藍色に浮かぶクラゲを思う日
仕事で帰宅が遅い俺が悪かったのか。
家のことを妻に任せきりにした俺のせいなのか。
昇り始めたばかりの満月を窓の外にちらりと見ながら、仕事帰り、妻の実家へと急ぎ車を走らせる。
焦ってはいけない、と心を冷静に保とうと意識すれば意識するほどに、ドクドクドクドクと心臓が早鐘を打つ。
落ち着け、落ち着けと、自分自身に念じながら、変わったばかりの赤信号で、ここ最近の妻の様子を思い出す。
先々週。
「今夜は町内会の集まりがあるから、子供を実家に預けるね。私もそのまま実家に泊まるから」
先週。
「久し振りに中学の友達と会えるの楽しみ♪ 実家に子供を預けて、夜は私も実家に泊まるね」
一昨日。
「今日は仕事のあとは職場の慰労会だから、子供は……」
どうも妻が浮気をしたらしかった。
季節の変わり目。
夏の初めに毎夜のごとく家に侵入していた蚊が現れなくなって喜んだのも束の間。うだるような暑さと肌に刺さるような日差しが和らぎ、朝晩が涼しくなってきた今日この頃の気候。蚊が最後の力を振り絞る。
俺の心には銀杏がありったけの実を撒き散らす勢いで、山からの風が嵐となって吹き荒ぶ。
現実では少し冷たい秋の風がひゅーらららと吹いていて、紅葉した葉とやはり銀杏が、風に吹かれてひらひらはらはらぽろりぽろりと独特な匂いと共に舞い落ちる。
俺の心も現実の風景も、なんだかんだで結局悲しい。
祝日だった昨日は、昼過ぎに帰宅した妻と息子と3人で、家族皆でショッピングモールに出掛けた。
家からまぁまぁ近いのでちょいちょい訪れ、ちょこちょこっとずつあちらこちらの店でいろいろな買い物をする。
ここに来れば欲しかったあの商品も、たいして欲しいと思っていなかったはずのこの商品も、財布の残金と電子マネーの残高とエコバックの残数と妻の機嫌が許す限り、大抵の物があれやこれやと買えてしまう。
ただし、あっちもこっちもと店をうろうろちょろちょろ見てまわる為、浦島太郎氏のようにあっという間に時間は過ぎて、半日一日が軽く潰れる。
中身つぶ餡の、顔が汚れたりカビたり濡れたりした正義の味方ように、今の俺はまるで力が出ない。
重厚感とは程遠い、鰹節か削り節か削り粉かといったくらいに軽い俺の語り口調。魂が線香の煙か磯野家の父の毛のように脳天からひょろろろ抜けていくようで、まるで言葉に力が入らない。
風が吹けばぴゅーと飛んでいくような、猪突猛進されたらぶっ倒されて複雑骨折で全治半年の診断で入院するような、弱っちぃ、繊細でびびりな俺の今の心情が伝わるだろうか?
どこからか、心にぽたり、1滴垂れた墨汁がじわりじわりと広がっていく。
毒のように、心から顔から手足から、全身を隈無く犯し蝕んでいく。
心も身体も脳内も、どす黒く変色していく。
いっそのこと、時折頭に現れ始めた白髪を染めてくれたらいいのに。
どうも妻には間夫がいるようだ。
表現を変えることで、少しは落ち着けただろうか。
言葉が意味すること、不倫……は詰まるところ同じなのだが。
単語の中に人物を意味する漢字が含まれたことで、相手の男の存在がより明確になった気がする。
真の夫でもないくせに夫の文字を冠する不届き者。真の夫ですらルビを振らねば真と読まれかねない恐怖。
妻が情夫と布団にくるまり睦言を交わしたかもしれない……。
どれだけ言い換えたところで、結果は同じか。
夫という漢字を婚姻関係にある男以外の男性にも等しく使用することを禁止してほしいと切に願ってしまう。ややこしいことこの上ない。
俺が夫の漢字を諦めて、妻の配偶者といえば済む問題なのかもしれないが、何故俺が譲歩せねばならないのか。妻の浮気相手に夫の座を明け渡す、無血開城、ぱっと見たところは平和だが、心の内壁は妬けて焼けてただれどろどろになり、胸の内で荒れ狂うことだろう。
くそったれ!
Shit!……嫉妬。
たとえ、俺之妻大絶賛濃厚不倫疑惑進行中であっても、俺の心と義務教育にはゆとりを、親父ギャグには薄ら寒いユーモアを。
濃厚不倫疑惑。
疑惑の真実味、疑惑が現実である可能性が高いとただ言いたいだけなのだが、きっと、濃厚の漢字2字の配置ミスなのだろう。
不倫内容が濃厚であるような、男女の営みが濃厚であるような想像をさせられる悲しさ。
もう誰にも理解されずに気が狂ったと勘違いされそうな域に到達したんじゃないかという俺の精神状態。
団地妻浮気殺人事件特別捜査本部の見事な漢字の連なりが頭をかすめる。
山、谷、山で滑らかに連なった、妻の心臓の上にそびえる山脈を、見知らぬ男がにぎにぎ揉みしだいたなどと信じたくはなかった。
……見知った男なら良いのか? いや、そんなことは決してない。
はっ……まさか見知った男なのか? そうなのか?
誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ!?
妻の男、ボクサーパンツ派で、海月柄の藍色パンツの持ち主は一体誰だ!
妻の浮気の発覚に至る経緯。
複合商業施設にある数ある店舗の1つで、某アパレル販売店。2階フロアの東に位置し、おもちゃ屋の側のエスカレーターで上がったら直ぐなのだが、2才の息子があっという間に姿を消して探し回るはめになるので、わざわざ西のスーパー側から2階に上がっておく必要がある。
高品質にして低価格。
シンプルで、普段着から仕事着までと使い勝手の良い商品が並び、人気ブランドやデザイナーとコラボレーションした商品まで存在し、幅広い層に支持される豊富なラインナップ。
広告の品になっていた、夏に涼しい生地の肌着を購入する予定だった。
「ねぇ、あなた。下着、シャツもだけれど、パンツもそろそろ買い替えたら? 随分と生地が薄くなっていたし。ほら、この柄、お魚がいっぱいで可愛いわ。こう君もお魚さんが好きだものね」
目を優しく細め、柔らかに微笑む妻の視線の先。
呼ばれて参上じゃじゃじゃじゃーん。
我が家の一人息子、幸介、2歳8カ月。
ショッピングモールのカートにご機嫌良く座ってニコニコしている。
自分も家事を幾らか分担している……といっても、ゴミ出し程度かもしれないが、洗濯関係の家事は全て妻に任せていた。
ブリーフかボクサーかの拘りはあるが、柄は余程ぶっ飛んでいなければ、俺は別にどんなでも良くて、妻が多少でも家事を楽しめるよう、妻が気に入った柄を買えばいいと思っている。
「2、3枚買っておきたいわ。貴方、出張もよくあるんだし……」
「あぁ、そうだな。……じゃあ、これで」
俺が選んだのは黒地に海月柄のボクサータイプ、Lサイズ。で、あと1枚はどれにするか。
「……え? この柄、色違いを持っているでしょ? 藍色だけど、持ってるわよね?」
「は?」
「え?」
思えば、妻は最近よく実家に行く。ほぼ毎週。泊まることもしばしばだ。
夕食や子の風呂を妻の両親に甘えているのだと思っていた。
だが、果たして本当にそうなのか?
子を実家に預け、妻は妻であることをやめ、子の母であることをやめ、1人の女として、男と逢い引きをしているのではないか?
不安が募る。
脂汗が肌の表面から滲み出て、脇汗が臭う気がする。
呼吸も荒くなり、口臭も気になる。ついでに加齢臭も。
だから愛想を尽かされたのだろうか。
真っ赤なリンゴがごろり重力に従うように、栗がぽろり転がり落ちて頭にぐさり突き刺さるように、俺の思考はどんどんどんどん今期の営業成績のように落ち込んでいく。
事前に訪問を知らせることはしなかった。
妻の実家を真っ直ぐに見据え、玄関ドアに近付き、震える人差し指でインターホンのボタンを押す。
家の中で呼び鈴のような音が鳴った気配がした。
静寂の中、どこからか煮物の臭いと牛小屋の臭いが風に乗って流れて来る。
緊張により研ぎ澄まされた神経で、インターホンの反応を待つ。
と、玄関扉が勢いよく開いた。
妻だった。
「お疲れ様。どうしたの? 私が電話に気付かなかったのかしら。貴方が来ると思わなくて、ビックリ」
にこやかに笑う妻を見て、妻がちゃんと実家に留まっていたことにほっとした。
今夜は大人しくしていたらしい。
「電話せずに来てしまってすまない。幸介は?」
「ちょうど今、じぃじにお風呂に入れてもらっているところなの」
家に上がるよう妻が勧めてくれた為、脱いで揃えた靴を玄関の端に寄せた。
洗面所で石鹸を使いしっかりと手を洗い、手で水を溜め、がらがらぺっと口をすすいだ。濡れた手の平を額に乗せ、頭の熱を逃がす。
落ち着こう。
今夜は、妻はちゃんと居たのだから。
洗面所の横にあるガラス戸の向こう、風呂場から、我が子の楽しそうに笑う声とシャワーの音が聞こえた。
居間に入り、対面キッチンで夕食の準備をする義母に突然の訪問の詫びと挨拶をしてから、妻が座るソファーの横にそろりと腰掛けた。
そっと妻の表情を窺い見るが、テレビの人気男性アイドルグループ出演のバラエティー番組を楽しそうに眺めている。
だが、家族にとっての大切な話はしておかなければならない。
握った手の指先にグッと力を込めて、妻を見て気を引き締める。
「…………っ」
話さなければと思うのに、言葉がなかなか出ない。
目を閉じて鼻から大きく息を吸った。
たったったったっ
耳慣れた足音。
「とーと!」
「こう君、ただいま。お前、すっぽんぽんじゃないか」
小さな息子をぶらさげた状態の裸ん坊の息子を抱き上げ、少し伸びた髭でじょりじょり頬擦りすると、息子が両手を突き出し全力で抵抗する。
「じーじーたすけてー」
もがいて俺の抱っこから抜け出た息子はまたたったったったっと走って行き見えなくなった……が、すぐに床が一定速で軋む音が近付いて来る。
「おう、優助くん、来てたのか」
「あ、お義父さん。お久し振りです。急に来てしまってすみません」
座っていたソファーからほぼ反射で立ち上がり、幸介を肩車して部屋に入ってきた義父に挨拶する。
目が釘付けになった。
お義父さんの股間から暫く目が離せなかった。
藍色の布地にクラゲが浮かんでいた。
夕食の途中で眠ってしまった幸介を抱いて、妻と3人で妻の実家をあとにする。
明日は仕事が休みだから、妻の車はまた明日取りに来ればいい。
満月はとうに高く昇っていて、見上げると、薄っすらかかっていた雲が徐々に徐々に流れていく。
ぼんやりした光に包まれた満月は、くっきりした輪郭を見せ始めていた。
イラストは ありま氷炎 様が描いてくださいました! 藍色に浮かぶクラゲ達が可愛いです(*´ー`*)
作品にぴったりなイラストを有り難うございました♪
●ヒューマンドラマ作品『ママと呼ぶ』 https://ncode.syosetu.com/n2633hv/
にも ありま 様 に描いていただいたイラスト有ります♪