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その瞬間。
島中の白い鶴が、一斉に羽ばたいた。
姿も音も匂いもない、圧力すらも感じない。
けれど、それは確かにそこにある。
そんな波動が、ありとあらゆる場所から沸き起こった。
波動に乗るように、鶴は飛び立ち、そしてそれは、大きな竜を形作った。
それは、日の光を反射して、眩しい白い竜だった。
竜の姿は、聖堂にも大きく映し出されていた。
そして、白竜は、映像から、こっちに迫るように脱け出してきた。
胸につけた小さな折鶴が、きらきらと眩く輝いた。
それは、水月の鱗の真珠の色だった。
折鶴は、首にかけた紐から外れると、ぽとり、と床に落ちた。
すると、その場所から光が噴き出して、光のなかに、ひとりの人の影が立ち上がった。
ひょろりと背が高くて、その背をいつも少し屈める猫背が癖になっている。
・・・水月?
見間違えるはずもない。
「千鶴さん。」
人の形をした真珠色の光は、水月の声でわたしの名前を呼んだ。
そのときだった。
わたしの脇から、音もなく、いきなりショウちゃんが飛び出した。
ショウちゃんは、真っ直ぐに、水月へと襲い掛かった。
止める暇もなかった。
わたしは悲鳴を上げたけれど。
鶴を失くしたわたしの声は、音にはならなかった。
「あは。あははは。ちょっ、やめっ、あはははは。」
絶望の静寂のなかに、響いたのは、水月の笑い声だった。
はっとしてつぶった目を開くと、そこには、ショウちゃんに押し倒されて笑う水月がいた。
ショウちゃんはまるで、大きな犬がじゃれつくように、水月の顔を舐めまわしていた。
「こらこら。
千鶴さんがびっくりしたでしょう?」
床に両足を投げ出して座った水月は、わたしのほうへ手を差し伸べる。
わたしは真っ直ぐにその胸に飛び込んでいった。
水月に抱きついてから、あ、これ、わたしもショウちゃんと同じだ、と思った。
いや、でも、今はそんなことはいいんだ。
水月が。帰ってきてくれたんだから。
「いいえ?
帰ってきたわけじゃありませんよ?」
声にならないわたしの言葉に、水月は答えた。
「ずっと。一緒にいましたよ?
ちょっと魔導力切れ状態になってましたけど。
オレは、ひとときも、あなたの傍からは離れていません。」
わたしははっとして、胸の折鶴を探ろうとした。
わたしの声になってくれる、あの小さな鶴は。
水月の作ってくれたあの魔導装置は。
何を素材にしたのか分からなかったけど。
固くて。頑丈で。軽くて。綺麗で。魔導力をたくさん秘めている。
そうだ。
あれは、水月の鱗だ。
水月の魔導力は、世界中の瘴気を消滅させるのに使い果たされてしまったと思ったけど。
ほんの少しだけ。
わたしの声のために。
ここに残してあったのか。
水月は、くくっ、と笑って、なにやら、掌の上で光を折った。
開いてみせたその掌には、あれとそっくりな鶴が一羽、のっていた。
水月はその鶴を、わたしの首にかけてあった紐に吊るしてくれた。
「すいません。ちょっとお借りしました。
けど、みなさんがオレにたくさん魔導力を送ってくれましたんで。
もっぺん作っときますね?」
「・・・水月・・・?」
「やっぱりその声で、最初に呼んでくれるのは、オレの名前なんっすね?
嬉しいっす。」
水月はそう言ってわたしを抱きしめる。
わたしも、水月の胸のなかに顔を埋める。
「もう、会えないかと思った。
みんな、水月のこと、何も憶えてないし。
この世界から消えちゃったのかと、思った。」
「いやいや~。
実際、痕跡もなにも無くなるくらい、この世界からオレは消滅してたんっすけど。
千鶴さんが頑張ってこの小さな欠片を残しておいてくれたんっすよ。」
水月はさっき作ったばっかりの折鶴を、そっとつついた。
「辛い思いをさせてしまいました。
あなたのなかからも、オレの痕跡を消せたらよかったんですけど。
どうしても、それができなくて。
申し訳ないって、思いながら・・・」
「申し訳なくなんかない。
わたし、水月のこと、忘れたくなかった。
大事な水月との思い出、たとえ水月にでも、消されたくなんかないよ?
それがあるから、わたし、ずっと、生きていられたんだから。」
水月は、わたしの顔を覗き込むようにして、じっと目を見つめた。
「誰に何を言われても。
オレのこと、信じて、待っていてくれた。
そんな千鶴さんの言葉がたくさんの人に届いて、もう一度オレをここに戻してくれたんです。」
水月はわたしを抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「憶えていますか?
あの、入学式。
ちょっと、結婚式みたいでしたよね?」
あのときも、こんなふうに、水月に抱えられて、退場したんだっけ。
「降りたいのに。降りられなくて、困ったんだよ。」
「あのとき、千鶴さん、家に帰りたい、って思ってたでしょう?
だから、一刻も早く、帰らせてあげなきゃ、って。
オレも、いろいろと、その、人間社会の常識ってのに疎くて・・・」
水月は言い訳するように言いながら、くくっと笑った。
「いやいや。
もう一度、ここからやり直しっすかね?」
「入学式を?」
「結婚式っすよ。」
水月は軽く睨んで訂正する。
その瞳の奥が、きらきらと笑っている。
その目を逸らせて、水月は、あーと唸った。
「けど、このまま強行突破したら、彼月さんが怒るかなあ。
千鶴さんの婚礼衣装作るって、ずっとずーーーっと言ってますからね。
ちろさんたちも、怒りそうだなあ。
千鶴さんの結婚式には、絶対に四人揃って出るんだって言ってましたし。
晶さんとか、果たし状、送ってくるかも。
夏生さんが止めてくれますかね?」
そんなことをぶつぶつ言いながらも、いきなり笑ってくるくる回りだした。
「まあ~、いいっかあ~。
それでももう、待ちきれないし~。
ねえ?千鶴さん?
千鶴さんが幸せなら、それでいい、って、みんな言ってくれますよねえ~?」
そのまま、わたしたちは、ゆっくりと宙に浮かび上がっていく。
水月は、それは水月だ、って間違いないんだけど。
人の形をした、真珠色の光になっていく。
器のない水月は、この世界に長くは留まれない。
オレと、一緒に、来てくれますか?
あなたを、連れて行ってもいいですか?
その質問に、わたしは、きっぱりと頷いた。
水月とだったら。どこへでも。
一緒に行く。
冷たい宇宙にでも。灼熱の太陽にでも。
わたしの全身も水月と同じ真珠色の光に包まれていた。
そうだ。あのとき。
解けそうになったわたしを。
生きていてほしい、って、この光が包んでくれたんだった。
水月は、最後の最後に残った魔導力、全部使って。
わたしを護ってくれてたんだ。
水月の腕のなかで、わたしもゆっくりと存在が解けていく。
もう、いいよね?
わたしたち、一緒に光になって、このままずっと、永遠にずっと。
水月と一緒にいられるんだったら。
わたし、何になってもいいよ。




