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あれからどうやって帰ったのか、憶えていない。
気が付いたら、わたしは、商店街の水月の店にいた。
それからもうずっと、わたしはここの二階でひとりで暮らしている。
いや、ひとりじゃない。
金色の獣も一緒だ。
早朝、たいてい、ぺろぺろと顔を舐められて起こされる。
「ああ、はいはい、お水ね?」
口をきかない獣と話していると、ときどき、独り言みたいだなと思うけど。
ショウちゃんは、自分は話せなくても、わたしの言っていることは全部分かっているみたいだから。
だからわたしもつい、話しかけてしまう。
わたしはむっくりと起きて、そのまま布団の上でしばらくぼんやりする。
すると、待ちきれなくなったショウちゃんが、わたしの上に圧し掛かる。
こらこら。いい加減、自分のからだの大きさを自覚しなさい?
わたしより大きなからだ、してるんだから。
力いっぱい圧し掛かられたら、耐えきれない。
そのままもう一度、布団の上に押し倒されて・・・おやすみ・・・
ぺろ。
ぺろぺろぺろ。
べろべろべろべろ・・・
あああ、ごめんごめん。
わたしは今度こそ起き上がる。
もう毎朝、同じことを繰り返しているけれど。
いっこうに、改善?しないよね。
冷え切った家の中。
布団から脱け出す勇気はなかなかわいてこないけど。
待ちきれないショウちゃんに急かされて、なんとか、よっこいしょっと布団から出た。
火鉢にかけてあった薬缶は、もうほとんど空になっている。
それを持って、冷たい階段をゆっくりと降りていく。
一階の台所は、二階よりもっと寒い。
うっかり捨て忘れた溜水に、うっすらと氷が張っていた。
ショウちゃんは気にせずに、その水を飲もうとするけど。
こらこら、ダメダメ、と腕で押し退ける。
ゆっくりと蛇口をひねると、よかった。ちょろちょろと水が出た。
待ちきれないショウちゃんが、流れる水をそのまま飲む。
冷たそうで、思わずこっちが、ぶるると震えてくる。
おお寒い。
わたしは上着の前をぎゅっと合わせる。
それから、薬缶に水を汲んで、二階へと戻っていく。
火鉢のなかをあさると、灰のなかに埋めた炭にまだ火が残っている。
新しい炭を継ぎ足して、しばらく息を送り込むと、ぱちぱちと音を立てて火が熾り始めた。
薬缶を火にかけて、ゆっくりと手を温める。
それから、魔導手帳にちゃんと記録がされているかを確かめて、昨日の分を送信する。
これ、もうかなりの年代物だけど。
いまだに現役で動いている。
水月に直してもらったあのときから、一度も壊れずにいる。
たっぷりと水を飲んで満足したショウちゃんは、わたしの傍に寄って来る。
ショウちゃんの体温が温かい。
わたしは、ちょっとほっとして、ショウちゃんに凭れかかる。
ショウちゃんは知らん顔をして丸くなる。
自分の用は済んだから、これから二度寝するんだ。
わたしは上掛けを持ってきて、ショウちゃんと一緒にくるまる。
それから、ショウちゃんに凭れて目を瞑る。
しばらくそうしていると、上掛けのなかは、ぽかぽかと温まってくる。
幸せな二度寝の時間。
「ち~づ~る~!
千鶴?
また犬と朝寝坊かい?
千鶴!」
その声に目を覚ました。
目の前では、しゅんしゅんと薬缶が沸いていて、戸口に凭れた彼月が、わたしを呼んでいる。
だけど、彼月は、それ以上は部屋のなかには入ってこない。
からだを低くしたショウちゃんが、ううううう、と低く唸っているから。
彼月はうんざりしたようにショウちゃんにむかって言った。
「いい加減、僕のこと、憶えてくれないかなあ、ショウタロウ?」
「ショウタロウじゃなくて、ショウキだよ。
彼月こそ、名前ちゃんと憶えないから、いつまでもショウちゃんに唸られるんだよ。」
思わず訂正したら、彼月はちょっと顔をしかめた。
「瘴気、だなんて、そのまんまじゃないか。
もうちょっと、ひねりをきかせたらどうなの?」
「勝機、だよ。」
わたしは指で字を書いてみせる。
もうこのやり取りだって、何回繰り返したかな。
いい加減、憶えてほしいんだけど。
彼月は、ふん、と鼻をひとつ鳴らして、それから、寒そうに背中を丸めた。
「それにしても、寒いな。
いい加減、ここにも魔導空調、つけたらどうなの?」
恨めしそうな目をしてこっちを見る。
「ひなた辺りに言えば、最新の、つけてくれると思うけど?」
わたしは、ゆっくりと首を振った。
「あまりここ、いじりたくないの。」
「ここの家主が帰ってくるまで?
って、そいつ、どこへ行ったの?
君に留守番を任せたきり、もうずっと戻ってこないなんて。
だいたい、本当に、そんなやつ、いるのか?」
彼月に悪気はないというのは分かっているけど。
彼月の言葉は、ぐさぐさとわたしの心を抉った。
けど、わたしはなるべく、それを表に出さないようにして、彼月を見た。
「もうじき。
もうじき帰ってくるよ。」
そんなわたしを、彼月は、どこか痛いところのあるような目をして見返した。
「千鶴。
もうそろそろ、ちゃんと現実を・・・」
言いかけて、だけど、彼月は途中でやめて、ただ、首を振った。
わたしの話しは、全部、幻だって、妄想だ、って、みんなには思われている。
書記吏員として、丁寧に綴った記録は、全部、作り物の架空の物語だ、ってことになっている。
わたしは今も書記吏員として勤めているけど。
わたしの記録は、ちょっと系統の違うものとして保管されているらしい。
彼月は思い直したように、明るく切り替えて、わざとらしいくらい元気な声で言った。
「あああ、っと。そうだ、朝ごはん、持ってきたんだよ?
って、もう昼前だけどさ。
というか、たまには、うちのほうに、来てくれないかな?
そのほうが、なにかと便利なんだけど・・・」
この会話も、もう何回も繰り返しているなあ、と思う。
「・・・ごめん。
わたし、朝、動くの苦手なんだ・・・」
「そこは、僕も人のこと言えないから・・・」
彼月もちょっと困ったように笑う。
彼月とわたしは、元々ひとりだったって言われても、何も共通点はないように思ってたけど。
たったひとつ。
朝が苦手っていうのだけ、共通していた。
あれから、もうすぐ一年。
水月が消えてしまって、どうしてか、みんなの記憶からも、水月のことは一切、消え去っていた。
ただ、わたしだけ、憶えている。
最初のころ、わたしは、水月のことをみんなに説明しようとしたけど。
誰の記憶にも水月は欠片も残っていなかったから。
誰一人、わたしの言うことが事実だとは信じてくれなかった。
おかしな夢を見たんだね、って、気の毒そうに言われるのが関の山。
この世界に満ち溢れた瘴気は、研究院が浄化したことになっている。
長年の研究の末、ようやく、世界から障壁は取り払われ、わたしたちは完全に自由になった。
けど、障壁のなくなった街には、一気に外の風が入ってきた。
それは、暑い夏と寒い冬も連れてきた。
この世界じゃ、それは当たり前のことなのかもしれないけど。
生まれたときからずっと、常春の世界しか知らなかったわたしたちには、かなり辛いことだった。
だけど、わたしたちには、魔導文明があった。
障壁が失われて、街に魔導力は満たされなくなったけど。
必要な分だけ送力線を使って送り届けられる。
建物のなかには魔導力の取り込み口があって、そこに装置を繋げば、今まで通り使うことができた。
その仕組みは、研究院からひとつひとつ、発表され、街に広がっていったけど。
それ全部、水月が作っていたものだ、って、わたしにだけは分かる。
あの、決戦前のとき。
寝る時間も食べる時間も惜しんで、水月が作り続けた装置。
それは、障壁のなくなった後の街の暮らしを、これまで通り、支えてくれた。
こんなことまで、見通していたんだね。
それ全部、研究院の発明、ってことになってるけど。
わたしは、わたしだけは、水月の置き土産だ、って知っている。
彼月は作ってきてくれた食事を手早く温めると、食卓にずらっと並べてくれた。
いつも思うけど、朝から食べるにしては、すごいご馳走だ。
「・・・こんなこと、してくれなくていいのに・・・」
彼月は、自分の分の朝食も用意してきている。
豪華な朝食の並ぶ食卓に、わたしたちはむかいあって席につく。
彼月も朝、苦手なのに、朝からこんなにいっぱい作ってきてくれたんだ、と思う。
おまけに、それを食べずに、一緒に食べよう、って持ってきてくれる。
三日に一度くらいの割合で、わたしたちは、こんなふうに一緒に朝食をとっていた。
「僕の大切な妻の一日を作る食事だもの。
本当は、もっと毎日朝昼晩、全部、やりたいんだけどさ?」
毎日なんて、申し訳なさすぎて、わたしが、もたない。
それに・・・
「その、妻、ってのは・・・」
「ああああ、ごめんごめん。
未来の妻、だったね?」
彼月はわざわざ言い直した。
そう、わたしは、彼月の許婚者、ということになっている。
彼月も、周囲も、みんながそう信じている。
「いいよ?気長に待つから。
延長申請も通ったんでしょ?」
「・・・・・・ごめん・・・」
わたしは、その、少しだけ、記憶に障がいを抱えている、ということになっている。
それで病気を理由に、伴侶申請の期限延長も通っていた。
「構わないさ。
今さら、この僕から君を奪い取ろうなんて勇者もいないだろうし。
君の気の済むまで、ゆっくり待つとするよ。」
「彼月もさ、わたしなんか待ってないで、他にいい人、たくさんいるんじゃ・・・」
その先は言えなかった。
痛くはないけど、口はきけない。
そんな絶妙な力加減で、彼月はわたしのほっぺたをつまんで睨んだ。
「君以外には、いない。
それは、何度も言ったよね?
君が、僕のことを信用できないのは仕方ない。
僕の努力が足りないんだと思う。
だけど、君を好きだっていう僕の気持ちを、否定する権利は、君にだってないんだ。
誰がなんと言おうと、僕の好きなのは、君だけなんだよ?」
こんなことを面と向かって言ってくれる。
これ以上ないくらいいい恋人だと思う。
だから、なおさら、申し訳ない。
彼月には本当に、心の底から、幸せになってほしいって、思ってる。
だけど彼月の望む通りの幸せを、叶えることはできなかった。




