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あれから、ときどき、彼月とは学士院の裏山の桜並木を訪れていた。
ここにはいつも風が吹いている。
枯れた並木を吹き抜ける風は、ひゅうひゅうと音を立てた。
目には見えないけれど、それは、並木を渡っていく竜の鳴き声のようだった。
ぽきぽきとした枯れ枝が、最近少し、赤みを帯びてきた。
よく見ると、ぼつぼつと、丸い芽がついている。
芽吹いたばかりの新芽は、緑色ではなくて、ほんのり赤い。
「今年は、ここの花も咲くかもね。」
彼月は枝を丁寧に観察しながら言った。
「うっすらと憶えている気がするんだ。
昔、ここに君と来たことを。
そのときの、ここの景色も、見たことあるような気がする。
それって、僕らのいた天界の花園によく似ていたらしいね?」
彼月はわたしの記録をすっかり読んで、そして、わたしよりもその内容をよく憶えていた。
「もっとも、それって、君の描写した景色を僕なりに想像して、見た気になってるだけかもだけど。」
そう言って彼月はちょっと笑った。
「冬の寒さがないと、桜は咲かない、って水月は言ったんだっけ?
だとしたら、もうじき、この寒さが、ここに花を連れてくるんだね。」
おお、寒い、と彼月は首を竦めた。
ショウちゃんが、その彼月とわたしの間に無理やり割り込んできた。
彼月は犬にするみたいに、ショウちゃんの首をわしわしと撫でて、抱きついた。
「それにしても、お前、あったかいなあ。
千鶴が毎朝お前と二度寝してしまう気持ちが、分かるよ。」
ショウちゃんは、彼月の耳の匂いをふんふんと嗅いでから、いきなりべろっと舐めた。
「うひゃっ、って、冷たっ!
こいつ、わざとやったな?」
舐められた瞬間はあったかいんだけど、風に吹かれると、途端に冷たくなる。
ショウちゃんは、わざとなのかなんなのか、へっへっ、と舌を出して、彼月を見上げていた。
風がやむと、最近、明るさを増してきた日差しを暖かく感じた。
この一年、夏の暑さにも、冬の寒さにも、わたしたちは打ちのめされた。
障壁をなくしたりなんかしなければよかったのに、と言う人たちもいた。
瘴気がなくなったとしても、障壁の外へ行ってみようって人は、そんなにはいなかった。
なくなってよかった、と言う人は、もっといなかった。
むしろ、今まであったものが失われて、不便だと思うことのほうが多かった。
「この寒さは、僕らの世界が、宇宙に冷やされるからなんだよね。
お日様に温められて夏になり、宇宙に冷やされて冬になる。
お日様は、ぽかぽか優しいだけじゃなくて、灼熱の暑さを持っているし。
宇宙は、どこまでも容赦なく冷たい。
・・・水月は、この冷たい宇宙を、ずっと彷徨っていたのかなあ。」
異界から落ちてきて居場所のなかった竜。
魔物だと退治されそうになって、でも、居場所を与えられて。
そのときから、きっと、水月も、この世界の一員になった。
「水月はね、きっとこの世界に溶けたんだと思う。
風や、水や、光になったんじゃないかな。
水月を作っていた祈りは、きっとこの世界に満ちて、今もわたしたちを護ってくれているよ。」
水月はなんの痕跡も遺さずに消えてしまったけど。
ここに来ると、なんだか水月の存在を近くに感じられるような気がする。
最初にサイカを助けようとしたのは、確かに細愛だったけれど。
でも、結局、長い間、サイカの存在を護ってきたのは、寒月だ。
わたしたちふたりとも、水月を護ろうとしてきたんだね。
風はまだ冷たいけど。
もうじき、ここにも春が来る。
暑い夏と寒い冬を越えて、春が来るのってこんなに嬉しいんだなって、思った。
もうじき、千の鶴の祭り。
いろんな願い事を書いた色とりどりの折鶴と、誰かのためを祈って折った白い鶴。
街には、たくさんの鶴が溢れていた。




