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気を失っていたのは、ほんの少しの間だと思う。
はっと気づくと、わたしは彼月の乗騎のなかに寝かされていた。
肩は手当されて包帯が巻いてある。
驚きのあまり気を失ったけど、そこまで深い傷ではなかったようだ。
わたしは飛び起きると、周りの人たちに尋ねた。
「水月は?」
だけど、誰もそれには答えようとはせずに、ただ、辛そうに眉をひそめて目を逸らせた。
視線を合わせないまま、訥々と語ったのは彼月だった。
「・・・もしかしたら、こうなるかもしれない・・・
そのときは、自分を滅ぼせ、と・・・
あいつは、そう言い残した。」
声に涙が混じる。
彼月は、ぜいとひとつ息を吸ってから続けた。
「自分の力は削げるだけ削いである。
今なら、簡単に滅ぼせる。
もし、もしも、うまくいかなかったときの、保険だ、って・・・」
「・・・どういうこと?」
わたしは思わず詰め寄った。
「わたしたちは、また、失敗したんだ。」
淡々と言ったのはちひろだった。
「水月は、闇に呑まれた。本物の魔物になってしまった。」
続けたのはひなただった。
「あんなに、あんなに、千鶴のことを、愛していたのに。」
みすずはこらえきれないように泣いていた。
「むしろ、それがかえって仇になったのかもしれない。
魔物の望む愛と、わたしたちの言う愛とは、まったく違うものだった。
何をしても手に入らない、決して手に入れてはいけない絶望が、水月を闇に堕とした・・・」
ひかるのため息はとても深かった。
「・・・わたしの、せい・・・?」
尋ねたわたしの声は震えていた。
水月がああなったのは、わたしのせい?
わたしが、水月を暗黒の魔物に堕とした。
彼月は、いいや、と首を振った。
「これは、どうしようもないことなんだ。
やつはこの世界の存在じゃない。
どれほどに望んでも、君を手に入れることはできないから。」
「・・・どうして?」
わたしは彼月に取りついた。
「わたしの心は、とっくにもう、水月のものなのに。」
後の月の月の人たちも彼月も、みんなわたしから目を逸らせた。
みんな周りにいるのに、わたしは、ひとりぼっち、取り残されたみたいだった。
「究極の同化。
君の血を啜り、肉を貪り、魂ごと喰らい尽くす。
魔物の望むのは、そういうことだ。」
教え諭すように言ったのはちひろだった。
だけど、それを聞いたわたしは、なんだそんなことかと思っていた。
「水月の望むことがそれなら。
わたしは、そうなってもいい。」
わたしに躊躇いは微塵もなかった。
「馬鹿なことを言うもんじゃない。」
彼月はそんなわたしを一喝した。
「やつだって、そんなこと、望んではいなかった。
だから、僕に言い残した。
もし、自分がそうなったら、滅ぼしてほしい、って。」
怒りながら、彼月は涙を流していた。
「・・・やつは言った。
魔物の自分にも、もし、本当の愛というものがあるのなら、決して狂うことはないはずだ、と。
しかし、もしも、狂ったときは、自分には、愛など分からないということだ、と。
そのときは、魔物として退治してくれ、と。」
「・・・所詮、やつの本性は、魔物だったということか。」
悔しそうに言葉を吐き出したのはちひろだった。
ぎりぎりと、歯ぎしりの音も聞こえた。
魔物?
水月もよく自分のことをそう言った。
だけどわたしは、どうしても水月をそんなふうには思えない。
並んで歩いて、同じものを食べて、同じところで笑い転げた。
水月を、自分とは違うモノだとは、とても思えない。
「魔物は、あんなに必死になって、世界を護ろうなんて、するのかな?」
食事も休息も摂らず、ただ、黙々と、働いていた水月。世界のために。みんなのために。
「あいつは世界を護ろうとしたんじゃない。
ただ、君の望むことを叶えていただけ。」
水月もそう言った。
自分にとっては、世界なんてどうでもいいんだ、って。
ただ、わたしの望みを叶えようとしているだけだ、って。
でも。
それなら。
「水月は、わたしと交換なら、世界を護ってくれるかな?」
「馬鹿な!生贄なんて、僕らはもう真っ平だ!!」
怒ったように彼月は叫んだ。
「だけど、わたしにはもう、他にできることは・・・」
世界は崩壊しかかっている。
水月の力がなくては、わたしたちにそれを止めることはできない。
失敗、したんだ。
もうじき、魔導障壁は崩壊する。
瘴気はここに流れ込んでくる。
護ってくれるはずの水月は暗黒の竜となってしまった。
水月の計画もすべて無に帰した。
だけど、それをもう一度取り戻せるのなら。
わたしは、なんだってする。
うつむいたわたしの背中に、そっと手を置いて、彼月は言った。
「もういい。君はもう、なにもしなくていい。」
顔を上げたわたしと目を合わせて、彼月は告げた。
「ただ、見届けてやってくれ。
あいつの、最期を。」
「最期?」
水月の?
なんで、どうして、そんなことに?
あまりにも急すぎる。
展開に心も頭もついていかない。
彼月はもう何も言わなかった。
ただ、淡々と身支度を始めた。
ひなたとひかるが、それを手伝う。
鎧を纏い、兜をかぶって、腰に剣を佩く。
望とは素手で戦った彼月だけれど。
今は、完全な戦いの装備に身を包んでいた。
「望も、そう長くはもたない。
急がなくちゃ。」
彼月の声は、どこか慰めるようだった。
「あいつは、こうなることも予想していて、僕のために、この装備も作って行った。
この装備のすべて、無駄になればいいって思いながら、僕は、一応、受け取っておいた。」
彼月の身に帯びた、兜も、鎧も、剣も。
全部、水月が作ったの?
それは自分と戦う彼月を護るためのもの。
「やはり、暗黒の月は強すぎたのかもしれない。」
「だけどもう、時間がなかったのですわ。
魔導障壁は、あとひと月はもたない、から。」
悔しそうに歯ぎしりをするちひろ。
諦めたようにため息を吐くひなた。
「暗黒の月?」
わたしの呟きに、彼月は乗騎の結界を透明にした。
そこに見えたのは、昼間とは思えない薄暗い世界だった。
「太陽と重なり世界を暗く翳らせる、暗黒の月だよ。」
「あの月が太陽を隠し始めたとき、水月は堕ちてしまったんだ。」
今日はただの新月じゃなかった。
月のように翳る太陽は、いつもの力を失いかけていた。
はたはたと風に吹かれる折鶴も、どこか力なく見えた。
「水月の計画さえ、うまくいけば、って思っていたのに。」
「わたしたちの苦しみも、ようやく終わると思ったんだけどな。」
悔し涙なのか、悲しみの涙なのか。
みすずとひかるはぽろぽろと涙を零していた。
水月は闇に堕ちた。暗黒の魔物になってしまった。
それは、決して、水月の望んでいたことじゃない。
だけど、水月は予想していた。
そうなるかもしれない、って。
そして、そのときのための準備も、ちゃんと整えてあった。
なんて、用心深い。
だけど、そんな用心、いらない。
「水月を滅ぼすの?」
支度の整った彼月を見上げてわたしは言った。
彼月は冷たい目をしてそのわたしを見下ろした。
「あいつはもう、水月じゃない。
水月は、絶対に、君を傷つけたりは、しない。」
つきり、と肩に痛みが走った。
だけど、今は肩より、胸のほうが痛かった。
「他に、方法は、ないの?」
「・・・君ですら傷つけてしまうくらい、やつはもう、狂っているんだ。」
そう言った彼月の瞳は、強い怒りに燃えていた。
「君を傷つけるなんて。
たとえ誰でも、僕は許さない。」
「こんなの、たいした怪我じゃないよ。
きっと、なにか、間違っただけだよ。
だから、お願い、彼月。
水月と戦ったりしないで。」
わたしは背をむけようとした彼月の手にすがりついた。
多分、もう、どうしようもない。
頭の片隅に、そんな諦めも漂い始めていた。
わたしは、必死にそれを見るまいとした。
運命に抗おうとした。
だけど、彼月はそのわたしの手を振りほどいた。
その力が強くて、わたしはそのまま倒れ込んだ。
傷ついた肩が、ずきっと痛んで、思わず、手で抑えた。
ああ、ごめん、ととっさに謝った彼月は、わたしよりよほど痛そうな顔をしていた。
「・・・そんなに・・・
たいした怪我だよ。」
こっちを見下ろした彼月の後ろに、静かな怒りの炎が見えた。
わたしは肩の痛みを無視して、乗騎の出入り口を塞ぐように動いた。
決して通さない。
両手を広げて、彼月の目を見つめた。
彼月は、ふっ、とだけ笑うと、冷酷に言った。
「ひなた。結界を解除。」
了解、という声と共に、乗騎を護る結界が消滅した。
途端に渦巻く風が吹き込んでくる。
乗騎は、祝祭広場のはるか上を飛んでいた。
広場にはどこよりたくさんの鶴が飾り付けられていた。
足元には、蟻くらいに小さい人の姿が見えていた。
「君を傷つけるものを、僕は許さない。」
彼月は淡々とそう宣言すると、いきなり乗騎から飛び降りた。
その途端、鎧から大きな翼が生えた。
それはまるで、望とそっくりな姿だった。
あれも、水月の作ったものかと思った。
彼月が飛び降りると同時に、ひなたは再び結界を作動した。
わたしの声も懇願も、結界に阻まれて、もう、彼月には届かなかった。
彼月は宙に静止したまま、一度だけこっちを振り返って、それから背中をむけて行ってしまった。
わたしは泣いた。
床に伏し、何度も力いっぱい拳で叩いた。
自分の無力さが悔しかった。
なんのために、自分はいるんだろうって思った。
こんなに役立たずなら、いっそ最初から、いなければよかったのに、って思った。
拳は赤くなったけど、痛くはなかった。
むしろもっと痛ければいいのにと思った。
肩ももう、痛みを感じなかった。
動きを邪魔する包帯を、むしり取ろうとした。
やんわりと、それを止めたのはみすずだった。
「もうこれ以上、千鶴を苦しめたくない。」
みすずは、懇願するようにちひろに言った。
了解、と答えたのは、ひなただった。
乗騎はそのまま広場へと降りていった。




