第94話 諏訪湖畔にお出かけした日の夜
「楽しかったですね」
星が煌めく冬の夜。
エスティは、夜空に《浮遊》でふわりと浮かんでいる。
欠けた月を眺めながら、今日の出来事を振り返っていた。諏訪湖で日向と遊び、また新しい文化を学んだ。これがデートと言うものなのだろう。恋人を作った経験の無いエスティは、初めての体験に満足していた。
こんなに楽しかったのはいつ以来か。
エスティは、久しぶりに幸せを実感していた。
「そうだな。分かったから、我を下ろせ」
「話し相手がいないと、独り言になるじゃないですか」
ロゼはエスティの更に真上で、月明かりに照らされて浮かんでいる。寒そうに尻尾が揺れているが、冷たい空気は《浮遊》の効果で感じない。
幻想的な光景を眺めながら、エスティは物思いに耽ていた。
「――『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』。この世界の、とある作家の言葉らしいですよ」
「夢のある格言だな」
「また、こんな言葉もあります。『妄想している事は、大抵は実現しない』。欲望から出た空想はほぼ満たされない、という意味です」
エスティはそう言って、空間から熱燗を取り出した。おちょこにはいったままで、いつでも飲める状態だ。この能力の素晴らしい所はこういう所にある。
「それも先程の作家の言葉か?」
「私の実体験ですよ」
「ふ、なるほどな」
エスティはクイッと飲んだ。
この月夜、酒の肴としては最高だ。
「……ですが、同時にこうも思います。『ある事象がまるで最初からそうだったのだと思い込むと、自分の意識が自然とそこに向かってスライドし、気が付けば当たり前になっている』。やり続ける事で習慣になり癖になる、というのが無意識に起こるのです」
エスティの話が少し複雑になって来た。
「自分の気になる情報はそうでない情報よりも視界に入り易い、という事か?」
「少し違います。自分を自分で騙す、という感覚に近いでしょうか」
エスティはこうして誰かと会話する事で、自分の思考を整理しているのだ。
「そんな深層心理が、私をここに引き寄せた。私がこの蓼科の生活を無意識下で望んでいたから、いつの間にか蓼科にいた。しかし後悔は残っていたから、女神になった」
「エス、それ以上は危険な考えだ」
「ですが、こんな可能性もあるんだと知っている事が、私の心の予防線になるのです。ミアの5次元の話が本当かどうか、実験しなければなりませんから」
――あのミアの空想は、運命がミアの口を借りて吐き出した、自分への伝言。
そんな荒唐無稽でオカルトな考えが、なぜか自分の中から消えてくれない。
偶然とは思えなかった。
だから、エスティは実験する事にした。
仮に自分だけが5次元にいるなら、願った可能性を引き寄せる事ができるのか。
例えば、時間が飛べるかどうかを。
「という所まで考えたのはいいんですが、条件はさっぱり分かりませんよ。飲んだら何か浮かぶかなぁと思いましたが、ただただお酒が美味しいだけですね」
「……下界でミアがミードを飲んでいたぞ。ついでに、懐かしのラクス料理を作るのだと意気込んでいた」
「お、つまみに行きましょう。ぐへへ……」
◆ ◆ ◆
「私、電気って心の強さだと思うの」
ミアは既にベロベロに酔っ払っていた。
虚ろな目で、炬燵に入っている。
「心が弱いとね、スタンガンで死ぬの」
「また新しい理論ですか?」
「ほら、恋すると体に電撃が走るじゃない。あれを表したのがオームの法則よ。I= (V) ÷ (R)するわけ」
「それだと、恋すると死んじゃいますね」
エスティはミアと共に物理を学んでいた。
正しくは、電流=電圧÷抵抗だ。
「電気はそういう方向性にして、ハルシウルを騙していくつもりなの」
「騙してどうするんですか……ハルシウルさんは協力者の予定なんですよ?」
「簡単よ。スタンガンを当てて『おや、心が未熟なのね』って言いたいだけよ」
「ミアも悶絶してましたけどね」
「あんたもでしょ。はい、お酒あげる」
エスティはミアからミードを受け取り、口に含んだ。懐かしい味だ。ラクスではもっと薄かったが、こちらの世界のミードはかなり濃厚だ。
ふと、もう一度あの酒場が恋しくなった。何となくジョッキを2つ取り出し、ミードを注いでいく。そこに炭酸水とレモンを入れて、少しかき混ぜる。
「ラクスは今どうなってるのかしらね?」
「ミア、新聞ぐらい読め」
「私はゴシップに惑わされない女よ」
「まったく……ラクスは今、人助けの勇者達を出迎える準備で慌ただしいそうだ」
「出迎える準備?」
「ガラング様とマチコデ様の外交ですよ。英雄の凱旋として扱われています」
本来であれば、ネクロマリア大陸北西部にあるラクスに到着するのはもう少し後の予定だった。だが、ガラングは外交に【どこでも時空門】で効率化を図った。
小国の密集地は馬車で周り、遠方の国々は事前に早馬を走らせて設置した【どこでも時空門】で時短する。小さな魔方陣だが、乗るのはガラングとマチコデの2人だけだ。
「他の勇者とは、随分と扱いに差が出ているな」
「ガラング様にはご子息に恵まれなかったそうです。養子の中にマチコデ様を加え、いずれは後継者にするつもりだろうと兄弟子が言っていましたよ」
「流石はマチコデ様ね。今のうちに使用済みの私物を貰っておかなきゃ」
「相変わらず、斜め上の発想ですね」
ミアは嬉しそうにポテチをつまんだ。
王に近しい立場になっても、前線で庶民を助ける姿が目に浮かぶ。今度は人助けの王という称号が付くのかと考えると、ミアの顔が綻んだ。
「……ところでミア。前に話していた5次元についての実験をしようと思っています」
「ふぅん。あれ適当よ?」
「大丈夫ですよ。実験ですし、大した事はしませんから。ミアがイナゴのおやきを食べる可能性に移動します」
「やめて、私が滅ぶわ」
エスティは両手に持ったミードを交互に飲み始めた。こういう無駄な行動こそが、無駄に贅沢をしている気にさせてくれる。
「っぷはぁー。……でも、一体どうやって願った可能性に移動するんですかねぇ」
「さっぱり分かんないわよ。エスティの転機ってさ、例の秘宝を使った時?」
「んー。そうですね」
「あの時、体に異変とかは無かったの?」
エスティは天井を見上げ、あの時を思い出す。
確か、『ラクス救助隊』を追い出されたその足でバックスを誘い、酒場に入った。自分は最初の一杯でベロベロに酔っ払った。意識は完全には失われていなかったはず。そして、自暴自棄になって秘宝に魔力を込めて使った……。
「酔っ払って自暴自棄になりました」
「そんな5次元の入り方は嫌ね」
しかし、それ以外に思い当たる節は無い。
エスティは再び考える。
時空魔法とは、思い込みに作用する。
それが最も言葉通りに実現したのは、海洋都市トルロスに転移門を開いた時だ。
あの時は、頭の中で詳細な情景をイメージしたらその通りの門が開いた。だが、実際に行きたいと願ったわけじゃない。時間的にロスのある行程をすっ飛ばして門を開けたらいいなと、試しにやってみただけなのだ。
ただ……焦燥感はあった。
意識的では無い。
庵のカウントダウンだけは、いつも脳裏に焼き付いていて離れないのだ。
そんな焦燥感に比べれば、ミアにイナゴのおやきを食べて欲しいというアホっぽい可能性は、到底引き寄せられないだろう。
「ま、ものは試しです。自暴自棄になってやりますよ! ……ぐびぐび!」
「いや、だからイナゴは止めなさいよ」
◆ ◆ ◆
翌朝、工房。
「…………」
気が付いたら、ベッドに寝ていた。
何てことの無い、いつも通りの朝だ。
自分の決意なんてこんなものか……とエスティは思ったが、そもそもミードを飲み干してからの記憶が吹き飛んでいる。酔ってネクロマリアに転移していないだけましだ。
(……二度寝しますか)
そう考ていたら、電話が鳴った。
この家の電話は笠島家の人々からしか掛かってこない。そして、その中でも日向だけは着信音を変更して設定している。
「もしもしエスティです」
「あ、エスティちゃん!? よかったぁ、何かあったのかと思ったよ!」
その声を聞いた瞬間、エスティは察した。
エスティの背筋が凍り付く。
「――諏訪湖に行くって話、覚えてる?」




