第三十六話:朝の修羅場
――月曜日。
ホームルームを告げるチャイムが鳴るまでまだ幾分の余裕のある時間帯には、殆どの生徒は一時限目の準備を終えて、教員の到着を欠伸を嚙み殺して待っている。
「――やぁ、おはよう」
そんな朝の時間を各々が談笑で過ごす上条悠斗と一ノ瀬綾乃の教室に、御門光輝が爽やかな笑みで訪れた。
一年Cのクラスメイト達は、示し合わせた様に教室の後方へとぞろぞろと移動し始めた。
「おや……。コレはどういうことかな?」
「皆にはもう事情を話してあるだけだ」
悠斗は自分の席に座ったままの綾乃の隣で彼と向かい合う。
「今ならまだ、無かった事に出来るぞ?」
「いや、その必要は無いさ――」
光輝は綾乃の前まで歩み寄り悠斗を一瞥して、誰よりも優しい顔を作る。
「一ノ瀬さん、僕は君を愛してる。少しすれ違いはあったけど、僕は本気だ。――恋人になってくれるかい?」
例えば、“結婚式で新婦を誓いのキスの寸前で掻っ攫う別の男”の様に。
例えば、騎士が姫へ永遠を誓う様に。
愛を囁いた。
何も知らない第三者が見れば、三角関係の男女の修羅場。
――だが、
「お断りします」
綾乃は席を立ち、悠斗の隣で即答する。
一ノ瀬綾乃の表情には迷いも恐怖も無い。
明確な拒絶だった。
「これで分かったでしょ! もう、あやのんに近づかないで!」
教室の後方、水原佳織に続いて他の生徒達も口々に声を上げた。
「……なるほど、そういう事か――」
光輝は小さく笑った。
残念そうで、憎らしいようで、それでいてどこか楽しい様に表情を歪ませる。
「それじゃあ、二人とも、せいぜい仲良くすると良い――出来るものならね。自分で選んだ事だ、覚悟はあるんだろ?」
「兄貴に泣きつくのか?」
悠斗の問いに、光輝は鼻で笑う。
「泣くのは君達だ」
「……そうでもないさ。そろそろ――」
悠斗が肩を竦ませると、教室の外から「おー、一年の教室懐かし~」と女性の声の直後、
「お邪魔しまーす。……って、ほらアンタがもたもたしてるから、もう始まってるじゃん」
上条悠斗の姉、上条祐奈が平然と教室の扉を開けた。
彼女の手招きで渋々と入って来た男子生徒を見て、光輝は目を疑った。
「兄……さん?」
弟を一瞥して兄、御門一輝は、二人に視線を移した。
「上条悠斗君と一ノ瀬綾乃さん、だったね。迷惑をかけてすまなかった。弟の暴走を止められなかった俺にも責任がある」
頭を下げて、
「例のSNSのアカウントや弟から送られてきた画像は全て消去してある。――後は、弟のスマホにあるデータを消せば、全て終わりだ」
「……な、に――?」
ワナワナと怒りに震える光輝は吠える。
「裏切るのか! この僕を!」
「先に裏切ったのはお前だ。兄である俺に万引きの冤罪をかけただろう。――まぁ、お前や周囲に屈していた俺が今更、お前を責めるつもりもない。だが、これ以上の醜態を晒すのは止めるべきだ」
クラス中がざわついた。
それは皆も聞かされていなかった事だった。
――なんだソレ、兄貴をハメたって事かよ
――確か、中学の時だよな
――お兄さんも酷いけど、被害者だったのね
――サイテー
――マジのクズだな
クラスメイトの糾弾が大きくなった。
「はは……ははは!!」
光輝は箍が外れた様に高笑う。
「終わった! コレで僕は本当に終わりだ! それが望みなんだろ! ――だが、お前らも道連れだ!」
血走った目でスマホを見せつける。
「ほら、見ろ無能共! 空っぽな頭でもコレなら理解出来るだろ! その女は品行方正なんかじゃない、その女はビッチなんだよ! しかも、無い胸を見苦しく盛って男を誘うどうしようもない、淫乱女なんだ!」
御門光輝が先日の土曜日に撮った『本来のスタイルの一ノ瀬綾乃が避妊具を手にしている』一枚の写真。彼の持つ切り札。
勝ち誇った光輝の高笑と裏腹に、クラスの皆はバツが悪そうに宙に視線を逃がし、ソワソワとし出す。
「――――ぁ?……」
予想と違う周囲の反応に光輝は、違和感を覚えた。
それは何か、思考の片隅で探し――見つける。
「おい……ソレはなんだ?」
綾乃の胸元。
Eカップ相当のふくよかな膨らみが、妙にこじんまりとしているのだ。
呆ける彼に、
「もう皆には全部説明したって言っただろ」
悠斗が告げた。
「綾乃の事も、あの時の動画の事も、皆もう知っているんだよ」
それに光輝が状況を察した頃、
「アンタが、昔あやのんをイジメてたのも知ってるんだから! そのせいで、あやのんは凄く傷ついたのよ! 胸の事だって、アンタのせいじゃない!」
佳織がわざとらしく叫び、
「小学生の頃から、一ノ瀬にちょっかい出してたもんな。振られた腹いせにココまでするとか、ありえねぇだろ!」
冬樹もそれに続く。
「……お前たちは、何を言っているだ――?」
光輝が半歩後退る。
把握した筈の自身が置かれた状況がまた変化した。
自分の理解の外で、悪い方向に転がっている感覚。
そして、
「そもそも、『恋人とセックスをしたいと思う事』が、そんなに非難される事ですか?」
綾乃がなんという事も無く尋ねた。
「――――……ぁ?」
光輝は数秒程、面喰い、やがて乾いた笑いが喉から漏れ出した。
悠斗と綾乃を何か少しでも陥れる為に、
「け、結局変わらないじゃないか――! 男に抱かれたいだけなんだろ、あんな物を物欲しそうに見て! 汚らわしい女だ!」
その罵倒に綾乃は面倒くさそうに溜息をつく。
「AVの見過ぎでは?」
主に男子が顔を引き攣らせた。
「セックスと言っても、ただ性欲を満たす為の行為と、愛し合い心も身体も重ね未来を思い描くのとでは大分違うと思いませんか?」
「な、何が言いたい……?」
「性行為は愛情表現の一つではありますが、何も避妊をしないのは、本当に愛し合っているとは言えないと思います。あんな物、と言いますが避妊具は必要ですよ」
「だから、何が言いたいんだ!」
堪らずに光輝は怒鳴る。
彼女は微笑み、
「私達は既に婚約している、と言いたいのです」
それに、彼は絶句した。
絞り出す様に、
「だ、だが、僕達はまだ未成年だ! そんな事は大人が、社会が許さない!」
「分かってます。貴方程、我が儘な子供では無いので弁えていますよ」
それに彼女は堂々と答える。
「先日は、まだプロポーズを受けたばかりだったので浮立ってしまいましたが、二人で相談して在学中は学生らしく愛を深めようと決めています。先日、貴方に盗撮された時は、将来的に必要だと感じたから実物を確認していただけですよ。まぁ、彼とイチャイチャしたいとは思っているので、確かに私は品行方正とは言えませんが――」
そして苦笑する。
「流石に、知識や準備が曖昧なまま、無責任な事は出来ませんよ。私は彼を本気で愛していますから」
綾乃の視線に、悠斗は頷いた。
「俺達の子供の為にもな」
綾乃を守る様に、光輝との間に割って入る。
「もう、泣かせないと決めたんだ」
女子の黄色い声と、男子の口笛が囃し立てる中、その目が語る。
――俺の女に手を出すな、と。
「そ、それがどうした! ……その女には、まだ――」
光輝は負けじと、スマホの画面を操作し皆に向けるが、
「もうよせ、光輝」
兄が弟を阻む様に、立ち塞がった。
「もう、お前の言葉には何の力も無い。お前の事など、誰も見ていない」
クラス中の注目は二人に向いている。
光輝は此処に自分が居ないような感覚に襲われた。
常に、物事の中心にいる主役だった筈なのに……。
(何でこんな事になった……?)
光輝は眉を顰める。
だが、話は至極単純な事で――。
最初から、駆け引きなど成立していなかったのだ。
御門光輝は、一ノ瀬綾乃が手に入らないのなら自身の破滅も厭わなかった様に、一ノ瀬綾乃が胸の大きさを誤魔化していた事が周囲にバレたとしても、上条悠斗と一ノ瀬綾乃の愛情は変わらない。
彼女が避妊具を見ていたのも、悠斗と既に婚約している事を先に明言してしまえば、理由は『愛しの彼とゴニョゴニョする為』で済む。興味津々なだけで、不自然では無い。
まぁ、学生である彼女が性的な行為を仄めかす時点で、周囲の人々からの評価は現状から大きく下がるだろう。
今までが、清廉潔白、品行方正の優等生だったのだからイメージが崩れる反動も大きい。
御門光輝の握るジョーカーはその『一ノ瀬綾乃』のイメージを殺すには十分な威力がある。
だが、元々そのイメージは、ただ悠斗の気を惹く為に何となく作っただけ。
恋人となり、婚約者となった今、人の目など、気にする必要がどこにあるのか。
恥ずかしくとも何ともない。
恥というのなら、“ここまでしたが結局、別れました”となった時だろう。
だが、そんな可能性は万に一つも、億に一つもありはしない。
――もっとも、自分達が“無責任な事”をしてしまう可能性は否定出来ないのだが……もしもの時は、二人共が責任は必ず取る覚悟が既にある。
『私達は、卒業後に正式に結婚します』
『なので、それまでは自重しつつ愛を深めていきます』
『今は、変な噂が流れていますが全部、御門光輝の嘘です』
『胸の事は、昔、小さい事を彼にイジメられ、逃れる為に大きく見せていました』
『そのくせあの野郎、この間好きだったとか言ってきてマジありえないですよねー』
『そうそう避妊具は使用上の注意を守りましょうね』
『性行為はお互いの了承と自己責任。相応の覚悟を持ちましょう。恋人を大事にしましょうね』
――などと、堂々と当人達から聞かされれば、御門光輝が『あの写真』を見せた所で今更、意味を成さないのだ。
おまけにと色々とのしつけての意趣返し。
どうせなら、都合の良い『悪役』になって貰う事にした。
「俺は――お前のせいで全てを失った」
兄は、案山子の様に固まった弟の手からスマホを抜き取る。
「――今度は、お前の番だ」
その声は、感情を抑えていたが失笑と歓喜が滲み出ていた。
「この場で終わらせるなら、彼等は、学校や親に直接訴える気は無いらしい。お前の残りの学生生活は孤独で終わるだろうが、ソレも三年で済む。社会に出る前に、全てが自分の思い通りに行く訳では無いと、思い知ると良い」
光輝は兄の言葉が耳に入らなかった。
「――五月蠅い」
――もう、どうでも良い。
もとより、逆らうのならこうするつもりだった。
「五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い――五月蠅い!!!!!!!!」
光輝は、頭を掻きむしり、ブレザーのポケットから何かを取り出して振り回す。
「光輝っ……いい加減に――っ!?」
兄の手に、ソレが触れた。熱湯に指を入れた様な熱さと違和感、そして、ぬめりにスマホを落とす。
――血だった。




