掛け違いの上着の釦(三十と一夜の短篇第36回)
娘は姑から買ってもらったピンクのランドセルに大喜びだった。早く小学校に入りたいと、ランドセルを背負って大はしゃぎをして、可愛らしかった。同じ幼稚園から同じ小学校へと上がる仲良しの子がいるから、娘の小学校での生活を案じていなかった。
入学前の健康検査で、検査を終えた後、子どもと付き添いの保護者と別々の部屋に分けられた。子どもを遊ばせ、学校について教えている間に、一年生時のPTA役員決めをするのだと説明があった。本来入学式当日に行うのだが、役員に決まった人が気分を害される(落ち込まれる)ことが多いので、事前のこの日に決めておくのだと、年配の先生が仰言った。お祝いの日に重責を課されるのは誰だって気が沈むのだからと、納得できた。どんな名前の役員で、どんな役割を果たさなければならないのか、予備知識が無かったので、どきどきしながらも、わたしは成り行きを見守った。
手を挙げる人、立候補する人から誘われたり、先生から声を掛けられたりと、時間は掛からず、役員は決まった。
「専業主婦なのに手を挙げなかった人がいたわね」
そんな声がして、自分のことかと胸に刺さったが、聞こえない振りをした。一年生で役員をしなくても、またほかの学年があるからと、難しく考えていなかった。ここの小学校の学区は、共働き世帯が多いが、専業主婦の人は自分のほかにもいるのだから気にしていてもはじまらない。
四月になり、娘は一年生。入学式当日、用意していた服を自分で着ると張り切っていたが、釦を掛け違い、わたしが直してやった。
「嬉しいな、お母さんと二人、いいお洋服で手をつないで小学校まで行くんだ」
眩しいくらいの喜びに充ちていた。
幼稚園で一緒だった子は別のクラスになって残念だったが、浮き浮きと毎日登校していった。わたしは安心して、下校してから娘の話を聞き、学校からのお便りや連絡帳に目を通した。
夏休み、わたしが子どもの頃とは違って宿題の量は少なかった。暑い中、ラジオ体操、プール、子ども会の行事の参加と、娘は初めての夏休みを充実して過したようだ。
二学期や冬休みも同じように過した。しかし、三学期に入ってから娘の様子が変わってきた。春のような明るい期待、秋のような慣れてきた落ち着きとは全く違う、冬の憂い。
子どものなのに溜息を吐くように学校に行く。ある日、べそをかきながら帰ってきた。
「一体どうしたの?」
「新しく買ってもらった鉛筆に絵が描いてあるのを見せてと言うから見せたの。そうしたら、こんな絵が入っている鉛筆は幼稚だとか、学校に持ってくるのに変だとか言うの。そしてみんなにどう? と見せて回したの。
幼稚ってなあに? 幼稚園にいる子みたいってこと?」
わたしは返事に窮した。一年生の子どもが幼稚の言葉を使うのか。冬休み中に買い揃えてやった、女の子らしい絵の入っている鉛筆を持っていった。それを小学校に相応しくないように娘に言うとは、なんともませた口を聞く子なのだろう。
子どもは些細な違いでも大袈裟に言って騒ぎ立てるものだと、自分に言い聞かせ、ちっともおかしくないよ、おかしいのはそんなことを言う子だよ、と娘に言った。それでもまた言われたら嫌だろうからと、鉛筆を取り替えた。
翌朝、娘を学校に送り出した。娘は何事もなかったように帰宅した。質問して蒸し返すのはよくないと、鉛筆の件は尋ねなかった。
学用品でまた別の出来事があった。男子が下敷きをフリスビーでもないのに回転させて投げて遊びはじめ、娘の下敷きを誰かが取り上げて投げ飛ばしたのだという。下敷きはあらぬ方向へ飛んで割れた。
割れた下敷きを家で差し出してきて、娘はわたしに説明して口をすぼめた。
「やめてって言ったのに、投げられて、割れちゃった」
「困った遊びをする人たちね。先生に注意してもらいましょう」
連絡帳に苦情を伝え、娘に新しい下敷きを買ってやった。まだ幼い子どものすることだ、荒立てたくない気持ちがあるが、娘が傷付いているのだから放っておけなかった。幼稚だと人を決め付けるような子がいるように、心の成長には差があるものだ。こましゃくれた性質の子と違って、娘は優しく、大人しい。言い付けを守る、純粋で本当にいい子だ。母を頼り、学校に行くのを頑張っているのだから、わたしが味方し、励ましてやらなくてはならない。
たどたどしく、少ない語彙で懸命に悔しさを伝えようとする必死さを汲み取って、お母さんも一緒に登校して、お友だちに挨拶して、仲良く遊んでちょうだいとお願いしてみようか、提案した。
娘は首を振った。
それでも次の朝、わたしは見送りついでに途中まで付いて行った。挨拶をすれば、お早うと返してくれるいい子どもたちばかりだ。
春休み中は子ども会の六年生を送る会があり、近くの子と誘い、誘われ遊びに行っていて、わたしは安心した。二年生のPTA役員は率先して手を挙げる人たちがいたので、すぐ決まり、わたしは来年こそ立候補しようと思った。
四月、娘は二年生、一年生からそのまま上がり、クラス替えはなかった。娘は学校に新鮮さや励みを感じなくなった。朝食を食べ、歯磨きや洗面を済ますのと同じだ。毎日出掛けていった。
娘に強い言葉ばかり掛けてくる子がいる。鉛筆が幼稚だと言った子だ。何かと態度がはっきりしない、声が小さいくて、皆と一緒の行動が取れないと執拗に娘を責めてくるらしい。
これはいじめではないか。しつこく強く言い続けられたら誰だって萎縮してしまう。それでなくても娘は今までも、泣かされているのだ。
わたしは担任の先生にまずは連絡帳で伝えた。注意して学級の様子を見ると返事をもらったが不安が募った。娘の表情は変わらないように見えた。
「嫌なことをされたら、嫌だ、止めて欲しいってきちんと言ってみている? 黙っていると、判っていないのかなとか、何を言ってもいいんだと相手が思っちゃうよ」
「なんとか言い返してみる……」
娘はわたしの言葉に力を得たように肯いてみせた。
だが、相変わらず娘の顔は冴えない。
わたしは担任の先生に直談判した。先生はわたしの話を聞き入れてくれた。
先生は学級会の中で、誰とは特定せずに話題を出し、みんなで仲良くしていこうと約束させた、とそんな話を報告してきた。
娘が明るく登校したのは一週間に過ぎず、また娘は暗い顔に戻った。例の子どもはまた娘の持ち物にあれこれと言い、態度が赤ちゃんのようだとかうるさく言ってくるのだという。娘は怖くなって固まり、何も言い返せず、職員室に逃げ込むのだと、わたしに言ってきた。職員室や保健室にいたい、もう教室にいられないと泣いて、先生からそれでいいと言われて、一人離れた場所で勉強しているらしい。
帰ってきて、もう学校に行きたくない娘はと言い出した。
「子どもは学校に行ってお勉強しなくちゃいけないのよ。勉強だけでなく、人とのお付き合いや、世の中の仕組みを覚えていく場所なの。逃げ出したら大人になった時に困るわよ」
「もう学校行きたくない」
あんなに素直で陽気に笑う子だったのに、毎日泣いて、顔の皮膚が荒れ、笑顔を失くした。わたしはこれまで遠慮していたが、大切な話と、夫に相談した。
夫はしばらく学校を休ませたらどうだと言ってきた。わたしが専業主婦なのだから、日中面倒を見るのも、勉強を教えるのも差し支えはないだろう、それくらいしないと、相手方や学校も、事の重大さに気付かないかも知れないだろうと。
それで問題が解決するのだろうか。今までだってわたしは娘を励まし、学校にも色々と請うてきた。家庭をわたしが預かっているからといって、自分の娘の問題なのだから、もっと父親らしく悩みを分かち合ってくれないものか。仕事を言い訳にできる人が憎たらしくなった。
保健室でも職員室でもいいからとにかく学校に行きなさい、指図したり、いじめてくる子には毅然としていなさいと、娘に言い聞かせ、娘は弱々しく肯いた。
それでも娘は悲し気に帰ってきた。誰にも何も言い返せなかった。言われるとすぐに涙が出て、何も言えないし、抵抗できないと訴えた。
やめて、嫌だと言えれば、少しは変わるのにと娘に苛立ちを感じつつ、この子は優しいのだ、まだ幼さを残しているから仕方ないのだ、と娘を抱き締めた。
わたしは小学校にしばらく娘を休ませると電話した。
担任の先生は相手の子の親に事情を伝えたらしい。相手の親御さんから電話が来た。
「娘は気の強い所があって、はっきりとした物言いをします。悪気はないのです。子どものしでかしたことですから、許してください。これから言い方次第で人を傷付けることもあるのだから、考えて物を言いなさいと教えます。態度を改めるように諭します」
相手の母親は日中勤めているそうで、事情を深刻に受け止めていなかったようだ。それに自分の子だ。そうとしか言えないだろう。
判ってない、判ってない。鉛筆の模様だの、声が小さいだの、娘が反論できないのをいいことにして、悪気が無かったからといって批難していいはずがない。ひどい子、ひどい親。
娘とわたしの二人きりの生活。勉強が遅れないように、教科書を読み、書き方や計算を練習した。体力が衰えないようにと体操。
一月ほどして、担任の先生が家に訪問してくれて、子どもたちが反省したので登校して顔を見せてくれないかと言ってきた。娘はまだ怖がり、先生の言葉を疑っていた。
「そう言われてもすぐには決められませんよね。気持ちが落ち着いたらでいいんですよ。学校のプールも始まるので、気分も変わるかと思ったのですが、無理はさせないでください」
そう言って先生は帰っていった。先生は娘と二人にしてくれと、二人でしばらく話をして、終わると、娘はわたしの知らない顔をしていた。
「学校に行ってみる?」
「まだ怖い」
「行ってみて怖かったら、帰ってきてもいいのよ」
「どうしよう……」
娘はわたしから勧められて小学校に行ってみるとに決めた。わたしは学校まで付いていった。昇降口で娘は怯えていた。待ち構えていた担任の先生に娘を預け、わたしは家に戻った。何日かは問題なく過したようだったが、娘の心には棘が刺さったままだった。また誰かが側に来て、何かを話し掛けてくると、飛び上がらんばかりに驚いて、その様子をからかわれ、泣いたと、帰宅してから訥々と話をしてくれた。
今まで辛い想いをしてきたのだから、過剰に反応するのは当然あり得よう。子どもたちには判らないのだ。
「学校に行きたくない」
娘は繰り返す。そればかりだ。
何がいけなかったの、何か間違えていたの? わたしが悪かったの?
わたしの育て方に問題があったのだろうか、学校や相手の親への対処に足りないところがあったのだろうか。
胸が痛くて眠れない日が続ていた。きっと娘も同様に過しているのだろう。
娘は朝起きようとしなくなった。
学校に行かなくてもいいから、起きてご飯を食べようと声を掛けるが、娘はいやだいやだと泣き続けた。
夫は仕事に遅刻できないからと、出掛けていった。
どうしたらいいか判らない、と、わたしも泣いた。
お母さん、泣かないで、と、娘が泣きじゃくってひび割れた声で言ってきた。
お母さんまで泣いちゃうなんて、わたしは悪い子なの、と健気にも尋ねてきた。
あなたは悪い子じゃないの、何もしてあげられないお母さんが悪いの、おかあさん、もうどうしたらいいか判らない。
ごめんなさい、お母さん、もうわたし死んじゃいたい。
お母さんも死んじゃいたい。
お母さんがいなくなったら生きていけない、そんなこと言わないで。
辛くて辛くて、仕方がない、何がよくなかったのかしら。
学校に行かなくても生きていけるでしょう。
でも、世の中にいつかは出ていかなければならないの。こんな怖い世の中でも。
どこにいってもいじめられるの?
判らない、でも心の弱い人の気持ちが判らない人はいる。
お母さんはこんなに一生懸命でやさしいのに。
あなただってこんなにいい子で、お母さんを思い遣れる優しい子なのにどうしていじめられるのかしら。
娘はわたしに縋りついた。わたしは娘に手を伸ばした。尽くせる手は尽くしたのだから、とぼんやりとした闇が拡がった。
その日、仕事から帰った夫は、扼殺された娘の遺体と、包丁で手首や頸を傷付け失血死した妻の遺体を発見した。