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弥生朔日
はじめまして。
書記吏員を志す者としての心得その一。
新しい帳面を使い始めるときには、まず、自分自身のことを書き記すこと。
といっても、これは帳面とは違うのだけれど。
初めての起動だから、まずは、いつも通り、はじめまして、から始めることにする。
わたしの名は千鶴。
名前の由来は、鶴を千羽折れば、願いが叶うという故事から。
古来人々は、知識や技術だけじゃどうにもならないことを願うとき、鶴を折ったという。
それって、鶴を折って願うのは、奇跡、ということなのかな。
ずっと長いこと考えているけれど、まだその答えは見つからない。
この春から、書記吏員の研修生として、学士院に通うことになった。
書記吏員を目指す者は学士院に通うことを義務づけられている。
多くの言葉と出会い、多岐にわたる分野の知見を得るため。
匠になるために親方に就いて修行する人たちのように。
わたしは学士院に行って、書記吏員になるための修行をする。
書記吏員というのは、毎日の身の回りの出来事を文字にして記録する役割だ。
個人的な日記のようなものが、正式な記録になるなんて、ちょっと困る気もするんだけど。
その時代の暮らしや、人々の物の考え方の生々しい描写は、後の世には貴重な記録になるらしい。
島に書記吏員は大勢いて、その人たちみんな、それぞれの生活を記録している。
個人的な記録は、書記吏員の数だけあることになる。
その膨大な量の記録によって、歴史というものが織りなされていくんだそうだ。
書記吏員の研修生となったわたしは、記録魔導器の取り付け施術を受けた。
この魔導器を使えば、頭のなかで考えた言葉が、瞬時に文字になって記されていく。
あとで見返して、あちこち校正はしないといけないんだけど。
おかげで、格段にたくさんのことがらを、書き記すことができるようになった。
だけど、考えたことが全部、言葉になって書き記されるというのは、ちょっと怖い部分もある。
他人には到底見せられないような自分の気持ちまで、そこにはありありと書き記されてしまう。
ときには、耐えられないくらい醜い自分と、ばったり対面してしまうこともある。
もちろん、それは、他人に見られる前に、削除することもできるけれど。
それを目の当たりにしなければならないというのは、書記吏員の宿命だ。
と、ここまで書いて、わたしは携帯用の魔導手帳を確かめた。
すごい。
本当に考えたこと全部、文字になっている。
人間の思考というのは、言葉だけじゃなくて、もっともわっと漠然とした部分もあるけれど。
そこから、言葉として抽出されたものだけ、ちゃんと文章になって書き連ねられていた。
簡単な校正機能もついているから、微妙な言い回しも、ちゃんと意味が通じるように直されている。
考えた言葉全部、きれいに文章にしてくれるなんて、なんて便利。
ご先祖様、どうも有難う。こんな便利な魔導器を発明してくれて。
しん、とした聖堂の片隅。
わたしは胸いっぱいに息を吸い込んで、ひとつ深呼吸をした。
学び舎、と呼ばれる場所に独特の匂いがする。
誰もいない静かな聖堂が、どうしてか幼いころから大好きだった。
僅かな衣擦れや、床の軋む音。そんな微かな音も、驚くほど大きく響く。
静寂そのものの音の聞こえるようなこの場所が、わけもなく好きなんだ。
今日は学士院の入学式。
わたしは、指定された時間よりずいぶん早く、ここにやってきた。
聖堂は特別なとき以外はしっかり鍵をかけられていて、勝手に中に入ったりはできない。
まだ誰もいないうちに、この場所を、たっぷり堪能したかった。
周囲を覆う帳の隙間から、朝の日差しが幾筋も差している。
光のなかを、小さな埃が、ふわふわと舞い踊る。
それさえも、小さな妖精の祝福の舞に見えて、思わず微笑んでしまう。
世界が、わたしたちの新しい門出を、祝福してくれている。
そんなことを思うくらい、今日のわたしは、いつになく浮かれているらしい。
選ぶのはいつも、一番後ろの隅の席。
ここからなら、これからここに来る人たちを見渡せるから。
学士院に通うのは、書記吏員の研修生ばかりじゃない。
いろんな分野を専門とする人たちがいる。
その人たちをじっくりと観察したかった。
人と話したり、関わったりするのは、ちょっと苦手なんだけど。
人間そのものが嫌いというわけじゃない。
人を見ているのは、とても面白い。
だから、なるべくわたしは自分の気配を殺して、こんなふうにこっそり、観察をする。
そうこうしているうちに、気の早い人たちが、ちらほらと、聖堂にやってきはじめた。
って、誰よりも気の早かったのは、他ならないこのわたしだっけ。
みんな、きょろきょろと席を見渡しては、思い思いの席に着く。
一番前じゃなく、一番後ろでもなく、真ん中辺りの列の、端のほうから。
だけど、聖堂の隅にいるわたしの傍には誰も来ない。
だからわたしは、遠慮なく、ここからみんなを見ていられる。
以前からの知り合い同士、という人たちはそれほどいないようだ。
島の学士院はここだけだから、島中の高等院から、ここには学を志す人たちが集まってくる。
みんなどことなく緊張して、だけど、新しい時の始まりにわくわくしているようにも見える。
期待に膨らむ胸には、学士院生を表す記章がきらきらと光っている。
記章の色はそれぞれの専門によって違っている。
自分の記章と同じ色の人を探せば、同じ専門の人を見つけられるわけだ。
ぽつりぽつりと離れて座っていた学生たちの間も次第次第に埋まっていく。
やがて、聖堂のなかは、心地よいざわめきに満たされた。
どんな場所にでも、人の集まりの中心になれる英雄的人材はいるものだ。
そっちこっちで、楽し気な談笑も始まっている。
袖擦りあうだけでも、他生の縁になるくらいなんだから。
この特別な式で、近くの席に座るなんて、そりゃあもう、絶対、今生に縁があるに決まってる。
はじめまして同士の友だちの輪、というのが、そっちにも、こっちにも、広がっていた。
ざっと見渡したところ、わたしの他に書記吏員の研修生は見当たらない。
そもそも、書記吏員になろうという者からして、多数派とは言えない。
もしかしたら、同じ学年に他にはいないのかもしれない。
もうじき式が始まる時刻になった。
流石に、わたしの周りの席も、埋まってしまっている。
けれど、誰も、一番端っこのわたしには、話しかけてこない。
なるべくうつむいて、誰とも目を合わせないように気を付ける。
知らない人に話しかけられても困る。
なんとか、式が終わるまで、このまま誰も話しかけてこないといいな。
そう考えていたときだった。
「失礼。この席、代わってもらえないかな?」
突然、そう声をかけられて、思わず、立ち上がってしまった。
高過ぎず、低過ぎず、ちょうどいい高さの声。
柔らかくて穏やかな、落ち着いた話し方。
その声には、どこにも驚かすところなんてなかったんだけど。
とにかくわたし、ひどく、びっくりしてしまった。
立ち上がった瞬間、膝に載せていた荷物が、どさどさと床に散った。
しまった。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫?」
その人はわたしに謝りながら、しゃがんで荷物を拾い集めようとしてくれた。
わたしも慌てて、荷物を拾い集めるためにしゃがみ込んだ。
「え?は?
もっと前に行けば、席、あいてるよ?」
わたしの隣に座っていた人が、怪訝そうに答えるのが聞こえた。
なんだ、さっきの、わたしに言ったんじゃなかったのか。
でも、なんでわざわざ、一番後ろの、それも、端から二つ目の席?
不思議に思って隣でせっせと荷物を拾い集めている人のほうをちらりと見る。
するとその人もこっちを見ていて、目が合ってしまった。
その瞬間、はっとして、わたしは思わず荷物を拾い集める手を止めていた。
え?涙?
清んだ綺麗な瞳に、今にも零れ落ちそうに、うるうると涙が盛り上がっている。
なんで、泣いてるの?
まさか、そんなに、ここに座りたかったとか?
その人は、目にいっぱい涙を溜めながら、わたしに笑いかけた。
その笑顔に、心臓が一回、どきりと跳ねた。
う。
なにこれ。
純粋さと儚さとを永遠に閉じ込めた宝物、みたいな・・・
えっと、例えるなら、天人の微笑み?
きらきらと輝く瞳が眩しくて、とても直視できない。
泣きながら笑う人を綺麗だと思ったのは、これが初めてだ。
いやいや。こんな結構なものを見せていただけるなんて。
有難や有難や、と思わず拝みそうになる。
それにしても、泣くほどここに座りたいんなら、席くらい、譲ってあげますよ?
慌てて荷物をかき集めると、わたしは、その人のほうを見ないようにして、早口で言った。
「あ、あの。
よかったら、ここ、どうぞ?」
さっきまで自分の座っていた席を手で示してから、じゃ、と背中をむける。
とにかく、一刻も早くここから逃げ出したい。
なんだか、こういう、きらきらしい?相手って、苦手中の苦手だ。
けれど、行こうとしたその背中を、あの声が呼び止めた。
「あなたはダメだよ、千鶴さん。
あなたは、ここにいて?」
「は、い?」
ぎょっとして、思わず振り返った。
なんで、わたしの名前、知ってるの?
名乗った覚えもないし、昔からの知り合いというわけでもない、はず、ですよね?
いやでも、わたし、人の顔を覚えるのって、苦手で・・・
もしかして、どこかで会ってた、とか・・・?
わたしの疑問は素直に顔に出ていたらしい。
その人はちょっと苦笑すると、手に持っていた封筒を指さした。
あ。それって、さっき、わたしの落としたやつ?
それは入学許可証の入った封筒だった。
今日、わざわざ持ってこなくてもよかったんだけど。
なんとなく嬉しくて、持ってきちゃってたんだ。
封筒にはしっかりとわたしの名前が書かれていた。
「あ。
・・・これは、どうも・・・」
だけど、返してもらおうと伸ばした手から、すっ、と封筒は遠ざかった。
え?あの、それ返してもらえないと、困る、んです、けど・・・?
もう一度目を上げたら、また目が合ってしまった。
今度はその瞳に涙は浮かばず、ただ、にこっと微笑んだ。
けど、また、その微笑みが、どうしようもなく、眩しい。
慌てて視線を逸らして、もごもごと口のなかで言った。
「あの、それ、・・・その・・・」
う。
自分でも情けない。
だけど、知らない人だと緊張してしまって、なかなか言葉が出てこない。
そのとき、ざわざわと辺りの人が話す声が聞こえてきた。
あの人、一三夜だよね?
うそ。一三夜もここに入るの?
まさか、一三夜と同級生?
イサヤ?
・・・って、ええっ?
あの、一三夜?
思わず目を上げて、もう一度、しげしげとその顔を見つめてしまった。
世の中のことにはちょっと疎いわたしでも、一三夜の名前は知っている。
幼いころから、天才少年と呼ばれ、天界人の再来とも噂される。
数学、科学、語学、人文社会学・・・、ありとあらゆる学問を習得した、生ける百科事典。
絵画や音楽のような芸術にも造詣は深く。
現在、総合研究院にて、魔導研究の最先端を担う研究者のひとり。
え?本当に?まさか、本物?
そんな人が、学士院に何しに来たの?
あ。そっか。もしかして、先生、とか?
いやだけど、それなら、こっちの席じゃなくて、あっちの先生たちの席に座るよね?
聞いてみたいけど、流石に面と向かっては聞けない。
一三夜は、ちょっと、しまった、って顔をしてから、えへっ、と肩を竦めてみせた。
それから、おもむろに、隣の人にむかって、拝むように手を合わせた。
「ごめん。
あんまり目立ちたくないんだ。
お願いだから。」
ああ、なるほどなるほど。納得です。
そりゃ、そうですよね。うんうん。分かります。
「あ、じゃ、ここ!
あの、ここ!」
わたしは、ぶんぶん、と首と手を振って自分の座っていた席を示した。
それから大急ぎで逃げ出そうとした。
こんな有名人に関わるなんて、一生に一回、あるかないかのことなんだろうけど。
いやもう、今、一回、あったわけだから、もうわたしの人生には二度とないだろうけど。
あまりに光栄過ぎて、いやもう、なんか、無理。これ以上は、無理。
これ以上こんなところにいたら、溶けてしまう・・・
けど、そのわたしの手首は、やんわりと、後ろから掴まれていた。
「ひぇっ?」
・・・どうしてでしょうねえ、こういうとき、え?じゃなくて、ひぇっ?とか言ってしまうのは。
「あ。痛かった?ごめんなさい。」
一三夜は弾かれたように手を離した。
いや、痛くはなかったですけど。
なんで、そう、引き留めるの?
その答えの代わりに、一三夜は、わたしの入学許可証の入った封筒を指さした。
あ。それだった。
って、さっき返してもらおうとしたのに、引っ込めたのは、そっち、です、よね?
困惑するわたしに、一三夜はいとも鮮やかな微笑みを見せる。
あの、それ、やめてもらっても、いいですか?
そのうちわたし、眩しさに耐えきれなくなって、砂になって崩れ落ちそうなので・・・
しかし、そんなこんなしている間に、隣の人はさっさと荷物をまとめて席を明け渡してしまった。
まあ、流石に、そうなるか。
一三夜はしれっとあけてもらった席に座ると、隣の席をぽんぽんと掌で叩く。
「ほら、あなたも。ここへおいでよ?」
え?
・・・いや、あの・・・
「ほら、もうじき、式が始まるよ?」
あ。それは大変だ。
わたしは急いで元の席に着いた。