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朝食が済むと、彼月は、じゃ、って帰って行った。
というか、通信を切っただけなんだけど。
この通信、受信機のすぐ近くでしか、映像を出せないらしい。
受信機は今、彼月の部屋と水月の店にだけあって。
だいたい、映像化できる範囲は、ぎりぎり、家のなか、くらい。
受信機は持ち歩くような大きさじゃないから。
映像のまま、お花見についてくる、というのはムリらしい。
「腕によりをかけたお弁当、持って行くからね~。」
そうだった。
映像だと、物を持って行く、もできない。
美味しそうなお弁当を見せびらかす、だけになっちゃう。
手を振る彼月の姿が、ふっと消えた。
それにどきっとして、そのままわたしは立ちすくんでしまった。
単に通信を切っただけ、それは分かってるのに。
まるで、彼月が消えてしまった、そんなふうに感じた。
「どうしました?千鶴さん?」
わたしの異変に敏感に気づいて、水月が近くに寄ってくる。
わたしはその胸にいきなりしがみついた。
水月は、ちょっとだけ、驚いたみたいだったけど、すぐにわたしの背中に腕を回してくれた。
「大丈夫。彼月さんは、いなくなったわけじゃないですよ?」
わたしの今一番言ってほしい言葉を言ってくれる。
「・・・ごめん。」
こんなことで取り乱すなんておかしいって、分かってるんだけど。
「彼月の姿が、いきなり、消えたから、その・・・」
わたしの髪を、水月はゆっくり撫でた。
そうして、次になにか言うのを、ただじっと待っていてくれた。
わたしはこの得体のしれない気持ちを、言語化しようと、必死に言葉を探した。
「振り返ったら、水月がいなかった。
そのときのことを、思い出して、その、怖くなった。
とてつもなく、怖く、なった。」
人が、突然、前触れもなく、消えた。
正確には、水月は、人、ではないけど。
存在が、突然、消滅する。
跡形もなく。
なにもなかったみたいに。
そのことを、わたしの心は、いまだにこれほどに恐れているんだって、自分でも初めて気づいた。
「千鶴さんの心を、オレ、こんなに、傷つけてしまったんですね?」
水月はため息と一緒に、ごめんなさい、と呟いた。
わたしは、ふるふると首を振った。
そのわたしに、水月は、もう一度、ごめんなさい、と言った。
「あなたのなかのオレを、オレは消すことができませんでした。
あなたのことを本当に思うなら、全部、消して行くべきだったのに。
オレは、オレの気持ちを、あなたに押し付けた。」
辛そうに言葉を絞り出すように続ける水月に、わたしは、ただ、ふるふると首を振り続けた。
「どうしても、あなたにだけは、忘れられたくなかった。
あなたの心のなかに、自分の影を遺しておきたかった。
憎まれても恨まれても、忘れられるよりよかった。
けど、それは、あなたをこれほどに深く傷つけてしまった。」
「憎んだり恨んだり、するはずない。」
そこは、黙っていられなかった。
水月は、小さく笑って、そうですよね、って言った。
「あなたは、ただ、いつも、変わらずに、愛を注ぎ続けてくれてましたね。
どんな状況になっても、あなたは、少しも変わらなかった。
オレは、完全には消滅していませんでした。
ただ、ほの明るい場所で、まどろんでいるような、状態でした。
そのなかで、ずっと、あなたのぬくもりだけ、感じていました。
あなたを悲しみに突き落としておきながら、自分は、ぬくぬくと幸せでした。
このまま、ゆるゆると消えていくのも悪くない。
ぼんやりと、そんなことを思っていました。」
「細愛は、何回も、あなたを置いて逝ったんだよね?」
わたしは、ひとりになったときに何度も考えたことを思い出した。
「多分、細愛は、それが一番いい、って思ってやったんだと思う。
それが、サイカと寒月のためだ、って。
だけど、それが、どんなに残酷なことだったのか。
ようやく、分かった。」
細愛は、何度も何度も、サイカと寒月を苦しみに突き落とした。
「わたしは、自分の罪深さをようやく、思い知ったんだ。」
「オレはね、細愛の悲しみを理解しましたよ?
自分はどうなっても、愛する人に生きていてほしい、って。
いっつも、オレは、あなたに先を越されていたけど。
ようやく、オレも、あなたにもらっていたものを、少し返せた気がしました。」
水月はわたしをもう少しぎゅっと抱きしめた。
「置いて逝くほうだって、苦しい。
あなたがどんな気持ちで、オレたちを遺して逝ったのか、それもよく分かりました。
それでも、何を引き換えにしても、護りたい、という気持ちは、オレも同じでした。」
「・・・だけどね、細愛は、それを忘れてしまえたから。
生まれ変わったら、もう辛いことは、全部、なしになってたから。」
そうなんだ。
水月の背負っているのは、さらにもう一段、深い苦しみだ。
それも、ようやく分かった。
「確かに、忘却はある意味救いです。
せめて、あなたにその救いがあったのは、本当によかったって思います。」
寒月と細愛は、生まれ変わるたびに、全部忘れてしまう。
だけど、サイカだけは、忘れられなかった。
それをサイカ自身が、強く願ったから。
「・・・なんで、そんな辛いことを、自分に課しているの?」
絶対に忘れない。
サイカが自分に課した願いは、いっそ呪いなんじゃないかとすら思う。
けど、水月は、ふふっ、と笑って、楽しそうに答えた。
「苦しみを忘れることよりも、幸せを忘れないことのほうがずっと大事だからです。」
それは、なんとなく、分かるなと思った。
「そう、だよね。
わたしも、水月のこと、忘れなくてよかった。
辛かったし、苦しかったし、みんなからは、壊れた人扱いもされてたけど。
それでも、なんか、その奥底に、希望、みたいなものを感じてた。」
「あなたがそれに耐えてくれたからこそ、オレは戻ってこられたんですしね。」
そっか。
そう、だよね。
水月が憶えていてくれたからこそ、わたしたちは、またこうして出会えたんだ。
「千鶴さんの綴り続けた言葉が、彼月さんに伝わって。
彼月さんの呼びかけに、大勢の人が応えてくれた。
そのおかげで、オレは戻ってくることができたんですよ。」
そうだ。
辛い記憶も。
悲しい思いも。
その先の幸せを連れてくるために、必要なものだった。
「桜は、冬に耐えて、咲くものですねえ。」
「・・・そっか。」
それに、あの綺麗な景色は、たくさんの花が集まって作ってるんだ。
それは、この世界を動かす魔導力と同じだと思った。
なんだか、すごく、桜を見たくなった。
「早く、行こう、水月。」
わたしは顔を上げて水月に言った。
水月も、嬉しそうに、はい、って頷いた。




