないのに。今日は特別ね?」
「お菓子も、滅多に見ないとっておきのばかりですわ。」
ひかるとひなたも嬉しそうだ。
きれいな淡い緑色のお茶のなかで開いた花は、あの一輪だけ咲いていた桜のようだった。
こうして午後のお茶会は和やかに始まった。




