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あのとき。
額に口づけて、一三夜も言ったんだ。
いい子にしていて、僕の女神様、って。
彼月は記憶を失っても、一三夜と同じ人なのだから、同じことをするのかな。
あのときと、同じ。
それがどうしようもなく不安を誘う。
軽く、なんでもないことのように、一三夜は言った。
ちょっと、障壁の向こう側を確かめてくるだけ、って。
今だって、彼月は、ちょっと研究院に行っただけ。
何も、心配なことなんてないはず。
障壁の向こう側に行くより、もっと、心配することなんかないのに。
正体の分からない不安に、押しつぶされそうになる。
ぱたぱた、と音を立てて、涙が床に落ちる。
いつの間にか、かたかたと、からだも小さく震えていた。
「大丈夫。」
ふいにそう言う声がして、見上げると、水月がいた。
水月は、わたしの前にしゃがみこむと、わたしの目を見上げて、もう一度、大丈夫、と言った。
「あなたのことも、彼月さんのことも。
今度こそ、オレは護ってみせます。」
水月が?
「どうして、水月は、そんなことをしてくれるの?」
思わずそう尋ねていた。
「おふたりとも、オレにとって、大事な、かけがえのない人だからっすよ。」
当然だと言うように、水月はそう答えた。
そうして、わたしの目を覗き込みながら、微笑んだ。
水月の笑顔と一緒に、大丈夫、の言葉が、心に沁み込んでくる。
それは、わたしのこの不安を水月に押し付けるのと、同じだと思うのに。
だけど、からだの震えは止まっていた。
「・・・ごめん・・・」
目を閉じると、大粒になった涙が、ぼろっと、溢れた。
「そういうときは、有難う、っすよ。」
水月は笑いながら言って、わたしの頬を指で拭った。
「あなたの涙は、宝石のように綺麗っす。
あなたはいつも、誰か他の人を思って泣くから。
ほら、見てください。」
水月はわたしに見えるように掌を広げて見せた。
そこには、透明なきらきらした丸い石が、いくつかのっていた。
「これ、わたしの涙?」
「そうっすよ。
これね、実はオレの特効薬なんです。」
水月はそう言うと、それを口に放り込んで、そのまま飲み干してしまった。
え?そんなもの、飲んで大丈夫なの?と心配になる。
水月は苦し気に眉をひそめて、胸のあたりを抑えながら、とても、甘いっす、と呟いた。
次にこっちを見たとき、水月の瞳は、怪しい金の色を宿していた。
「オレは、この世界の理には縛られない。
あなたたちから見れば、ただの怪物です。
そんなオレを、あなたたちは、ここで一緒に生きる仲間として受け容れてくれました。
だから、オレも、そのあなたたちを、自分を護るように、護ろうと思うんですよ。」
水月はいつも助けてくれる。
ただ単に、仲間と認めたからってだけじゃ、その水月に応えられるとは思えないけど。
水月の瞳の金色の光はすぐに薄れて、いつもの優しい目に戻った。
その目を丸くして、水月は、あ、と言った。
「今ならまだ全種類、ある頃っすよ?
結に行きませんか?」
「結に?」
また突然、何を言い出すんだと、わたしは聞き返した。
水月は悪戯を企む子どものような顔をして、にやりと笑ってみせた。
「今日は彼月さんもいませんし。
お昼ご飯、結にしましょう?」
いいとも悪いとも答えないうちから、水月はほくほくとわたしの背中を押した。
「なんかすっげえ久しぶりな気がするなあ。
オレ、前は、毎日、結のおむすび食べてたんっすよ。」
それ、なんか、前にも聞いた気がする。
水月は結のおむすびが大好物だ、って。
「この好機を逃してなるものか。
ほらほら。早く行かないと、売り切れてしまいますよ?」
水月に急かされて、わたしも慌てて足を動かした。
彼月がいると、食事は必ず作ってくれるから、買ってきて食べるというわけにはいかない。
だけどそれを、好機、とか言ってしまうと、なんか彼月に悪い気もするけど。
しかし、うっれし~なぁ~、と小躍りしている水月を見ていると、なんだかそれも言い辛かった。
結局、わたしも水月と並んで、いそいそと結へとむかっていた。




