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水月とふたり取り残された部屋のなかは、なんだか妙にしんとしていた。
わたしたちは、どちらからともなく、後片付けを始めた。
なんだか、前にもこんなことあったなあ、とちょっと思った。
「こんなにみんなから大切にされている宝物を預っているんだから。
オレは、責任重大っすね。」
洗い物をしながら、水月はぽつりと言った。
わたしは水月の隣にいて、水月の洗った食器を拭いて重ねていた。
「なに?水月?
なにか預ったの?」
水月はふふっと笑って、泡だらけの手を水で流した。
「あなたという、この世のなにより、尊い宝物ですよ。」
「そんなこと思ってるの、水月だけだよ。」
「そんなことはありませんよ。
あなたはみんなの宝。
だけど、誰も、どんなに強く望んでも、あなたを手に入れることは、できないんです・・・」
水月は、どこか淋しそうな目をしていた。
どうして、そう思うんだろう?
わたしは、水月のこと、好きだと思ってるのに。
だけど、どうしてか、それを水月に直接、訊くことはできなかった。
水月はわたしの重ねたお皿を棚にしまうと、にこっと振り返った。
「片付けが済んだら、ちょっと、外に出て月でも眺めませんか?」
「月?」
「今日はいい月夜っすよ。」
「うん。いいね、お月見。」
不安になりかけた気持ちを吹き飛ばすように、わたしは明るく答えた。
ここのところ、いつも次元間通路を使って、瞬き五つ分のうちに帰ってしまうから。
水月とのんびり月を眺めるなんて、久しぶりだ。
外に出るって言ったから、てっきりお散歩かなにかと思ったんだけど。
水月がわたしを連れて行ったのは、二階だった。
例の壁に見せかけていた襖を開いて、奥の部屋に入る。
小さな窓を開けると、そこから屋根の上に出られるようになっていた。
「足元、滑りますから。気をつけて?」
水月は先に屋根の上に立って、わたしの手を取ってくれた。
ちょっと怖かったけど、思い切って屋根の上に立ってみたら、見慣れない景色が広がっていた。
「うわあ。」
思わず大きな声を出しかけたけど、もう真夜中に近い。
わたしは慌てて自分の口を塞ぐ。
って、しゃべるのは首にかけた鶴なんだけど。
水月は、ふふ、と笑うと、先に屋根の上に腰を下ろした。
「ここ、どうぞ?」
そう言って自分の膝を叩いてみせる。
「屋根の上は滑りますから。
ここが一番安全なんです。」
そう言われたら、従うしかない。
わたしは恐る恐る、水月の膝に座った。
水月はわたしが落ちないように、両腕で支えてくれる。
こうしてもらうと、確かに、全然、怖くない。
わたしは、改めて、そこからの景色を眺めた。
表通りからは反対側にある窓で、目の前に広がるのは、静かな夜に沈む街の景色。
もう夜もだいぶ更けたころだし。
入り組んだ細い路地を歩く人影もない。
遠く遠く天上には、まんまるいお月さまがぽかりと浮かんでいた。
「見事な寒月ですねえ。」
水月は月を眺めて呟いた。
「あれを寒月というの?」
わたしは水月に尋ねていた。
寒月と細愛。望がふたつに分かれた天使。
寒月というのは、彼月の最初の天使だったときの名前だ。
水月は、くくっ、と小さく笑った。
「ここじゃあね。凍てつく冬の月、と言っても実感、できませんよね?」
魔導障壁の内側の世界には、冬の寒さも夏の暑さもない。
ここは常春の優しい世界。
「寒月というのは、さえざえと清んだ冬の月。
凍るほど冷たいけれど、その光の美しさは格別なんです。」
確かに綺麗な月だ。
彼月は、凍るほど冷たい、ということはないと思うけど。
そういえば、一三夜だった彼月も、自分のことを酷く冷たい人間だと言っていたっけ。
だけど、本当に彼月に当てはまるのは、さえざえと清んで美しい、のところだと思う。
「寒月は、望以上に、淡々としていて。
どれほどに厳しい任務であっても、粛々と成し遂げた。
それゆえに、人々は、その天使を寒月と呼んだ、と。
記録にはそうあります。」
「寒月って、後の月の月の人たちのつけた名前じゃないの?」
「あの人たちは、最初は違う名前で呼んでいたと言っていました。
けれど、寒月という名は、あまりに寒月そのものだったから。
いつの間にか、あの人たちもそう呼んでいたんだそうです。」
そっか。
けど、みんながそんなふうに寒月を見ていたから、寒月も寒月であり続けるしかなかったのかな。
「後の月の月、というのは、どの月かご存知ですか?」
「確か、晩秋の名月のことでしょう?
中秋の次の月の満月?」
「晩秋の名月はね、満月じゃないんです。
満月に少し足りない、十三夜の月なんです。」
「十三夜。・・・一三夜?」
一三夜は満月に少し足りない欠けた月。
自分は欠けた欠片を探しているから、だから、一三夜という名前なんだ、って。
昔、一三夜が言っていた。
「行方の分からない望の欠片。
細愛をあの人たちはずっと探していました。
その自分たちを、十三夜、と名乗っていたんです。
後の月の月も、一三夜も、その言い換えなんですよ。」
寒月と分かれたもう片方の欠片。
細愛は、なくした妹にそっくりだった。
ちひろの教えてくれた話しを思い出していた。
「一三夜というのは、水月と彼月、ふたりでひとりの名前だよねえ。」
「そうとも言えるかもしれませんね。
もっとも、オレ自身は、一三夜を名乗るときは、必死に彼月さんの真似をしてました。
しかし、なんといっても、あの堂々たる王者の振る舞いは、なかなかに難しくて。
オレがやると、滑稽な猿真似にしかならなくて、困りましたよ。」
あの前半の一三夜。
なるほど。無理してた水月かあ。
うん。確かに。
なんか、納得した。
水月はくくっと笑って続けた。
「ずっと、彼月さんと、ふたりでひとりでした。
だから、彼月さんの弱さや優しさも、本当に強いところも、よく知ってます。
敵わないな、って思うところもたくさんあるし。
月とスッポンほどの差はあるにしても、あなたの次に信頼できるのは彼月さんですよ。」
そこまで差はないでしょう、って思うけど。
水月と彼月は、互いに、誰より信頼し合う相棒にも見えるから。
「ただ、もう一度会いたくて、探して見つけて。
だけど、あなたはいつも魔導障壁を作り替えるために、その命を差し出してしまうから。
彼月さんとオレは、そのたびに、絶望して砕け散る。
だけど、あの四人の魔女は、それでもなお、絶望はせずに、次に望みを繋ぎました。
そうしてまた、魔導障壁の綻びと共に、あなたは復活し、それと共に、あなたの半身も復活する。
寒月の魂に捕らえらえた、オレもまたこの世に復活する。
とてもとても長い間。もう何度も何度も。それは繰り返されてきました。」
水月は遠い月を眺めた。
「だけど、今回はいつもとは少し違う。
月へ行ったのも、初めてなんです。
望の意思と会ったのも。
もしかしたら、今度こそ、何かを変えられるかもしれない。
辛い運命の繰り返しの輪を、脱け出すときが、来たのかもしれない。
そんな期待をしてしまっているんですよ。」
水月はわたしの髪に、そっとそっと、頬を寄せた。
水月の息遣いや、心臓の音が、静かに響いてくる。
魔導人形だって知っていても、それは生きた人の気配と少しも変わらなかった。
「オレの大切な姫君。
オレは、最期まで、あなただけを護ります。」
水月は誓うようにそう呟いた。
まるいまるい、寒月の月。
あの月の消えるとき。
千の鶴の祭りは、次の新月。
もうすぐそこに迫っていた。




