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まだまだ遠いって思ってても。
時間ってのは、着実に容赦なく過ぎるものだ。
やっぱり、その朝はやってきた。
目を覚ますと、部屋のなかには朝日の光が溢れていた。
隣の部屋の寝具は、やっぱり、冷たく折り畳まれたまま。
けど、階段のほうから、かすかにいい匂いが漂ってくる。
急ぎ足に降りて行くと、厨房にいた水月が、こっちを振り向いた。
「ちょうど今できたところっす。
起こしに行こうかな、って思ってたんっすよ。」
おたまと小皿を両手に持って、味噌汁を一口味見して、うん、うまい、とにっこりした。
う。
途端、ぐぐーっと、お腹が鳴る。
しまった。恥ずかしい、って抑えたけど。
水月には、聞こえてしまったかな?
恐る恐る目をあげたら、水月は知らない顔をしてむこうをむいていた。
よかった。聞いてなかった?
いや、水月のことだから、わざと知らん顔しててくれてるだけかもしれない。
つやつやの炊き立てご飯。
ほかほかの玉子焼き。
あつあつのお味噌汁に、ぱりっとした海苔。
「彼月さんの真似、しようとしたんっすけど。
やっぱ、あれには及びませんねえ。」
いえいえそんな。
わたしだといっつも、朝はご飯とお味噌汁とお漬物しか出してないもの。
「玉子焼きあるだけ立派だと思う。」
「これ、千鶴さんの好物なんでしょ?
彼月さんがねえ、作ってやれ、って言って、こっそり作り方、教えてくれたんっすよ。」
昔は、晶しか作れなかった秘密の味だったんだけど。
彼月は一回食べたただけで、その秘訣を暴いてしまった。
晶に知られたら怒るかもしれないけど。
記憶を全部失っていたときでさえ、彼月はこの作り方は忘れなかった。
今朝はたくさんしゃべりながら、朝食をゆっくり食べた。
食後のお茶に、桜の色した羊羹まであった。
お腹いっぱいで幸せ。
お天気もいいし、このままごろんと横になってのんびりしたい気分。
だけど、今日は、行かなくちゃ。
装置はもう昨日のうちに全部、研究院に引き渡してしまった。
物がなくなってがらんとした作業場は、なんだかひっそりして見えた。
食器を洗って、戸棚にしまって。
わたしたちはどちらからともなく、互いの顔を見た。
「さてと。行きますかね?」
水月は、結に行くときのように、軽く、言った。
新月は、ちょうどお昼ごろにくるらしかった。
そのときが、祭りの始まりだと決められていた。
水月は店の戸締りをして、鍵をいつもの植木鉢の下に置いた。
店の鍵がここにあることは、実は、商店街中の人の知っている公然の秘密だ。
それでも、泥棒が入ったことはないんっすよ、と水月は笑っていた。
まあ、あの道具、持って帰ったって、何に使うのか分からないものばかりだし。
下手に売ろうなんてしたら、すぐに、足がつく。
ひとつひとつの道具は、乗騎や家が買えるくらい高価なものらしいけど。
使いこなせるのは、水月かひなたくらいしかいないそうだ。
わたしたちはゆっくりと歩き出した。
行先は街の祝祭広場。
この街で一番大きな広場だ。
彼月たちも後の月の月の人たちも、そっちに直接むかう、って言ってた。
晶と夏生は、広場に舞台を設営するために、もう三日くらい、その近くに泊まっているらしい。
広場は少し遠い。
歩いたら、ちょうど到着は、新月の直前になるくらい。
それでも、水月は今日は乗騎を使おうとは言わなかった。
「明日、広場へは、歩いて行ってもいいっすか?」
昨夜、物がなくなってがらんとした作業場で、水月はぽつんとそう言った。
「少しでも、あなたとふたりの時間がほしいんです。」
もちろん、そのくらいお安い御用だ。
わたしは、歩くのは全然、苦にならない。
お天気がいいね、とか、あの飾りはすごい、とか。
そんなたわいないことを話しながら、わたしたちは並んで歩いた。
水月はいつも、歩く速さをわたしに合わせてくれる。
話しをするときには、背中をまるめて、わたしのほうへからだを少し傾ける。
水月が楽なように歩いてほしい、って言ったら。
これが一番、楽なんです、と返された。
「あなたの言葉は、オレの活力の源です。
だから、少しでもたくさんもらいたくて。」
「そんなものでよければ、いくらでも。」
水月のおかげで、話せるようになったわたし。
前よりもだいぶ、口数も多くなった気もする。
もっとも、口数では、水月には敵わないけど。
「水月といると、いくらでもおしゃべりできるもの。」
「それって、オレのこと、おしゃべりだって言ってます?」
水月は笑ってから、むん、と口を閉じて、腕組みをしてみせた。
「?なにしてるの?」
「いや、ちょっと、無口なフリっす。
ほら、無口で不言実行、とか、格好よくないっすか?」
「水月には、無理なんじゃ?」
思わず正直に言ったら、たはは、と情けない顔で笑った。
「でも、水月って、無口じゃないけど、不言実行、だよね?」
わたしはちょっと淋しくなって言った。
「もっと手伝いたい、わたしにできることがあれば、力になりたい、って思うのに。
水月は、おしゃべりなくせに、肝心なことは、あまり言ってくれない。」
水月は、え?ってこっちを見てから、ちょっと困ったように笑った。
「それは、あなたの手を煩わせるまでもないからっすよ?」
「そう言って、いつもこっそり、自分だけ、大変なこと引き受けるよね?」
わたしはため息を吐いた。
今だって、多分、水月はこっそりいろんなもの、抱えてるんだろう。
何も言わないけど。
わたしは、力になりたいって、気持ちはあるけど。
水月の力になるには、わたしには力は足りてないってのは、自覚してる。
「なにをおっしゃいます。あなたは、こうしてここにいるだけで、オレの力になってるんですよ?」
水月はいきなりわたしを抱き上げて、くるくると振り回した。
ちょっと、目が回る。
「・・・いつも、そう言うよね?
だけど、それじゃあ、わたし、水月のために、なにもできない。」
水月は子どもに高い高いをするようにわたしを持ち上げて、眩しそうに見上げた。
「毎日、ご飯作ってくれたじゃないっすか?」
「・・・ときどき、失敗した・・・」
失敗作も食べてくれたけど。
「オレのからだのことも、いつも気遣ってくれましたよね?」
「けど、結局、水月、あのあともずっと、寝てないよね?」
寝具はいつも畳みっぱなしだったもの。
「寝てましたよ?いつも、あなたの隣で。」
「あれは寝転んでただけでしょ?
眠ってない。」
毎晩、歌ってくれたけど。
「・・・まあ、これでも魔導人形なんで、必要な休息は、人間とは少し違うんです。
なにより、あなたのその心をもらって、いつも元気百倍、完全回復でした。」
水月はわたしを持ち上げたまま、くるくると回った。
さっきよりもっと目が回った。
「ほうら。こんなに無駄に元気。」
「無駄に、って・・・自分で言うか?」
わたしはちょっと苦笑した。
それでも、水月はやっぱり、前より少し痩せたように見える。
痩せた、じゃなければ、やつれた、かもしれない。
わたしを持ち上げたまま、水月はぴたりと止まる。
わたしはちょっと高いところから、その水月をじっと見つめる。
水月とわたし、目と目が合って、そのまま、時間が止まったみたいに静止する。
ふいに、衝動に突き動かされて、わたしは、その位置から、水月の胸に飛び込んだ。
勢いがついて危ないとか、ぶつかったら痛いとか、まったく考えていなかった。
ただ、ほんの少し、もう少し、水月に近づきたかった。
水月は、まったく動じずに、わたしを受け止めてくれた。
ふわっと抱き止めた次の瞬間、水月は腕に力を込める。
ぎゅっと、苦しいくらいに抱きしめられて、胸が、きゅっとなった。
「わたし、水月のためなら、なんでもする。」
このまま、時間が止まればいいのに。
世界の崩壊も瘴気もなにもかも、今のまま、ただ凍り付いたみたいに、止まってしまえばいいのに。
ただただ、今が幸せで、だから、ずっと、今のままがいいと思った。
そのときだった。
わたしの肩に顔を埋めていた水月が、突然、苦しそうな呻き声を上げ始めた。
驚いて、様子を見るためにとからだを離そうとしたら、さっきよりもっと強い力で身動きを封じられた。
「・・・水、月・・・?」
わたしは、恐る恐る名前を呼ぶことしかできなかった。
けれど、水月はただ唸り声を漏らすばかりで、何も言葉を返さなかった。
ただ、腕の力はますます強くなり、わたしは息ができなくなるくらいに締め付けられた。
「・・・み・・・づ、き・・・く、くるし・・・」
だけど、わたしよりもっと、水月のほうが苦しんでいた。
わたしは、なんとか手を伸ばして、水月の背中をさすろうとした。
すると、水月は、がくがくと震えるようにしながら、わたしから腕を離した。
少し緩んだ隙間に、ようやく息を吸える。
水月は、自分で自分の腕を掴んで、わたしから離そうとしているようだった。
「・・・ち、づる、さん・・・逃げ・・・」
えっ?なに?
咄嗟の出来事に、何が起こっているのか分からない。
動かないわたしに、叱りつけるように水月が言った。
「逃げて!」
逃げる?
何から?
分からない。
水月はそれだけ言うと、弾かれたように飛び退いて、そのまま地面に転がった。
わたしは急いで水月に駆け寄ろうとしたけど、水月は静止するように掌を上げた。
「ごめ・・・・・んとか・・・・・・・・・・・・オレ・・・・・・ムリ・・・・・・」
絞り出すような水月の言葉が、何を伝えたいのか分からない。
ただ水月は、こっちに来るなと言うように、何度も激しく首を振った。
「に・・・げ・・・」
そこで、ほんの一瞬、水月は気を失ったように、脱力した。
けれどその次の瞬間、あり得ない速さで、わたしの隣に立っていた。
ざくり。
耳元で、肉を引き裂く音。
それから、肩の辺りがとてつもなく熱くなった。
ぬらぬらと生暖かい水が、滴り落ちる。
からだから力が抜けて、立っていられなくなる。
ぺちゃぺちゃと、猫が水を飲むような音。
それから、ずずっと何かを啜る音。
けれど、強い衝撃とともに、それは突然、終わった。
すぐ近くにあった水月の存在は、消え失せていた。
その代わりに、固くて冷たい石の掌が、わたしを倒れないように支えていた。
―― しっかりしろ。細愛。
頭のなかに、直接響く声。
ばさっ、ばさっ、と羽ばたく音と、耳元でうなる風の音。
「・・・望?」
どうしてここに、とか、なんでここに、とか。
いろんな言葉が渦を巻くけど、伝えたいちょうどいい言葉は見つからない。
「千鶴!」
それから、わたしの名前を叫ぶ彼月の声がした。
わたしはどうやら、望の手から彼月に引き渡されたらしい。
腕を掴む掌の柔らかさは、石像じゃなくて人間の手だった。
抱きかかええられて、運ばれるわたしの目の端に、うずくまった水月の姿が見えた。
水月のからだからは、まるで何かを引き裂くかのような鋭い光が、何条もさしている。
そしてそれは、水月自身を引き裂いて、粉々にしてしまった。
そこに立ち上ったのは、暗黒の竜。
狭い場所に押し込められて苦しんでいた竜は、ようやく得た自由に、みるみる膨れ上がっていった。
見上げるほどに高いところにある頭には、不吉な赤の色をした瞳が爛々と光る。
黒曜石のように鋭い牙から滴るのは、真っ赤な、血。
それは、わたしの腕を伝って落ちるものと同じ色をしていた。
羽を纏った純白の天使は、暗黒の竜目掛けて剣を振り下ろす。
けれど、それは、竜の尾の一振りで、粉々に打ち砕かれた。
しかし、望は微塵も焦りは見せずに、次の剣を身の内から取り出した。
望が竜を足止めする間に、彼月はわたしを乗騎へと運んだ。
乗騎のなかには、後の月の月の四人が待ち構えていた。
「千鶴をこちらへ。
みすず、血止めの用意。
ひなた、発進しろ。」
次々と指示を出すちひろの声が聞こえる。
後はもう、何も分からなくなった。




