第88話 野沢菜鍋と聖女先生
2月の下旬。
ジャズが流れる夜のリビングにて。
炬燵の上で、鍋がぐつぐつと煮えている。
「――諸君! この鍋が『今』なのよ!」
白衣に伊達眼鏡のミアが立ち上がり、箸を掲げた。
「諸君! 私は物理学が好き! 空想科学もオカルトも、お鍋も大好きよ!」
エスティは一人盛り上がっているミアをチラッと眺め、再び鍋に視線を戻した。そして、ムラカと共に淡々と鍋をつつき始める。
「……エスティ、この野菜は何だ?」
「野沢菜ですよ。これは野沢菜鍋。ところで、シェフはもう酔ってんですかね?」
「教師漫画を読んだらしい。早く食べよう」
本日の夕食は、野沢菜漬けを漬け汁ごと鍋に入れて作った野沢菜鍋だ。箸の扱いもすっかり上手になったエスティ達は、パクパクと野沢菜を口に運んでいく。
「なるほど、これは美味しいですね」
「エスティ、地ビールをくれ」
「いいですね、飲みましょう飲みましょう」
「2人とも聞きなさいよ!!」
エスティはあれから何度かトルロスへと出向き、ラクリマスの資料館でその痕跡を辿っていた。そして今日ようやく一通り調べ終えたため、情報共有も兼ねて、会議という名の鍋をつついていた。
とはいえ、いつもの夕飯の景色と何も変わらない。違いがあるとするならば、ミアが伊達眼鏡をかけている事ぐらいだ。
その眼鏡は、鍋の蒸気で曇っている。
「鬱陶しいわよこれ! ポイよポイ!」
「早かったですね、教師ブームの終わりは」
ミアも座り、野沢菜を食べ始めた。
「エスティ、今日も成果は無し?」
「えぇ。何故か、造船技術を学んでます」
「一体何者なんだろうな、ラクリマス」
エスティは資料館の全ての資料をサラッと読んだが、ラクリマス個人についての情報は見当たらなかった。受付嬢に尋ねても、ありませんと投げられた。神話時代の個人情報など、残っている方が珍しいのかもしれない。
「ですが、一つ分かった事があります」
「何?」
「あの石の家は、《魔女の庵》です」
石の家の天井に残っていた魔法陣。エスティが文字列を調べたところ、《魔女の庵》の術式の一部だという事が分かった。
「魔女の庵ねぇ。あの崩れた家が」
「……えぇ。とりあえず、彼女が魔法使いだという事は確定しました」
ミアの言葉にエスティは引っ掛かった。
この家が崩れるまで、あと200日と少し。
ああなってしまうのだ。
「しかし、結果的には痕跡探しは進展がありませんでした。魔族の王に関する情報もゼロです。一体どうしたらいいのやら……ぐびぐび」
「ムラカ、ヴェンはまだ目覚めないの?」
「あぁ。呼んでも反応が無い」
肝心の情報源であるヴェンは、目覚めないままだ。ムラカもやれやれと両手を上げた。
「まぁ、安心しなさい。エスティの力があれば、魔王なんてチョロいチョロい。だって、『どこでも転移門』状態なのよ」
「意味が分からないですよ」
「おや、知りたい? ねぇ知りたい?」
ミアが目を三日月形にして、ニタァっと笑った。口元に野沢菜が付着している。
「酔ってるなお前」
「これは、かなり鬱陶しいですね」
ミアは再び立ち上がった。
片手に取り皿を持ち、また箸を掲げる。
「私は、ついに時空魔法を解明した――エスティ、貴女は私達の上位存在よ!」
眠そうなロゼが、炬燵から出てきた。
「……エス、我は寝てもいいか?」
「もぐもぐ……ロゼ、一応聞きましょう。ムラカ、期待してもいいんですか?」
「私は難しくて分からなかった」
「さて、順を追って説明するわね」
ミアは持っていた食器を炬燵机に置き、自身の【弁当箱】からホワイトボードとマジックを取り出した。
「まずは次元についての私の解釈ね」
ホワイトボードに、次元の説明を図示していく。
1次元から4次元。
つまり、この世界まで。
ムラカが一度聞いた内容だ。
「――はい、ここまではいい?」
「ぐうたらなゲロ先生、質問いいですか?」
「どうぞ、露出狂のオッドアイ魔女さん」
「その知識はどこで?」
「物理学の本と、あとアニメと漫画」
「……」
エスティの予想通りだった。
だが、一応質問を続ける事にする。
「もう一つ質問です。時間とは、逆方向に進むこともありますか?」
「おや……いい質問ですねぇ!」
ミアが笑顔で白目を剥いた。
「私は時間を物事の変化と捉えたの。だけど、あえて時間のままで説明するわね。物理では単なるパラメータの一つだもの。まず、時間の遅れは2つの状況下で起こるわ」
そして、ボードにその状況を書き始める。
ミアの説明はこうだ。
1つは、地球など巨大な物体の近くにいるほど、時間の進み方は遅くなるというものだ。重力は時空を歪ませ、時間の進みを遅らせる。このため重力場の存在する惑星上では、重力の無い宇宙空間に比べて時間がゆっくりと進む。
もう1つは、静止している状態では、動いている状態と比べて時間が速く進むというものだ。例えば、双子の兄が宇宙船で高速移動して数ヶ月後に地球に帰還すると、双子の弟は老後を迎えている、という思考実験だ。『ウラシマ効果』や『双子のパラドックス』としても知られている。
「エスティの空間内で時間が倍速で進む時は、その内部でこの現象と逆の事が起きているはずよ。そして、時間が逆方向に進むというのは、私はこう予想しているわ」
ミアはボードに円を描いていく。
泡のように、いくつも隣接させて。
「この円の一つ一つが、エスティが恥ずかしそうにお漏らしをする可能性よ」
「ちょっとゲロ先生、質問が」
「まぁ聞きなさい。エスティは今、ビールをしこたま飲んでしこたま漏らした。それがこの真ん中の円ね」
ミアは、マジックで中心の円を差した。
「この隣にある円はビールを程々に飲んだ円。それでも漏らした。それで、ここの一番左の円だけは、ビールを飲まずに漏らしていない円とするわ」
「実際は漏らしてませんけどね!」
「時間が逆方向に進むって事は、ある変化点まで可能性が移動すると考えてるの。つまりね……」
ミアは、真ん中の円から一番左の円に向かって、一本の矢印を描いた。
「これが、逆方向に進むという事よ」
「おいミア。これだと世界を、可能性の円を平行移動しただけじゃないか?」
「少し違うわ。まず、無限の可能性が一ヶ所に重なっているの。いわば、このホワイトボードが『今』にあたる。そして平行移動ではなく、変化点への移動。ある可能性の、少し前の状態に向かって移動するの」
「……まったく分からん」
ムラカは首を傾げた。
「変化を把握できるのは、エスティだけね。それも過程からなのか、結果だけなのかは分からないけど」
ミアの説明について、エスティは考える。
これだと、時間が逆方向に進むという事はないのだろう。感覚的には、別世界に移動するというのに近い。しかし、疑問が沸く。
「それだと、可能性の数だけ世界が生まれませんか? 一ヶ所に対して無限に」
「んー……説明するのが難しいんだけど、分母が無限という訳じゃないの。可能性は無限にあるけど、実際にあるのは『今』ただ一つだけ。言い方を変えれば、過去も未来も今に重なっている。そして、エスティはそれらの可能性を時空魔法によって選択しているの」
ミアはホワイトボードに分数で記した。
そして、そこに×印を書く。
「私やムラカは、その選択をする事が出来ない。だから最初に言ったけど、エスティは5次元の上位存在でいいのよ。だって、あんた言ってたじゃない」
『時空魔法は思い込みに作用する』。
「思い込み……」
考えるだけで、それが実現する。
「エスティはその思い込みによって、可能性を引き当てているの。あんたは感覚でこれを理解していて、頭の中で何らかのロジックが組み上がっているのよ。だけど、私やムラカは感覚で理解する事が出来ない。多分、4次元の人間だから」
まるで、明晰夢の世界だ。
「それが事実なら、何でもありじゃないですか?」
「そうね。でも、何でもかんでもできる訳では無いと思うわ。そもそも魔力だって必要だし、他にも気付いていない条件が潜んでるかもね」
ミアがマジックにキャップをして、再び炬燵に戻って来る。電磁調理器のスイッチをピッと押して、ぐつぐつと煮ていた鍋が大人しくなった。
「これと魔王が、どう繋がるんだ?」
「そりゃあ簡単よ!」
「シュマブラの世界に行けます」
「そう、トカゲでケロン……って違う!」
酔っているが、ツッコミを入れるぐらいの意識はあるようだ。
「エスティがトルロスに行きたいって思って転移門を開いたように、魔族がいない可能性を引き当てる事が出来るかもしれないじゃない?」
「そんな都合のいい訳が無い」
「胡散臭いですが、夢はありますね。仮に今の話が全て事実なら『なぜ私が今までその世界を引き当てれなかったのか?』という疑問は残りますが」
「むしろ、それが答えかもな」
「――――面白い推論だとは思うがな」
「ヴェン!? お前……!」
ムラカが驚き、声の方角を見た。
そこにいたのは、古竜ヴェンの影。
影はムクムクと肥大化し――。
「うわっ、でかっ!」
庵の屋根を透過して、大きな足の影だけがリビングに残った。
そして、ヴェンは再び口を開く。
「――――・――・・――?」
「全然聞こえないわよ!!」
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