飼い主と犬
季節外れの雪がちらつく、寒い日だった。魔術師のフェリが道端で寒さに震える犬を見かけたのは。
犬は短毛のすらりとした体躯で、とても寒さに耐えうるようには見えない。
そのまま放置しておくには哀れに思えて、雪でうっすら白くなった犬の前へしゃがみ、傘を差しかける。こちらへ弱々しく向けられた目は、青と金のオッドアイのようだった。
犬の種類には詳しくないが、高価そうな犬なのにどうしてこんなところで行き倒れているのかと、不思議に思いながら。
「少しだけ、ね」
フェリは手をかざし、思いを込めて魔力をつむぐ。雪の寒さに負けないよう、弱った体が回復するよう、はやく優しい飼い主と出会えるように、と。
やがて手のひらに集まった魔力の塊が対象へ吸い込まれていくと、うつ伏せた体がぶるりと揺れた。
「ん?」
と思えば犬の体はみるみる形を変え、最後には、まるで騎士のように膝をついた人間の青年が目の前に現れていた。
「俺を、」
フェリが驚きで固まっている一方で。青年はその姿勢のままに顔を上げ、青と金の目を真っ直ぐに向けて口を開いた。
「俺をあなたの犬にしてください」
*****
同居人を探し、フェリは自室を出て辺りをぐるりと見回す。
だがその姿は見えない。
そう広くはないこの家の中で見当たらないということは、きっと庭に出ているのだろう。薪でも割ってくれているのかもしれない。そう考えて庭への扉を開けたところで、ちょうど探し人が立っていた。
「わ、ヴァーシュ。びっくりした」
見た目はまったく人間と変わらないこの青年は、数日前に行き倒れていたあの犬で、ヴァーシュと名乗った。
彼は犬ではなく犬獣人だったらしく、フェリが魔力を与えたことで人間の姿を取り戻し、なんだかんだでこうして共に暮らすことになってしまっていた。
犬獣人ヴァーシュは食事や生活習慣が人間と変わらないので、同居人としてそれほど手はかからず、今のところはうまくやっている。
「フェリ、俺を呼びましたか」
「え、よく分かったね。声に出てた?」
「いえ。ですが、俺はあなたの犬ですので」
ただ、「あなたの犬にしてください」と宣言してから、本当にそのとおりの言動をするのが少し困りものだ。
どうやら彼は、命の恩人であるフェリに恩義を感じているらしい。犬獣人の性質なのだろう。それが「あなたの犬」発言に繋がるのだと、フェリはここ数日で理解した。だから、無暗にそれを否定はしない。
「……えーっと、ちょっと出かけて来るね」
「どこへ」
「森に住む友達のところ」
「お供します」
「え、いいよ」
「番犬ですから」
森はここからそう遠い場所でもないし、友人の家にはいつもひとりで問題なくたどり着けている。
なにより、この調子で友人の前でも「フェリの犬です」などと言われたら、説明が面倒だ。
「できれば、留守番していてほしいのだけど」
「………………」
控えめにお願いするとヴァーシュは黙ったが、不服そうに顔をゆがめて小さく唸ってくる。なにか不満なことがあると、こうするのだ。こういうところはまったく犬だなと感じる。
「ひとりで行けるから……って、なんで手を取るの?」
「飼い主は犬を繋いでおくものですよ」
右手が大きなぬくもりに包まれる。見なくても分かるが、青年の手がフェリの右手をしっかりと繋いでいた。
ためしにちょっと引いてみたが離れそうにない。軽く睨むと、拗ねたような青と金の瞳が見つめてくる。それがまるで小動物のようにも思えて、仕方ないかとため息をひとつ。どうせいつかは友人とも会うことになるのだろうし、それが早まっただけだ。
「分かった。じゃあ、一緒に行こうか」
「はい」
先ほどの不満げな様子から一転、ヴァーシュはすずしい顔でフェリの手を引いて歩き出した。
飼い主は犬を繋いでおくもの、ということは、これはヴァーシュにとっては散歩のようなものなのかもしれない。今は見えないはずの尻尾が、ご機嫌で左右に揺れているような気がした。
「フェリ。ところで、友人というのは女性ですか?」
「うん? そうだよ」
「そうですか」
こういうふうに、フェリがどこへ行くにもついてくる。やはり、犬だ。
それからさらに日が過ぎたある日、少し体調の優れないことがあった。
原因は、仕事の納品を間に合わせるために数日ほど夜更かしをしたことで、フェリ自身は気にしていなかった。
だが、ヴァーシュはフェリをよく見ていた。
「フェリ、どうかしましたか」
「うん?」
「どうも、元気がないように見えます。俺のお腹を触りますか?」
「は、なんで?」
「俺はあなたの犬なので、触られても構いません」
「いやだから、なんで?」
そこでどうして腹を触るということになるのだと不思議だったが。
そういえば、動物の犬が飼い主に腹部を見せるのは信頼の証だとか、甘えたいサインだとか聞いたことがある。そしてそんな飼い犬を撫でるのは、飼い主にとって幸せな時間なのだとか。
つまりヴァーシュは、フェリを元気づけようとしてくれているのだ。おそらく。
「……あー、うん、ありがとう。気持ちだけもらっておくね」
状況を把握して、やんわり断る。いくらヴァーシュが犬であろうと、見た目が同年代の異性の腹など気軽に触れるものではない。実際は犬ではなく、犬獣人であるのだし。
だが当の本人は断られると思っていなかったらしい。
そうですかと引き下がったもののとても残念そうで、うしろに垂れ下がった尻尾の幻覚が見えた気がした。
かわいそうになったので、腹ではなく頭を軽く撫でておいた。するとヴァーシュも嬉しそうに頭を下げて、もっとと催促するので、わしゃわしゃと盛大に髪の毛を混ぜ返した。
気がつけばお互いにきゃらきゃらと笑い合って、楽しい時間になっていた。
そうして、ヴァーシュの犬としての行動にも慣れてきたころのこと。
その日、フェリは街へ買い物に出ていた。
そのときもヴァーシュはついて来た。当然のようにフェリの手を繋ぎながら、液体や粉類の重い荷物を全部持ってくれていた。
そこで、フェリは衝撃的な男女を目にした。
「ご主人様、ご主人様! 見ておくれよ、この首輪。しっかりした皮の作りで、飾りも細かく刺繍されている。これは良品だよ! ほら、これなんかボクの毛並みと同じ色だ。ご主人様にこれを嵌めてもらえれば、」
「却下」
「ああっ。まだボクがおねだりしている途中だっていうのに、すげなく遮るその容赦のなさ。たまらないっ」
「…………」
「今度は無視かい? 無視なのかい? はあ、それもまた……いい! 本当にボクのご主人様は最高だなあ。ボクはご主人様の犬で幸せだよ!」
感激している彼と、連れの女性の温度差が凄まじい。
男性がご主人様と呼ぶのだから、女性とは主従関係なのだろう。女性はよくもあの男性を従者としているものだと、フェリはいっそ感心した。あのような奇行に走る人物とは、フェリならば絶対に付き合えない。
フェリがまじまじと件の二人連れを眺めていたものだから、もちろんヴァーシュがそれに気づかないはずがない。
同じくそちらへ目線をやり、おやと小さく呟いた。
「あれは、俺の同族ですね」
「はいっ?」
「雑貨屋の前にいる、薄茶の髪の彼です。彼はあの女性の犬になったのでしょうね」
「………………」
ヴァーシュは普段、あまり慌てるようなことはない。その語り口も穏やかなものだ。だから今も動揺を見せずに淡々と話していることは、不思議なことではない。それは分かっている。
だが、あの彼に向かっていくらか微笑ましげに同族だと言ってのけるところを見てしまうと、つまりあれは犬獣人にとっては普通のことなのではないかという気がしてくる。
今はこんなに落ち着いている好青年が、そのうちにあの彼のようになってしまうのだろうか。
まさか、と今もにぎやかに女性にあれこれ言っている彼へ再び視線を向ける。
どうやら、腹を撫でてほしいと女性にねだっているようだ。
女性が反応しないことに興奮した彼が、腹を露出しようと服に手をかけたところで、女性の教育的指導が入った。
頬を打たれた彼は恍惚とした表情で目を潤ませ、女性へ熱視線を向けている。
(………………うん、無理)
一連の信じがたいやり取りを目の当たりにし、思わず、ヴァーシュと繋いだ手に力が入った。すると隣のヴァーシュから嬉しそうな気配がして、きゅっと握り返された。
いや、違う、そうじゃない。
ひとつ息を吐いて心を鎮め、改めて隣のヴァーシュを見上げる。
不思議そうな顔で首を傾げるヴァーシュの目は穏やかに落ち着いている。あの彼のような変態的な色は微塵もない。
「私の犬がヴァーシュでよかったよ」
「……はい。俺は、あなたの犬ですから」
安堵からぽろりと出てしまった言葉に、どうしてかヴァーシュが息をのんだようだった。
次いで、フェリ、と名を呼ばれ、繋いでいた手を優しく引かれた。逆らわず体を任せると、フェリはヴァーシュの胸にもたれかかるような体勢になっていた。いつの間にか、持っていた荷物は足下へ置かれている。
それから、近くなった距離をさらに埋めるように、ヴァーシュはフェリの髪に頬を寄せた。
「ヴァーシュ?」
「フェリが、俺のことをあなたの犬だと認めてくれたのは、……初めてですね」
「そうだっけ」
「はい。否定されたことはありませんが、完全には受け入れてもらえていないと感じていたので。嬉しいです」
フェリとしては、ヴァーシュは同居人として悪くない相手だと感じていた。
フェリは魔術師だが若い女性ではあるし、ヴァーシュは番犬として優秀だった。家の雑事にも非常に協力的だ。犬の行動が現れることも多いが、それにもだいぶ慣れてきた。
あの彼とは絶対に一緒に暮らせそうにないが、ヴァーシュとならうまくやっていける。
「うん。私の犬は、ヴァーシュがいいな」
自分への確認も込めて頷いてみせれば、ヴァーシュは息だけでふふっと笑った。
「では、もう遠慮はいりませんね」
「ん?」
なにがだろうかと尋ねる間もなくヴァーシュがさらに顔を寄せてきて。首筋に柔らかいものが触れたと同時に、ちゅっと可愛らしい音がした。
このすぐ後、犬獣人が「あなたの犬」と言うのは求愛と同義なのだと知った。