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月にあった浄化装置は、人の心を狂わせる光を放つものだった。
その光を浴びた人間は、無謀で無茶な衝動に襲われて、瘴気にさえ戦いを挑む。
瘴気は、人間と反応すれば消滅するから。
戦いを挑んだ人間と反応して、いくらかの瘴気は消滅する。
それが、浄化、の正体だった。
「浄化装置の仕組みは、ご存知?」
しばらくの沈黙の後、最初に重い口を開いたのはひなただった。
わたしが頷くと、ひなたは肩をすくめて盛大なため息を吐いた。
「あんなもの思い付くだけじゃなくて、実際に形にする輩がいるとは。
天界人だなんだとふんぞり返っていても、中身は腐った人間でしたわ。」
嫌悪感を露わにして、ひなたは吐き捨てるように言った。
「天界でも、あの浄化装置を使うかどうかには、賛否両論あったんだ。」
どこか諦めたような表情で、ちひろが言った。
「懐かしい地上に帰りたい。
あのころの天界人は、みんなそう考えていた。
地上の暮らしの記録は、たくさん残っていたし。
生まれてきた子どもたちにも、地上は人間の故郷なのだと、いつかそこへ帰るのだと教育した。」
「だからって、地上に残った人たちを使って、瘴気を払おうだなんて・・・」
「実際にそれを実行しようとした人間は、そう多くはないよ。
多くの天界人は、積極的にそうしよう、とはしなかった。」
「けれど、それしか、瘴気を払う方法は見つからなかったから。
誰かがそれを決めて実行してくれるなら、それでもいい。
大半の天界人はそう考えていました。」
そしてそのことを、この四人はよしとはしていなかったんだ。
それは見ていて伝わってきた。
「けれど、最後の最後の一歩を、天界人は踏み出せなかった。
そうして、結局、その決断を、望に一任したの。」
「装置は望の魔導力によってのみ稼働する。
その機能が付け加えられたんだ。」
浄化装置の鍵。
それって、そういうことだったんだ。
「望は間違えない。それが天界人の共通認識だった。
ある者たちは、望は必ず浄化装置を動かして、天界人を地上へと導くだろうと考えた。
また、ある者たちは、望は、決して浄化装置を動かさないだろうと考えた。」
「みんな、自分たちの都合のいいようにしか考えなかったのですわ。」
「そうして、決断は保留されたまま、時だけが過ぎた。
そこへ、サイカは訪れた。」
浄化装置は災禍のせいで稼働できなかったって聞いていたけど。
もしかしたら、それは少し違ったのかもしれない。
「望は天界の守護天使として、サイカと戦った。」
「人的被害を避けるため、望はサイカを天界の花園へと誘導した。
おかげで、天界の被害は最小限に抑えられた。」
「あの花園は、望が一から自分で作ったものでしたのに。」
「そこでサイカに留めをさそうとしたとき、望は、君たちふたりに分かれてしまった。」
その辺りのことは、もうわたしたちもよく知っていることだった。
「最初、わたしたちは、望の精神体が現れたことをとても喜んだ。」
「望にようやく魂が宿ったと、そう思ったのです。」
「けれど、確かに望の魂だったはずなのに、君たちを望に戻すことはできなかった。」
「仕方なく、わたしたちは、魔導人形をふたつ、作ったのですわ。」
それが、寒月と細愛だ。
「わたしたちは、その二体の魔導人形も、望とまったく同じ手法で作った。
なのに、ふたりとも、どこか望とは違うものになっていた。」
「寒月は、望によく似ていました。力も知恵も速さも器用さも。
魔導力はなかったけれど、増幅装置をつけて、魔導もどきも使えたの。
そうして、寒月は、望の後を継いで、天界の守護天使となりました。
寒月の存在に、天界人たちは、とても安心しました。
けれど、やっぱり寒月は、望と完全に同じではなかった。
なにか、足りない。
漠然とだけれど、わたしたちは、寒月にそう感じていました。」
「細愛は、それ以上に、望とは異質なものでした。
力もなく、優しいばかりの細愛は、天界人からは役立たず呼ばわりをされていました。
けれども、みなから放っておかれたことは、細愛にとってはよかったのかもしれない。
細愛は、いつも、サイカを連れて歩いていて。サイカとともに、壊れた花園を再生させました。」
「ひとつ、ふたつ、と種が芽を出し、ふたつ、みっつと、蕾が花開くごとに。
サイカには、心が宿っていった。
細愛は、何を教えるでもなく、ただ、そのサイカと共にいるだけだったけれど。
いつの間にか、サイカにとっては、細愛は大切な存在になったみたいだ。」
「けれども、そんなサイカを、いつの間にか寒月は憎むようになっていた。」
「もしかしたら、それは、災禍は滅ぼすべきだという望の意志の残滓だったのかもしれない。」
「サイカを庇った細愛は命を落とした。
魔導人形だったのに。
細愛の精神体は輪廻の輪に還り、人形をいくら修理しても、もう戻ってこなかった。」
「それを知ったとき、サイカもまた粉々に砕け散ったんです。」
「そのころのサイカは、精神体のままで、とても脆い存在だった。
わたしたちは、サイカの依り代となる魔導人形は作っていなかった。
サイカという存在そのものが、まだよく分かってもいなかった。」
「細愛はもう帰ってこない。
そう伝えられたサイカは、一声、高く泣いて、そのまま凍り付いたの。
それから、きらきらと光る、小さな小さな欠片に砕けて散っていった。
わたしたちは、ただ呆然と見ているだけで、それをどうすることもできなかった。」
「それを見た寒月も、すべての機能を停止してしまった。
細愛と同様に、魔導人形をいくら直しても、寒月ももう戻らなかった。」
「あのときは、天界中から非難されたっけ。」
「天界という場所は、結局は、人間が暮らしていくのにむいていない。
守護天使なしに、あの場所で人が暮らしていくのは、物理的に不可能だったから。」
「けれど、細愛の魂に封じられていた魔導力は、地上に魔導障壁を作っていた。
だから、わたしたちは、そこへ降りることにした。
結果的にだけど、細愛は、天界人の長年の夢を叶えたことになった。」
「地上に一から暮らしを作るのは大変だった。
けれど、わたしたちには、魔導の力があったから。
なんとかなった。」
「地上の人々は、わたしたちを受け容れてくれた。
災禍に追われた気の毒な人たちだと言って、親切にしてくれた。
天界人は、彼らを生贄にして瘴気を払おうとしていたなんてことは、永遠の秘密になった。」
天界人は魔導の文明をもたらし、地上の暮らしははるかに便利になった。
そうして、天界人と地上人は混ざりあって暮らし、今はもう、その区別もなくなっている。
「地上の生活もようやく安定したころ、わたしたちは、細愛の遺した魔導障壁の綻びに気付いた。」
「急いで修復したけれど、次第にそれも追いつかなくなっていって・・・」
「それなのに、あるとき、それは、まっさらなものへと作り替えられていたんです。」
「そんなことが何度かあってから、わたしたちは、不思議な天才に気付いた。」
「その天才は、魔導障壁が綻び始めるとこの世界に現れるの。
そうして、いくつもいくつも、新しい魔導理論を見つけたり、技術を革新させたりしたわ。」
「わたしたちは、彼を探した。
そうして、とうとう彼に会ったわたしたちは、彼から一部始終を聞かされた。」
「自分はサイカなのだと。
そうして、このからだは、寒月の転生なのだと。
寒月は最期のときに、サイカの魂を自らの内側に取り込んだ。
そうして、ふたつの魂をかかえて、転生を続けているのだと。」
それは、わたしも水月から聞いていた。
そうしてもらえなかったら、自分は消滅するしかなかった。
だから、感謝しているのだと言っていた。
「彼らの目的は、細愛を見つけること。
寒月の転生は、細愛と共に、望から託された月の装置を動かそうとしていた。」
「転生したときに、寒月の記憶は失われていたのでしょう。
彼らは、浄化装置の正体は知らなかった。
装置のことは、もうずっと秘密にされていたから。
サイカもまた、そのことは知らなかった。」
「その時点で、彼らはもう、何度かの転生を繰り返した後だった。
だけど、一度として、彼らは、月の装置を動かしたことはなかった。
細愛の転生は、いつも、自らの命を引き換えに、魔導障壁を作り替えていた。
何度繰り返しても、彼女の選択は変わらなかったんだ。
そして、細愛を失うと、寒月とサイカもまた、次の輪廻の輪へと還る。
それも、もう何度も繰り返されていた。」
「サイカは、転生すれば、必ず、わたしたちの元に訪れるようになった。
そうして、総合研究院は作られ、この世界の魔導はますます発展した。」
そして、この平和な街は作られた。
彼月にとっても、これは初めて聞くことだったのかもしれない。
ただずっと黙って話を聞いていた。
「君たちがとうとう月へ行くってなったときには、いよいよこの時がきたかと思った。」
「わたしたちは、あなたたちの選択には干渉しないって決めていた。
ただ、あなたたちのやろうとしていることを、全力で支援しよう、って。」
「水月なら、浄化装置の実体を読み取ることもできるだろう。
そのうえで、それを稼働するなら、それを受け容れよう、って。」
「それって、望に選択を押し付けた天界人と同じことだと思ったけれど。」
「わたしたちにも、もう、何が一番正しいのか、分からない。
わたしたちは、あなたたちの命を犠牲にして、何度も、命を繋いできた。
それもまた、卑怯な選択だったから。」
この人たちもまた、ずっとずっと、痛みに耐えてきたんだ、って思った。
「だけど、結局、あなたたちは、月の装置を動かさなかった。」
「それどころか、これまでとは違う、別の方法を試したいって言い出した。」
「そんなの、全力で応援するに決まってるでしょう?」
後の月の月の人たちは、みんなして、笑顔だった。
今度こそ、誰も犠牲にならない選択をするんだ。
わたしももう一度そう思った。




