8
学士院を通り抜けして、一三夜は裏門のほうへ回った。
そこはあんまり人も来ないらしくて、整備も行き届いてなくて、柵もところどころ壊れていた。
蝶番の外れかけた門を、一三夜は力任せに押し開く。
ぎっ、と妙な音がしたかと思ったら、門は開かずに、どさっとそのまま外れて倒れた。
「あーあ。壊しちゃった。
まあ、いいっか。」
一三夜は外した門の扉を脇に立てかけると、こっちを振り返ってにこっとした。
「学校の裏山って、なんか、わくわくしない?」
いえ、取り立てて、わくわくはしませんが。
それより、わたしは今、一三夜の壊した戸のほうが気になるよ?
一三夜はちらっとだけ苦笑すると、そのまま乗騎を押して、裏口から外に出た。
そこは草のいっぱい生えた荒地だった。
「大昔はここに裏山に続く道があったらしいんだ。
今は、こんなだけどね。」
一三夜はそんなことを言いながら、わたしの前に乗った。
「ちょっと高度を上げるよ?
植物が多くて、法定高度じゃ飛べないから。」
操作盤をなにやらかちゃかちゃといじると、ふわっ、と乗騎が高く浮かび上がる。
「公道でこれをやると、違法改造で、すぐ警吏に捕まるんだけど。
こんなとこ、誰もいないから、いいかな。」
いや、捕まらなければいい、というものでもないと思うのですが。
「うわっ、高い・・・」
わたしは足の下の地面を恐る恐る覗き込む。
乗騎は人の身長よりさらに高く、建物の二階くらいの高さに浮かんでいた。
「怖い?
じゃあ、結界は作動しておこう。」
一三夜がさらになにか操作すると、からだが乗騎の上に安定するのが分かった。
「あなたにどうしても、見せたいものがあってさ。
もう少しだけ、付き合って?」
そんな顔してお願いされたら、嫌だとは言えなくなるよ。
不承不承頷いたら、一三夜は、にこっとして、乗騎を進ませ始めた。
乗騎は、さっきよりもゆっくりとした速度で森の上を飛んでいく。
見慣れた街中や整備された学内とは、ちょっと違った景色。
大昔、道だったところは、辛うじて、周りの林より木々が低い。
けど、注意して見ないと分からないくらい、もう、鬱蒼とした一面の森だ。
高さは、慣れるともう、それほど怖くはなくなった。
ゆっくりと流れていく周りの景色を眺めていると、ちょっと、さっきみたいに風を感じてみたくなった。
「一三夜、あの・・・」
言いかけて、口ごもったら、なに?と一三夜が振り返った。
「結界を、その・・・」
「外してみる?」
全部言わなくても、分かってくれるのが有難い。
小さく頷くや否や、ふわっ、とからだが浮かび上がる感覚があって、思わず一三夜にしがみついた。
「大丈夫。落としたりしない。」
その声にちょっと安心する。
結界を外すと、途端に、風や音や匂いが、わーっと一斉に、押し寄せてきた。
さらさらと風が髪をなぶっていく。
なんだか、ちょっと冷んやりとしていて、いい匂いもする。
あんまりそれが心地よくて、なんだかくすくす笑いたくなった。
「う、ん?
どうした?
笑ってるの?」
一三夜の訝し気な声が聞こえる。
それにますますおかしくなって、わたしは声を立てて笑い出した。
「なに?
どうしたの?
なにか、面白いことでもあった?」
笑い出したわたしに、一三夜は焦ったように尋ねた。
「一三夜が、びっくりしてるのが、おかしい。」
「は?なに、それ?
・・・・・・そっか。
まあ、あなたが笑ってくれるんなら、なんでもいいけどね。」
一三夜はちょっと呆れたように言ってから、少しだけ、乗騎の速度を上げた。
「折角だし、も少し、風を起こすかな。」
「風って、楽しいね?」
「そ?
そんなこと言ったら、調子に乗って、もっと速くするよ?
しっかり捕まって!」
その声を合図に、乗騎は、ぐん、と速くなった。
わたしは、一三夜にぎゅっと捕まって、流れる景色と吹き抜ける風を感じる。
胸のなかから、わくわくが、次々と湧き上がってくる。
わけもなく、笑いが止まらなくなって、困った。
森を抜け、まばらになった林を抜けた途端、視界いっぱいに広がったのは、一面の桜色だった。
大昔、空から降ったという雪のように、舞い降りる花のなかを、乗騎は風のように駆け抜けていく。
あんまり綺麗で、思わず、笑うのも忘れていた。
「・・・これは、桜?」
「そうだよ。
この辺りは、昔、桜並木があったんだ。
昔の人たちは、春になると、ここへきて、桜見をしたそうだよ。」
桜の花なら知っている。
画像も見たことあるし、生花店に行けば、枝にいっぱい咲いたのが、一年中、売られている。
だけど、こんなふうに、一面、桜の色に埋め尽くすような景色は、知らなかった。
「魔導障壁ができてから、桜は、温度管理された温室でしか咲かなくなったからね。
いや、桜以外も、だけど。」
一三夜は乗騎の高度と速度を落とした。
乗騎は並木の間をたゆたうように、ゆっくりと進んでいく。
「実は、この少し先に、魔導障壁の綻びがあってさ。
本当は、綻びは、見つけたらすぐに、修復しないといけないんだけど。
ここの並木が桜だってのには気付いていたから。
もしかしたら、咲くかも、って思って、修復しないでおいたんだ。」
「魔導障壁がないと、桜は咲くの?」
「外の、冷たい空気が入ってくるからね。
桜は、冬の寒さがないと、咲かないんだ。」
「冬の、寒さ?」
魔導障壁がなかったころには、夏は暑くて、冬は寒かったらしい。
暑いとか、寒いとか、実験室で体験したことはあるけど。
あんなのがずっと続くなんて、かなり辛かっただろうなって思ったっけ。
だけど、そっか。
桜は、冬、寒くないと、咲かないんだ。
「売り物の桜は、わざと寒い風に当てて、咲かせてるんだ。
けど、昔は、なにもしなくても、春になったら、桜は咲いた。
桜は春を告げる花だった。
昔の人は、桜を見て、春になったのを祝ったんだ。」
桜は春の使者。
寒くて辛い冬の終わりを教えてくれる。
一面の桜を見ていると、胸のなかがざわついてくる。
なにかが、そこから、わーっと噴き出してきそうな感じ。
これはもしかしたら、遺伝子に刻まれた、ご先祖様の記憶なのかな?
嬉しくて、けど、ちょっと、不安なような、どこか、むしょうに物悲しくなるような。
とても、とても、複雑な感情だった。
わたしは手を伸ばして、舞い落ちる花びらを捕まえた。
掌に乗せた花びらは、綺麗な桜色をしていて、なんだか宝物を捕まえた気持ちになった。
わたしはその花びらを大切に懐にしまった。
これ、帰ったら、押し花にしよう。
一三夜は並木のちょうど真ん中辺りで乗騎を地面に下ろした。
乗騎を長椅子代わりにして、並んで腰かける。
前を見ても、後ろを見ても、ずらっと並ぶ桜並木が、どこまでもどこまでも続いている。
そんな場所で、一三夜はおもむろに、おむすびの包を取り出した。
「どうせだったら、昔の人みたいにここであなたと桜見がしたくてさ。」
なるほど。
こんな素敵なお昼ご飯は、想像もつかなかった。
一三夜はおむすびを半分に割って差し出してくれる。
有難う、と受け取ったら、なんだか、ものすごく嬉しそうに、にっこり微笑んだ。
さっそく、大口を開けて、ぱくり、と頬張る。
ちょうどいい塩気と、つぶつぶのお米の味が、口いっぱいに広がる。
お行儀悪いけど、すっごく幸せ。
むふむふ、とあっという間にひとつめを平らげてしまった。
ふと、隣を見ると、一三夜はまだおむすびを手に握ったまま、こっちをにこにこと見下ろしていた。
「ふふ。ついてるよ?お嬢さん。」
そう言って、わたしのほうに手を伸ばしてくる。
細くてきれいな指先につまんだご飯粒を、一三夜は、ぱくっと自分の口に入れた。
「あ。」
「ふふ。ご馳走様。」
顔が熱い。
ものすごく恥ずかしい。
子どもみたいに、顔にご飯粒付けてたのもだけど。
なにも、それ、自分で食べなくても・・・
下むいて焦ってたら、笑い声が降ってきた。
「あなたのその可愛い顔見てたら、胸がいっぱいになって、もう何も入らないな。」
「え?」
可愛い、とか、あんまり言われ慣れてないから、ひどく戸惑ってしまう。
一三夜って、きっとちょっと、普通の人とは、感覚がずれてるんだろうね。
だとしても、そうしょちゅう、可愛いとか、言わないでくれないかな。
そのたびに、どきどきしちゃって、わたし、困るから。
抗議しようと思って顔を上げたら、目が合って、あ、と言った。
「次の、だね?
ちょっと待っててね?」
一三夜はそう言うと、手に持ったおむすびを無理やり口に押し込んで、ふたつめを取った。
「よ、っと。
はい。」
さっきのも美味しかったけど、差し出されたおむすびも、もっと美味しそう。
やだ。
おむすび見て笑うなんて、なんだか、恥ずかしいけど。
ついつい、笑顔になっちゃう。
抗議しようって思ってたのも、すっからかんに忘れていた。
受け取って、ほくほくしてたら、一三夜の笑い声が降ってきた。
「そんなに喜んでもらえるなんて、わざわざ買いにいった甲斐があったよ。」
「いいお店、教えてもらえてよかった。
今度、夏生とも一緒に行くよ。」
それに、とわたしは、辺りの景色を見回してから言った。
「こんなに綺麗な場所で食べられるなんて。
最っ高のお昼ご飯だね。」
心底、そう思う。
力を込めて言ったら、一三夜は嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかった。綻び、慌てて修復しなくてよかったよ。」
「あ!
それって、大丈夫なの?
その、黙ってて、怒られたり、とか、しないの?」
魔導障壁の綻びなんて、実は結構、重大な問題なんじゃないだろうか。
心配になって見上げたら、バレたら怒られるだろうなあ、とあっさり笑った。
「まあ、僕は怒られるのなんて、日常茶飯事だから。
それに、桜の季節も、あと少しだけだから、それが過ぎたら、急いで修復しておくよ。」
「一三夜が修復するの?」
「一応ね。
これでも、魔導理学は習得してるからね。」
そうだった。
「この程度なら、小さな綻びだろうし。
障壁内は、魔導圧を高めてあるから、瘴気は流石に入ってこないだろう。
この辺りは、あまり人も来ないから、異変に気付いてるやつも、そうそういないだろうし。
もしかしたら、バレないうちに、修復できるかも。」
「怒られないうちに、修復、できるといいね?」
そう言ったら、わたしの目を、じっと覗き込むように見た。
「怒られてもいいよ。
あなたのその笑顔が見られたから。
このご褒美と引き換えなら、多少の罰は甘んじて受けることにする。」
そんなこと言うけど。
「わたしは、わたしのせいで、一三夜が怒られるのは、嫌だなあ・・・」
「あなたのせいじゃないよ?
僕が、あなたをここに連れてきたかっただけ。
あなたは、無理やり共犯者にされて、なのに、そんなふうに笑って僕を許してくれる。
寛大な女神だ。」
なんかさ、そんなふうに言われると、わたし、なんかすごいみたいだけど。
本当にすごいのは、わたしじゃなくて、一三夜だと思う。
「ここに連れてきてもらえて、よかった。
桜、見せてもらえて、よかった。
それで、一三夜が怒られるんなら、わたしも一緒に怒られる。
修復、とか、手伝えないけど。
代わりになにか、一三夜のためにできることがあったら、なんでもする。」
そう言うと、一三夜はびっくりしたみたいに、わたしの顔をじっと見た。
合わせられた視線を、どうしてか逸らせなくなる。
そのまま一三夜は、ちょっとかすれた声で、淡々と呟いた。
「・・・バカだな・・・
なんでもする、なんて、そう易々と口にするもんじゃないよ?」
それから、自分から目を逸らせると、ひとつため息を吐いた。
「いいや、バカなのはこの僕だ。
無垢な女神をこんな場所に連れてきて、正気を保てるほど、自分は聖人じゃないって忘れてた。
自分で自分の首を絞めるような真似をして、いったい何をやってるんだか。」
それから、ひょい、と乗騎から飛び降りて、いきなり走り出した。
「え?どこに行くの?」
慌てて追いかけるけど、一三夜には到底、追いつかない。
見る見る間に桜色の吹雪のむこうへと、その姿は消えていく。
なんだろう。胸がざわつく。
どきっ、どきっ、どきっ、と自分の心臓の音が聞こえる。
息が苦しくて、もう、走れなくなる。
嫌、だ・・・行かないで・・・
置いて行かないで!
胸の奥底から、言葉が迸った。
口に出して言ったかどうかは分からない。
どうしてそんな言葉が出てきたのかも、分からない。
どこか、別の世界の出来事のように、わたしは、それを感じていた。
そのとき。
小石か、木の根っこか、何かにつまづいて、わたしは転びそうになった。
あ・・・・・・
その瞬間だった。
ごぉっという風が巻き起こり、辺りの花を巻き上げて、強く吹き抜けていく。
ふわっ、とからだが浮く感覚があって、気が付くと、一三夜の腕に抱きとめられていた。
「あ・・・。一三夜?」
なにが起こったのか、分からなかった。
ただ、一三夜は隣にいて、わたしは転ばなかった。
一三夜は、入学式のあのときのように、ぎゅぅっとわたしを抱きしめた。
それから、声を絞り出すようにして言った。
「置いていきません。
今度こそ。
何があっても。
絶対に。」
一言、一言、誓うように呟く。
そのとき、ごぉおっと、さっきよりもっとすごい風が巻き起こった。
あまりの風に目を開けていられなくなる。
一三夜は、風上に背中をむけて、わたしを庇うように、からだの下に抱きすくめた。
「・・・・・・あ・・・・・・」
うっすらと開いた目に映ったのは、この世のものとは思えない光景だった。
ごぉっと渦を巻くように、花を巻き込んで風が並木を吹き抜けていく。
「花の、竜だ。」
それはまるで、桜並木のなかを突き抜けて行く、桜色の竜のようだった。
「・・・はは・・・あははは・・・」
背中に、一三夜の笑い声が聞こえた。
あはははは、と、一三夜はいつまでも笑っていた。