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その後。
水月は、引き続き、作業場でなにやら作業を続けたいと言った。
ここって、実は、総合研究院並みの機材が揃っているらしい。
そんなにすごかったのか。
彼月は、研究院への連絡を引き受けて行くことになった。
あっちも一刻も早いほうがいい。
わたしは、彼月と水月、どっちといてもいいって言われた。
どっちといても、それなりに頼みたいことがあるから、って。
ちょっと迷って、わたしは水月を手伝うことにした。
単純に、研究院って、なんだか、苦手だから。
後の月の月の人たちは、全員、研究院の研究者だ。
記憶を失った彼月をずっと護ってくれていた人たちだし。
水月とも親しそうだけど。
わたしは、なんとなく、あの人たちのこと、怖いって思ってしまう。
そう言ったら、彼月も水月も苦笑してたけど。
「君のために、そのことは秘密にしておいてあげる。
もしも僕が口をすべらせたら、きっと、みんなしてここへ押しかけるだろうから。」
「魔導障壁の修復もそっちのけで、駆け付けるでしょうね。
世界が滅んでも千鶴さんには嫌われたくないって。」
水月の台詞に、わたしは、あっと気付いた。
「障壁の修復って、あの人たちがやってくれてるの?」
「あの人たちだけじゃなくて、心得のある研究者はほとんどそっちに回ってるでしょう。
研究院は魔導の得意な人間の集まりっすからね。」
そっか。
知らないうちに、わたし、いろんな人に迷惑かけちゃってるんだ。
「迷惑をかけた、とか思ってるんだったら、それは、違うよ。」
そう言ったのは彼月だった。
え?まさか、心を読んだ?水月みたいに?
それとも、わたし、今の、声にしちゃってた?
びっくりして彼月を見たら、彼月はにやっと笑った。
「声にも出てないし、心も読んでない。
けど、千鶴ってさ、なんか、分かりやすいんだよね。
それとも、もしかしたら、僕ら、心が通じ合ってきたのかな?」
「千鶴さんは、特別製の純粋で素直な心の持ち主っすから。
わりと、誰にでも分かりやすいと思いますよ。」
得意気な彼月に、水月が釘を刺した。
彼月は、そっか、とあっさり笑った。
「なにもかも、君ひとりで背負うことはないんだ。
この世界は、僕らみんなの世界だ。
だから、僕らみんなで護るのは、当然のことなんだよ?」
彼月はわたしと目を合わせて、にこっと笑った。
「僕を信じて、任せて?」
彼月の明るい瞳には、不安も不信もない。
王様みたいに自信たっぷりで、周りも自分も疑わない。
だから、彼月なら大丈夫って、思ってしまう。
それって、多分、寒月もそうだったんだ。
いや、きっと、望のときから、そうだったんだ。
完全無欠の守護天使。
望がいれば大丈夫。寒月がいるから、大丈夫。
みんなのその期待は、望も寒月も苦しめたのかもしれない。
もしかしたら、細愛はそのために生まれてしまったのかも。
弱くてダメな部分を、全部、まとめたような細愛。
彼月にも、無理しなくていいよ、って言いたい。
だけど、本当にそれを言っていいのかどうか、分からない。
今はそれは、言ってはいけないような気もする。
精一杯笑っている彼月の心に、水を差すような真似はしたくない。
結局、何も言えなくて、わたしはただじっと、彼月を見つめ返していた。
すると、彼月はいきなり、ふわっと、わたしを抱きしめた。
「ふふふ。
君の言いたいこと、全部、分かっちゃった。
有難う。
君のその優しさは、僕を支えて強くする。
君と僕は、ひとつに還るんじゃない。
こうやって、お互いがお互いを支えるために、ふたつに分かれたんだ。」
それだけ言うと、さっと手を離して、彼月は行こうとした。
その背中を見た瞬間だった。
ふっ、と、一三夜と最後に別れたときのことを思い出した。
不安にいたたまれなくなって、わたしは彼月の袖を後ろから掴んだ。
「なに?どうしたの?
そんな可愛いことしたら、無理やり、こっちに攫って行くよ?」
足を止めた彼月は、振り返ってそう笑った。
「けど、今は君はここに置いて行こう。
研究院には、細愛さえ魔導障壁を作り替えれば、それで全部済でしょ、って。
そういう考え方をするやつもいないわけじゃない。
月の装置を動かさなかったことで、僕らに失望した連中もいる。
そういうやつらの前に、君の姿を晒したくはないからね。」
彼月はもう一度にこっとすると、袖を掴んだわたしの手を取って、軽く引き寄せた。
額に軽く、触れるか触れないかの口づけを落として、彼月はわたしに笑いかけた。
「僕は大丈夫だから。
いい子にして待ってて?僕の女神様。」
驚いた拍子に、思わず手を離すと、彼月はそのまま、くるりと振り向いて行ってしまった。
わたしは、今度は彼月を引き留められずに、ただ、その場に立ち尽くしていた。
どうしてか、涙が溢れて止まらなくて、困った。




