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月へ行く準備は順調に整えられた。
その日の特別な衣に、彼月は、黒の花嫁衣裳を用意してくれた。
「これは、一三夜のための花嫁衣裳だったんだね。
僕と再会しても、君は、黒を着たいって、ずっと言ってた。
それって、君にとっては、僕はもう、一三夜じゃないってことなんだ。
その君の気持を踏みにじろうとは思わないけど。
まさか、過去の自分に嫉妬する羽目になるとは。
おまけに、そいつはもう、どうやったって、僕と同じ土俵には立ってくれないときた。」
そんな話をしながらも、彼月は衣裳をわたしに着付けてくれた。
それは、前に一度、試しに着たときよりも、はるかに動きやすく、機能的になっていた。
「君のこと、本当は、大事な宝物のように、家の蔵に閉じ込めておきたい。
だけど、今回ばかりはそうはいかない。
僕らには望から引き継いだ大事なお役目があるから。
そのために、少し、動きやすくしておいたんだ。」
軽くて動きやすいのに、この世にふたつとない、華麗で豪華な衣裳。
そのふたつを同時に実現する彼月って、やっぱり、すごい。
それは、わたしの願い通りの婚礼衣装だった。
「自分で灰色に染めた衣を着続けていた君を、僕は、愛おしいって思った。
君が待っていた僕じゃ、僕はもうないかもしれないけど。
君に僕を返してあげたい。
いいや、変わってしまった分も含めて、君に僕を全部あげるから。
どうか、もらっておくれよ?」
冗談めかして言いながら、彼月はちらっとわたしを見た。
・・・と、言われましても・・・
それはあまりに、畏れ多く・・・
わたしは慌てて目を逸らせて、そのまま固まった。
「いいかい?これでおしまいだとは思わないで。
少なくとも、僕には、おしまいにするつもりはないから。
君と、君の一三夜のために、僕はこの黒の衣裳を作ったけれど。
無事に戻ったら、今度は、君のために、白の衣裳を作るよ。
今度こそ、身動きできないくらい、豪奢の限りを尽くした、見事な衣をね。」
白の婚礼衣装。
それを着るには、隣に花婿がいないといけない。
「僕のために、その黒を脱いで、白を着てほしい。
僕は、もう、一三夜じゃないけど、彼月として、もう一度、君に懇願するよ。」
わたしは微動だにせず、ただ、彼月の言葉を聞いていた。
戻ってきたら、多分、そうなるんだろうな、って、ずっと思ってた。
そうなるのが、一番いいんだろうって、今も思ってる。
なのに、素直に頷けないのは、どうしてなんだろう。
< わたしはもう、このままずっと、この黒の衣を着ていたい、かもしれない。 >
ようやっと返せたのは、その言葉だった。
彼月のこと、嫌いじゃない。
だけど、やっぱり、伴侶にはなれない。
浄化装置を起動したら。月の神様を起こしたら。
天使の役割を無事果たしたら。
あとは、ただの千鶴になって、一生、一三夜を思って暮らしたい。
わたしの答えに、彼月はがっかりするか、怒り出すか。
どっちだろうと思っていたら、にやっと不敵な笑みを浮かべた。
「君がそう言うだろうってことは想像してた。
だけど、構わない。
僕は、いつまでだって待つつもりだ。
自分のこと、せっかちな性格だって、思ってたんだけど。
不思議だね。
君のことなら、いつまでだって待ってられる。」
待っててくれなくてもいいんだけど。
彼月なら、その気になれば、伴侶になりたいって人は大勢いるだろう。
「僕はね、自分の幸せに関しては、誰より、貪欲なんだ。
だから、君のことは、諦めない。
僕の幸せには、君は必要不可欠だから。」
今日は帯も、黒曜石を使って作り直したものだった。
彼月の指は、固い帯を、器用に花園に作っていく。
わたしのための天界の花園。
「この景色だけは、どうしてか、心に焼き付いていて。
記憶を失っても、これだけは、失くさなかった。
木の一本一本、花の一輪一輪に至るまで、全部、位置は決まっているんだ。
だからこそ、君にあの衣裳がぴたりと合ったとき、君のことを、特別な人だって分かった。」
僕なりの、君を見つけるための方法だったのかもしれないなあ、と彼月は呟いた。
魂に刻まれた記憶は、消えない。いつか聞いた言葉。
彼月の魂には、天界の花園の景色が刻まれているんだろうか。
「白の衣を着るときには、あのときの帯を着けてほしい。
あれは、僕にとっては、特別なものだ。
前は、失った自分の手掛かりのようなものに感じていたけれど。
今はもっと、大事な、君と僕を、結び付けていてくれたものに思う。」
その大事な手掛かりの衣を、彼月は惜し気もなく、黒く染めてしまった。
わたしを見つけるために。
「君を全身着飾らせて、家の一番奥に閉じ込めておきたい。
晶から聞いたんだ。
もう何年も、君は家に閉じこもりきりだった、って。
だったら、さいっこうに居心地のいい家を作って、ふたりで閉じこもろう?」
確かに、彼月なら、最高に居心地のいい家を作れそうだけど。
「僕らの暮らす家は、あまり広くないほうがいいね。
どこにいても、君の気配を感じられるくらいがいい。
いつも、同じ空間にいたいんだ。
元々、僕らは、ひとりの天使だったんだから。
それが、自然だと思わないかい?」
望だったときの記憶は、彼月にも、わたしにも、残ってない。
だから、わたしには、どうするのが自然かは、よく分からない。
だけど、やたらと楽しそうに話す彼月に、そうでもないかな、とは言えなくて。
こんな冷たいわたしのことを、そんなふうに思ってくれるのにも申し訳なくて。
わたしは、返すのにちょうどいい言葉を見つけられずに、ただただ、曖昧な笑みを浮かべていた。




