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初めて違和感を持ったのは、障壁の外へ行ってしまった彼月さんを迎えに行ったときでした。
歩きながら水月は話した。
そっか。
水月が最初に落ちてきたのは天界だったし。
その後は、ずっと寒月の魂に囚われていたから。
地上の障壁の外の世界を直接見たのは、それが初めてだったんだ。
「あのとき、彼月さんの位置を特定するために、オレは、彼月さんの乗騎に自分を転送しました。
そして、彼月さんとあなたの会話を聞いたんです。
彼月さんは、外の世界には大きな木がたくさんあって、虫の声もすると言っていました。
瘴気とは、生命体を溶かしてしまうもの、と聞いていました。
だから障壁の外には、生命体はまったく存在しないか、いたとしてもごく少数だと考えていました。
けれど、そこは、オレの想像とはまったく違う世界でした。」
水月のその驚きの気持ちは、よく分かった。
実際、今わたしの目に映っているのも、そんな命のいっぱいの世界だったから。
「もしかしたら、瘴気の溶かすものは、生命ではないのかもしれない。
けれど、瘴気に侵されて、地上の大部分では、人は住めなくなってしまったのは事実です。
ただ、その、人の住めない土地、にも、植物や昆虫は多くいる。
鳥や獣はどうなんだろう。
次に疑問に思ったのはそのことです。
それを確かめる機会は、月に行ったときに訪れました。
神殿に入ったあなたと彼月さんを待つ間、オレは、地上を観察していました。
そうして見つけたんです。たくさんの鳥や獣を。」
おりしも、目の端を、小さな動物が駆け抜けていった。
そう。
この森にも、獣はたくさんいるんだ。
「ただ、人間だけ、障壁の外側にはほとんどいないのだろうか。
そんなことを思いました。
瘴気は、人間にだけ作用するものかもしれない。
けれど、その考えはすぐに打ち消されました。
そのとき、オレは、初めて、本物の瘴気に獣が襲われたところを見たんです。」
瘴気に獣が襲われる。
それはわたしも知識としては知っていても、実際に目にしたことはないものだった。
瘴気の恐ろしさは、嫌というほど教わってきたけど、実際にそれを見たことはないんだ。
「人間の目には、瘴気は認識できません。
けれど、そのときのオレは、魔導人形のからだを持っていました。
魔導人形の目には、人間の目には見えない、魔導力を認識できるんです。
その目に映った瘴気は、一種の魔導力でした。
ただ、・・・そう・・・、どう説明したらいいのか・・・
魔導文明に魔導力として利用されているものとは、色?が違っていました。
魔導文明の魔導力が、穏やかな温かい色をしているとしたら。
それとは違う、もっと、おどろおどろしくて、恐怖や絶望の色、というか。」
おどろおどろしい恐怖や絶望の色。
それが具体的にどんなふうに見えるのかは分からないけれど。
でも、なんとなく、水月の言いたいことは分かる気がした。
「その瘴気に襲われていたのは、小さな獣でした。
もしかしたら、幼生、だったのかもしれません。
一体で野原を駆け回っていたところを、突然、襲われました。
瘴気に囚われた獣は、動きを止めて、そのまま倒れ込みました。
瘴気はそのまま獣を溶かしてしまうのかと思いました。
そのときです。
その幼生の親だったのか、少しからだの大きな獣が現れました。
それは倒れた幼生に憑りつく瘴気に体当たりしました。
すると、瘴気は、何を思ったのか、今度は、その親のほうへとむかったんです。」
水月はそこでいったん話しを止めて、小さくため息を吐いた。
「あっという間のことでした。
あのとき、あの獣を、どうして助けなかったのか。
もしあの場にあなたがいたなら、絶対、そうしようとしただろうに。
確かにオレはあのとき月にいて、あれは地上のことだったけれど。
それでも、即座に動けば、間に合ったと思います。
ただ、オレは、その瞬間、咄嗟に出遅れました。
そうして、結局、その獣を助けられなかったんです。」
水月はそんな自分をとても後悔しているようだった。
だけど、わたしだって、その場にいても、咄嗟になにかできたかどうかは分からない。
驚いて身動きもできなかったかもしれない、って思う。
「瘴気に憑りつかれた獣は、ばったりと倒れ、みるみる干からびていきました。
からからに乾いた骸は、風に吹かれて、そのまま、塵のように、消え去りました。
生命体を溶かすというのは、こういうことかと思いました。
けれど、そのとき、はっとしました。
獣に憑りついたはずの瘴気もまた、風に吹かれて、消滅したんです。」
そのときのことを、その後オレは何度も何度も思い返しました。
水月はそう続けた。
「思い返すたびに、胸はずきずきしました。
けれど、きっとなにか大事なことが、そこに隠されている気がして、仕方ありませんでした。
魔導人形には、見たものを正確に思い出す機能もあります。
何度も思い返すうちに、記憶の書き換えられる人間とは違って、それは改ざんもされません。
ただ、見た物のどこに大切な情報があるのか、それは、隅々まで何度も見返すしかない。
自分が気付くまでは、そのどれが必要なことなのかは、分からないんです。
けど、それは、なかなかに辛い作業でした。」
水月って、間違いない、心の優しい人だ。
冷たい魔物なんかじゃない。
その獣のことを思って、胸を痛めて、けど、どうしてもそれを思い出さないといけなくて。
それを辛い、って感じてた。
人間じゃなくて、異界から来たものだから、魔物なんだというんだったら。
心の優しい魔物だと思う。
記憶の画像出力の装置を作ったのは、本当はそのためなんですよ、と水月は笑った。
「もう一度、それを画像として目の前に表してみれば、そのなにかに気づくかもしれない。
一枚の絵にしてしまえば、隅々まで見ることも可能じゃないか、と。
まあ、その装置の試験稼働のときに、いきなり、あなたの画像が大量に出現したのは・・・
なんというか、自分もびっくりで?
でも、なんというか、嬉しくて・・・つい?壁に貼ってみたりして。
あなたには殺人犯みたい、とか言われてしまいましたけど・・・」
あの、奥の部屋の壁一面の写真は、そういうことだったのか、と思った。
「その甲斐はありました。
大量にあなたの写真を手に入れただけじゃなくてね?
見つけたんです。
瘴気に体当たりをしたとき、獣の全身から放たれていた魔導力に。
それは、温かな、強い光でした。
ああ、そうか、と思いました。
その瞬間、確かに、オレは、眩しいって、感じたのを思い出しました。
呆然と見開いた目を、細めたことを。
そこから、するすると、いろんなことは解けていきました。」
瘴気を中和するのは、魔導力。
いろんな生命体のなかでも、人間の魔導力はひときわ、高い。
「人間の思いは、魔導力の元になります。
街頭の受信機は、大勢の人の思いを集めて、この世界を動かし、保っています。
意志の力を持って魔導力を行使する人たちを魔導士と呼びます。
けれど、そのどの力より、祈りの力は強くて大きい。
瘴気を一瞬にして消滅させてしまう。
細愛の祈りが千年、人々を護り続けたように。」
細愛の魂に封じられた魔導力。
それって、細愛の祈りだ。
そんなたいそうなものじゃない。
ただ、人を護りたい、それだけの気持ちだけど。
それがむしろ、千年、人を護っていたなんて、すごいって思った。
「強い魔導力を持つが故に、瘴気は人間を好みます。
瘴気がこの世界に現れた当初、おそらくは、大勢の人がその犠牲になったのでしょう。
それゆえに、恐ろしい話しばかり先行してしまった。
しかし、瘴気について、科学的に研究する暇はなかった。
それは、オレのせいなんです。
オレのせいで天界は崩壊し、人々は、障壁の内側に逃げ込むしかなかったから。
もし、オレが落ちてこなかったら、瘴気はもっと早く、消滅させられていたかもしれない。」
それは、どうだろうか。
もしかしたら、人間は、瘴気の正体を見破る前に、滅んでいたかもしれない。
天界人の作った浄化装置は、地上の人間の命を引き換えにするものだったのだから。
「だから、瘴気の消滅は、オレのするべきことなんです。
オレは、何をしても、これだけは成し遂げないといけないんです。
あなたの、大事な世界を、壊してしまったのはオレなんだから。」
それは、違う、と思う。
わたしは反論しようとした。
けれど、それは叶わなかった。
大きな木を回り込んだところに、ぽっかりと開いた場所。
突然、水月はそこで足を止めると、わたしを背中に庇うようにした。
「いました。」
人間のわたしの目には、見えなかったけど。
水月には、それははっきりと見えているらしかった。




