第十四話:父の助言
土曜日。その昼過ぎ頃。
一ノ瀬家は一週間の買い物をまとめて済ます事が多い。
父はあまり買い物上手とは言えない為に、娘の綾乃がその辺りの主導権を握っている。
普段、仕事で帰りの遅い父にとっては娘とのまとまった親子の時間だったが、最近は娘の方は、それよりも優先したい時間があるらしい。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「綾乃、待ちなさい」
この日も必要な買い出しを終え、冷蔵庫に食材や棚に日用品などを仕舞った綾乃は早々にお昼を済ませ、お菓子とジュースを入れた袋を手に彼の所に行こうとしたが、食器を片付け終えた父に止められた。
それに、ムッと睨まれ一瞬怯むが父は負けじと咳払い。
「なに、そう時間は取らせないよ。――大事な話だ」
父に促されリビングのテーブルに再び着いた。
「話って何?」
不満気な彼女の表情に、娘を取られた様な気分になり苦笑する。
極力、言葉を選ぼうとしたが……いつかと同様、放棄した。
「先日の悠斗君の食事の誘いだが……所謂、結婚報告と思って良いのかな?」
「ん゛っ!?」
どストレートな質問に綾乃は息を詰まらせる。
ゴホゴホとむせ返る我が子に、父は肯定と受け取った。
「勿論、私は賛成だ。以前も言ったがお前には彼が必要だと思う。後は、彼のご両親に認めて貰えるか、だが――一番はお前達自身の気持ちと覚悟だ」
綾乃の見開いた目を真っ直ぐに見る。
「一年後、十年後の事はその時になってみなければ分からないが――」
「私はあの人とは違うから」
父の言葉を綾乃は力強く綾乃は否定する。
一瞬、親子の脳裏に過るのは嘗て妻であり母であった女性の家を出る間際の横顔。
娘の瞳にあるのは静かな怒り。
そして、それすらも上回る強い想いだった。
「私は何があってもユートを裏切ったりしないもの」
「――分かっている。私達も十五で結婚を誓い、十八で籍を入れた。経緯は同じでも、その未来はお前達が決める事だ」
父は昔を思い出し自嘲する様に笑った。
「私はその年で“彼女の父親に挨拶をする程の度胸”は無かったよ。余程の覚悟だ。彼は本気でお前を愛している――愛そうとしているんだ」
「――――」
綾乃は赤くなった顔を隠す様に口元を手で覆う。
父親にそう言われ、恥ずかしい様で嬉しい様で――今直ぐ、彼に自分も愛していると伝えたい気持ちになった。
対して娘の女性としての表情に、父としてはやはり複雑だった。
きっと彼女は母親の様な不貞を働く事は無いだろう。
しかし、だからこその不安もある。
「そういう話では無いよ。将来の事は話しているのか、と聞きたかったんだ」
「ぇ……まぁ、少しは……?」
モジモジと綾乃は指先を絡ませながら、
「ちゃんと結婚したら、近くに引っ越すのも良いかもー、とは思ってる。直ぐに帰って来れる所なら、その――子供、が出来た時には色々と安心だからさ」
照れくさそうに笑った。
「いつかは庭付きの家建てて、犬とか飼ったりするの」
「……そうか。――あぁ、そうだな」
やはり、面と向かって娘の口からそう聞くと思う所はある。だが夫婦となるのだから自然な事だ、とまた咳払い。
「では進路としてはどうだ? まだ早いだろうが、いずれは進学か就職かを決めるからな。何となくでもあるのか?」
「今は卒業したら就職するってユートは言ってる。なんか……将来の事をユートなりに真剣に考えてくれてるみたいで、お金の事を気にしてた。まぁ、仕事は何にするかはこれからなんだけどさ」
やっぱり気が早いよね、と小さく笑う綾乃に父はフム、と僅かに眉を顰めた。
「――それは、少し心配だな」
「別にまだ高一なんだから、職種を決めてないのはしょうがないんじゃない。ウチの高校、バイトも禁止だし。ユートは変な仕事するなんて言わないもの」
口を尖らせた綾乃に父は苦笑する。
「そういう事ではないよ。既にそこまで考えている事が、義理の父としては心配なんだ」
彼は続けて、目を丸くした娘に問う。
「では、お前の言う変な仕事、とは何だ?」
「? それは――」
いざ、そう言われると確かに何だろう? と思いつつ、
「例えば、芸人さん……とか?」
彼女の中で、それが尖った職種のイメージだった。
なろうと思ってなれるものでは無く、また、なれたとしても安定な収入を得られるとは限らない――非現実的な夢だろう。
「確かに芸能の世界は誰しもが成功出来る程、甘くは無い。彼は妻となるお前の事を想い、子を授かる事を見据えている。ならば危うい道は選ばない筈だ」
父は一拍置いて、
「だからこそ、夢があったとしても、諦める事に躊躇いは無いだろう」
「――夢を諦める……?」
言われた父の言葉に綾乃は息を呑んだ。
悠斗は特にやりたい仕事は無いと言っていた。
だから、高校を卒業したら就職するつもりだが、拘りも無いという。
その理由は純粋に――収入を得る為。
現実問題として、子を産み育てるのなら想像以上に金は必要だ。
妻としては、夢見がちな夫よりも、手に職をつけた夫の方が安心するだろう。
それでも、綾乃自身としては悠斗の夢は応援したいと思う。
だが、
「ユートの、夢……?」
肝心の悠斗の夢について自分は知らないと、気づいてしまう。
今の所、趣味も特に無いらしい。
まぁ、実際はただ言ってくれていないだけかもしれない。
それは少し寂し様な気もするが、ある分には良いと思う。
だが、その内に秘めた夢や憧れがやるべき事では無いと吞み込んでいたとしたら――。
「――私のせいで……?」
最愛の人と家庭を築き共に過ごす事が、綾乃の夢だ。
だが、その夢のせいで最愛の人の夢を奪うのなら、学生の身で結婚を決めるなど早過ぎたのだろうかと思ってしまう。
「――すまない。不安にさせるつもりは無かったんだが……」
身を強張らせた娘に父は自身の不器用さに自嘲する。
「なに、単純な話だ。お前達のあり方を少しずつ話し合って欲しいという事だ。――互いに最善だけを選ばない様にね」
「……どういう事?」
怪訝そうな綾乃に父は小さく肩を竦ませる。
「相手の為に善い選択をしたからといって、それが一方的では幸せになれる訳がないだろう?」
例えばだが、と前置いて、
「彼の夢が遠いものだとして、それを諦める事はある意味で正しい決断だ。だが、それではお前は幸せとは言えないだろう。悪い言い方をすれば、彼の犠牲の上での生活だ。金銭面での安心感はあっても、『応援できなかった』と負い目が残る」
逆に、と、
「その彼の夢をお前が献身的に応援したとしても、彼自身が幸せだろうか? どうあれ妻に負担を強いるのは、夫としては非常に心苦しいものだ。それで夢が叶ったとしても胸は張れないかもしれない」
ならどうすれば良いのか、と困惑する娘に父は苦笑する。
「要はお前達が互いに納得出来る未来を探してくれれば良い。片方が諦めたり、全てを投げ打つ事は無いんだ。何事にも『良い塩梅』『折り合い』というものがある」
言い終えて、昔を懐かしむ様に小さく笑った。
「――私は、そういう話し合いを彼女と出来なかったんだ。だから、お前達には互いの理解を深めて欲しい」
「お父さんにも夢があったの?」
「あぁ」
父は気恥ずかしそうに、
「私は、役者になりたかった」
はは、と弱く笑って頬を掻く。
「子供の頃に見た映画が印象的でね。一人の役者が別々の映画で全く違う人物を演じていたのに感銘を受けた。人はああも変わるものか、とね。一応、高校では演劇部に所属していたんだ」
「そうなんだ。お父さんのそういう話、初めて聞くわね」
「妻にも言えずに私一人で折り合いをつけてしまったからな。もう未練は無いよ」
娘のどこか寂しそうな表情に父は優しく苦笑する。
「簡単に言えば、自分でも分かる程に才能が無かったのさ。部でも殆ど裏方で終わってしまったからね。まぁ、高校を卒業して就職したが、しばらくは多少の未練はあったよ。挑戦するだけでもしてみようかと思っていた。チャンスは誰にでも平等な筈だと」
「けど、しなかったの?」
父は頷いた。
「綾乃を授かったからな。夢を追いかけるよりも、私は仕事に打ち込んだ。金銭面で妻と子供に苦労はさせたく無かったからね」
「私のせい……だね」
「それは違う」
父は断言する。
「確かに折り合いをつけた切っ掛けではある。だが、そう決断したのは私自身だ。産まれてくる子供の――綾乃の為に頑張りたいと思うのが、私の活力になった。私にとっては、自分の夢程度よりも、綾乃の方が遥かに大事だったから。悔い、というのであれば、自身の夢を妻にも言えなかった事位だ」
いつになく真っ直ぐな父の瞳だった。
「……まぁ、結果としてお前には寂しい想いをさせてしまったから、良い父親にはなれなかったのだが」
痛みを堪える様に僅かに眉を顰めたが、息を吐くと共に力を抜いた。
「なんにせよ、悠斗君の夢や憧れを綾乃にも知って欲しいという事さ。彼の事だ、無理に我を張る事はないだろう。だからこそ、彼が夢を諦めると決めたのなら、お前はその夢を忘れるな。そして、追いかけるというのなら支えてあげなさい。それこそ、足並みを揃えてね」
夫婦とはそういうものだ、と。
父は優しく微笑んだ。
「……そうね。私は、ユートと良い夫婦になりたいもの」
綾乃は受け取った父の言葉をゆっくりと噛みしめて、頷いた。
「なら、まずは話し合う事からだ。些細な事でも少しずつでも、知っていき知ってもらいなさい」
父は、ちらりと腕時計を見て、
「すまない、思いの外時間を取らせたな。彼も待っているのだろう?」
「うん。じゃぁ、行ってくる」
綾乃は席を立って、お菓子やジュースの入った袋を手に取った。
「――お前は、幸せになりなさい。私のせいで苦労をさせたからな」
急く娘の背を父は見守りながら小さく呟いた。
それが聞こえた綾乃はリビングを出る間際に振り返る。
「今でも私は幸せよ。それに、お父さんは私の自慢のお父さんだから」
娘は満面な笑顔を見せて、足早に愛しの彼の待つお隣に駆けて行く。
「そうか。それは……何よりだ」
リビングに残された父は小さく笑って、冷蔵庫を開ける。
今夜の晩酌として缶ビールを買っておいたが、昼から空けてしまうのもたまには良いだろう。
――今は、そんな気分だった。
2022/3/13追記。第十四話のタイトルを変更しました。
お読み頂き、ありがとうございます。
更新が遅れてしまい申し訳ありません。
内容自体は既に決まっているので、現在は細かい描写を考えつつ書き出している状態です。
お付き合いして頂ける方は、引き続きよろしくお願い致します。
◇
『面白い』『続きが気になる』と思って頂きましたら、ブックマークを、
また励みになりますので、↓の【☆☆☆☆☆】の評価をお気軽にお願いします。




