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まずは、可哀そうなオレを回収します。
水月はそう言って、暗黒の竜の許へと向かった。
望は暗黒竜を研究院の畑へと誘導したらしい。
乗騎も畑のすぐ近くの広場に不時着していた。
荒らされた畑を見て、水月はため息を吐いた。
―― 人や街への被害を最小限にするとなると・・・
毎回、畑やら花園やら、壊してしまうんっすよね・・・
暗黒の竜は、遠くからでも見えるくらい巨大な竜だった。
その前に対峙する望と彼月の姿も、近づくにつれて見えてきた。
望も彼月も、肩で息をしていた。
心なしか、彼月の装備は、あちこち毀たれているようだった。
対する暗黒竜は、なんの表情も見せていない。
ただ、爛々とした赤い瞳の光は、少しも衰えてはいなかった。
近づいてくる真珠色の竜に、彼月はぎょっとした顔を見せた。
一瞬、敵が増えたと思ったのかもしれない。
けれど、望のほうは、やれやれという顔をして、焦る彼月の肩を抑えた。
―― やっと来たか。
―― 今のところ、予定通りって感じだと思うんっすけどね?
竜の話すのを聞いて、彼月はまじまじとこっちを見た。
「・・・おま、水月・・・?」
―― ああ、どうも、彼月さん。こんな姿で失礼します。
あ。千鶴さんも、ちゃんと無事っすから。
竜はちょっと掌を持ち上げて見せる。
わたしは彼月にむかって、大きく手を振った。
「・・・千鶴・・・」
彼月がほっとしたように笑うのが見えて、わたしも、よかった、って思った。
水月は望と彼月を背に庇うように、暗黒竜の正面に浮かんだ。
暗黒竜は、新たに現れた敵の力量を測るように、油断なくこっちを警戒している。
水月はのほほんとしているようで、暗黒竜が襲ってこないのは、隙を見せないからだろう。
―― あと、ここは、オレやりますから。
望さん、打合せ通り、あっち回ってもらえます?
―― まったく、人使いの荒いやつだ。
―― あなた、人じゃないでしょ?
―― 石像使いの荒いやつだ。
言い直した望に、水月は、くくっと笑った。
―― 人を導くのは天使のお役目っすよ?
―― ああ、分かった分かった。
おい、彼月、行くぞ。
望に腕を引っ張られた彼月は、わけが分からないというふうに言った。
「ちょっ、どういうことだ?
え?いったい、どこへ行けって?」
―― ああ、説明は道々、望さんがしてくれますから。
彼月さん、あなたは、望さんとふたりで、人間のみなさんを護ってくださいね?
「は?いや、おい、ちょっ!」
彼月はまだ何か言いたそうだったけれど、望は有無を言わさず、連行していった。
さてと、と水月は目の前の竜を見た。
―― すっかり剥き身になっちゃって、可哀そうに。
そんな言い方をすると、なんだか、海老かなにかみたいだけど。
「あの。この暗黒竜も水月だよね?」
わたしは不思議になって、思わず尋ねてしまった。
そうっすよ、と水月はこともなげに答えた。
―― ただ、理性も知性も失って、欲望だけに忠実な哀れなオレっす。
オレという存在は、魔導力の塊みたいなものなんっすよ。
あれは、そのオレを分けた、分身、と言いますか。
あれも貴重な魔導力ですから、もう一度回収するつもりだったんですけど。
しかし、あそこまで闇に染まってしまっては・・・
もうやつにしてやれるのは、滅ぼしてやることだけっすね。
仕方ないか、と水月はため息を吐いた。
その瞬間だった。
痺れを切らしたのか、暗黒竜は、突然、先手を取って攻撃を仕掛けてきた。
―― すいません。ちょっと我慢してください。
水月はわたしを掴む手の爪を、軽く閉じた。
それから、暗黒竜の攻撃を、さらりとかわすついでに、身を翻して、その喉元に喰らいついた。
勝負は一瞬だった。
暗黒竜の断末魔の咆哮は凄まじかった。
水月は、振り払おうと暴れる暗黒竜の喉元に容赦なく喰らいついたまま、決して離さなかった。
暗黒竜の頭は、水月の手に掴まれているわたしの、すぐ近くにあった。
竜の赤い瞳からは、真っ黒い体液が、どろどろと噴き出していた。
恐ろしい姿なのに、何故か恐怖は感じなかった。
ただ、とても、悲しくなった。
竜の黒い涙が、ぴしゃりと跳ねてわたしに降りかかった。
じゅうと音を立てて、わたしの衣にはいくつも穴が開いた。
爪の隙間から、こっちを見ていた暗黒竜と、一瞬、目が合った。
その途端、暗黒竜は最期の力をふり絞るように暴れだした。
それでも、水月はびくともしなかった。
暴れ回る竜の体液は、雨のようにわたしに降り注いだ。
それはわたしの衣を溶かしたけれど、わたしのからだには、傷ひとつつけなかった。
どれほどに狂い、闇に堕ちたとしても、あれはやっぱり、水月なんだ。
ほろほろと、涙が溢れた。
とても悲しい。
ひたすら、悲しい。
今朝、朝食を作ってくれた水月を思い出した。
一緒に、話しながら道を歩いたのを思い出した。
わたしを抱えて、嬉しそうにくるくる回っていたのを思い出した。
無口なふりして、腕組みしてたのも。
無駄に元気、って笑ったのも。
いきなり胸に飛び込んだわたしを、しっかりと受け止めてくれたのも。
闇に堕ちて、もう滅ぼすしかない。
これは水月の分身で、狂ってしまった分身で、滅ぼしても、水月はいなくはならないけど。
だとしても。
やっぱり。
これも水月だ。
気がつくと、竜の爪の隙間から、身を躍らせていた。
溶けてしまった羽織にもう効力はなく、わたしは、そのまま暗黒竜にむかって落ちていった。
巨大な二体の竜の戦いのただなかで、生身の自分がどうなるのかは、考えなかった。
ただ、暗黒に染まったとしても、それでもまだ水月でいる竜を、このままひとり逝かせたくなかった。
落ちたわたしに、気付いたのは暗黒の竜だった。
水月の牙に引き裂かれながら、暗黒竜はこっちに手を伸ばす。
その鋭い爪に、わたしは拾い上げられた。
このまま、食べられてしまうかな、と思った。
それもいいかな、と思った。
それで暗黒の竜がちょっとでも幸せになるなら。
けれど、竜は、わたしを食べようとはしなかった。
ただ、掴んだわたしを持ち上げて、その手に額をこすりつけた。
そのとき。
あたたかな光があふれだした。
目の前の、闇に染まった竜の額から。
光はみるみるうちに竜の全身を染め上げ、そうして、その姿は、ぽろぽろと崩れ始めた。
「水月?」
最期の瞬間。目の合った竜は、もうあの不吉な赤い目はしていなかった。
それは、いつもの穏やかな水月の瞳だった。
溶けてしまった衣の代わりに、わたしは、黒の衣を身に纏っていた。
それは、長年憧れ続けた色だった。
ただ、全身真っ黒ではなくて、帯だけ、鮮やかな赤の色をしていた。
暗黒竜の最後の贈り物だと思った。
崩れていく暗黒竜の掌から、水月はわたしを取り返した。
その爪は、さっきよりも、ぎゅっと固く閉じられていた。
―― まったくもう、まったくもう、あなたって人は、もう・・・
水月はひたすらそう繰り返した。
ごめん、とわたしは小さく謝った。
崩れていく暗黒竜からは、白い光が、湯気のようにいくつも立ち上っていた。
それは、世界に広がり、ばりばりと眩しい光を放って、景色にヒビを入れた。
―― ひなさん、磁場を発動させてください!
水月がそう叫んだ。
了解、というひなたの声と共に、見えないなにかが世界を覆うのが分かった。
「磁場?」
―― 瘴気の流れ込みを防ぎます。
一時しのぎにしかなりませんが。
「瘴気?」
―― やつの最期の力が、魔導障壁を打ち壊したんです。
「魔導障壁を?」
焦るわたしに、水月は言った。
――心配はいりません。
ちょっと予定より早くなってしまいましたけど。
どのみち、そのつもりでしたから。
「魔導障壁を、壊すつもりだったの?」
―― はい。
そして、今日こそ、瘴気を完全に消滅させます。
水月はそう言うと、風景に大きく開いた穴へとむかっていった。




