花と灯台の男
「見てよほら、あれ、家だと思うんだ」
旅人が言った。
「どうやらそのようだな」
竜は応えた。
「ねえねえ、降りてみようよ」
旅人は竜の顔を見上げて言った。尤も、竜の手のひらに乗っている旅人からは竜の顎の赤黒いごつごつした棘しか見えなかったが。
「なんのためにだ。どうせわめきたてられて、箒や腐った卵を投げつけられるのがオチだ」
竜は鼻で笑って相手にしなかった。彼らの眼下には広大な海が広がり、頭上にはよく晴れら空が広がっている。その海の片隅にうずくまる象のように大陸の端の崖があり、その頂点に一軒の家が建っていた。
「実は食べ物がなくなって、お腹がペコペコなんだ」
旅人はうつ向いて自分の腹を両手で抑えた。
「なぜ、私がお前の腹具合など忖度せねばならん。竜は人の言うことを聞いたりなぞしない。自分の飛びたい時に空を飛び、降りたい時に降りる。それだけだ」
「実は君の手が結構揺れるんだよね。それでちょっと気持ちが悪くなっちゃったんだ」
旅人はうつむいたまま言った。
「同じことだ。竜は人の事情に合わせて飛んだりはしない。私の手の上で小人が一匹倒れようが、餓死しようがどうでもいい」
「でも気持ちが悪すぎて吐きそうなんだ。手の上に吐かれるのはいやでしょう?」
旅人はうつむいたまま言った。
「海に吐き出せ、今まで排せつ物はそうしてきただろうが」
竜は苛立たし気に言った。
「でももう海に向かって顔を出す力すらないんだ。気持ち悪いし、お腹減ったしで」
旅人はうつむいたまま言った。
「なるほどならばここでお前とはお別れだ。空の旅の次は、海の旅を始めるんだな。なに、心配することはないどちらも同じ美しい青だ。遥かな大海の上を飛び続けているとどちらが上でどちらが下なのかわからなくなる時があるくらいだ」
竜は威嚇するように鼻から火を噴いた。
「ここから落とすの。でも僕は死んじゃうと思うし、そうすると約束を破るのは君ってことになると思うんだ」
竜は沈黙した。しかし悔しそうなのは一目瞭然で鼻から煙が立ち上っていた。
「ねえ、竜は強く、気高く、嘘をつかず、約束を破らないんじゃなかったっけ?」
旅人はうつむいたまま竜に追撃の一言を放った。
「・・・ところで小人よ。私は長く飛んで少し疲れた。あの崖に降りて少し休むとしよう」
「そうだね、いい考えだと思うよ」
旅人はうつむいたまま少し笑った。
竜はその帆のように巨大な翼を一振りして、斜め下に向かって滑空を始めた。残された尻尾が最後にムチのようにしなってその巨躯を追った。太陽はきっと、その真紅の巨体が真っ青な大海の上で見事にうねり方向を変える様を、息をするのも忘れて見ていただろう。太陽に劣らず輝くその赤い竜はひどく美しかった。
崖の周辺には岩場が広がっていてその先は森になっている。竜はその巨体からは想像もつかないほど静かにその岩場に着陸した。旅人はその手のひらから飛び出し、軽やかに着地した。旅人は大きく手を広げて横に一回転した。
「久しぶりの地上だー。気持ちいいなー」
伸びをする旅人とは対照的に竜は前足をそろえて地面に置き、その上に顎を乗せて、羽をたたんだ。まるで猫が丸くなるかのようだった。
「ねえ、せっかくの地上なのに散歩しないの?」
「私には翼がある。地上を歩くより何倍も楽に何倍も速く移動できる。何を好き好んで人や犬やその他の持たざる者の真似をせねばならんのだ」
「へー飛ぶ方が楽なんだ。ねえ、飛ぶってどんな感じ?」
「翼を広げれば風が運んでくれる。柔らかな風に包まれている時私の魂は消え去り、風に同化する」
「なんだか、難しいね」
「上手く人の言葉にできないだけで、竜にとっては自然なことだ。逆に言えば人にとって自然でも竜からすれば理解できない言葉は山ほどある」
「そうなんだ」
くるくると周囲を見回していた旅人の目線がある一点で止まった。崖の一部が張り出し岬になっており、そこに小さな石造りの塔が建っていた。
「やっぱり建物だったね」
「そのようだな」
旅人は竜に背を向けると塔に向かって走った。
「ねえ、おいでよ」
三割ほど行ったところで旅人は振り返ると竜に言った。
「私は、、、まあいい」
竜は何かを言いかけたが途中でやめると後ろ足で立ち上がり、羽を広げてバランスを取りながら旅人の後を追った。爪が岩を削り、がりがりと音がした。
「こんにちは」
旅人は強く扉をたたいた。扉は分厚い樫で出来ていたが、潮風にすっかり傷んでいて、旅人の小さな拳がぶつかる度に小さくしなった。辛坊強く旅人が叩いていると、扉が小さくきしみながら開き初老の男が顔を出した。
「こんにちは」
旅人が元気よく挨拶をしたが、男は何かを言おうとして口を開いたがすぐに閉じて、代わりに眉をひそめて旅人をじっと見つめた。
「あの、旅をしていて、何か食べ物を交換してくれないかな?」
男は応える代わりに咳払いを一つして顎髭を右手で撫でた。男はしばらく黙って旅人を見つめていたが、やがてその周囲をうかがうように首を伸ばした。その視線が旅人の背後でがりがり岩を削りながら向かってくる竜をとらえるやいなや、男は老人の手をつかんで塔の中に引きずり込むと、その古びた扉を閉めた。
「やっぱりな」
竜は煙交じりの溜息をついた。
男は髪もひげも白くなっていたが、背筋が伸び、ぜい肉も少なく、精悍な顔立ちをしていた。男は扉を閉めると、あわただしく部屋の中央にあった机に駆け寄った。その机を押して扉にバリケードを作った。
「竜だ。気をつけろ」
男は立てかけてあった銛をつかむと旅人に言った。何かを確かめながら話すようなゆっくりした話し方だった。
「大丈夫だよ。友達なんだ。いい竜なんだよ」
旅人は男に言った。
「お前は子供だから竜の恐ろしさを知らないんだ。竜は大きく、美しく、強い。だが、人間に対する憐れみを持たないし、人を友とみなしてはくれない」
「でも僕はその竜と海を越えてここに来たんだ」
男は驚き、眉をしかめて旅人を見た。
「私の同行者を返してもらえないか」
穏やかだが有無を言わせぬ大きな声が降ってきた。同時に塔の中にあたたかい風が吹き込んだ。男と旅人が見上げると割れた天窓から琥珀色の大きな瞳が中をのぞいていた。
「そんなことを言ってこの子を食べるつもりじゃないのか」
男は一瞬ひるんだもののすぐに言い返した。
「人間のちっぽけな子供など食べても腹の足しにならんわ」
竜が大声で笑うと塔内の温度が上昇した。
「大丈夫だよ。友達だから」
旅人が繰り返した。今度は男だけでなく竜も眉をしかめた。
「なら、どうして、この子を返してほしいんだ」
「その子供とは約束がある。竜は確かに人間に対して憐れみを持たないが、約束は守る」
男が押し黙ると竜はつづけた。
「こんなちっぽけな塔は破壊して、私の同行者を連れて帰ってもいいのだぞ」
「分かった」
男は扉の前から机をどけると、それでも旅人を自分の背にかばうようにして外に出た。
「この子を返す前に教えてくれ、約束とはなんだ」
男が竜に尋ねた。
「私は小人を運ぶ。小人は道中私を楽しませる。そういう約束だ」
「ねえねえ、質問に答えたからこっちからも質問させてよ」
旅人が割り込んで言った。
「ここで一人で住んでいるの?」
「そうだ」
男は竜を見つめたまま答えた。
「どうして、町や村でみんなと暮らさないの?」
「かつてはこの森の向こうに村があったが、今はもうない。だからここで一人で暮らすしかない。この崖の下は魚も多いし、村には打ち捨てられた畑がある。一人でも住んでいられる」
男は手短に言った。
「ねえ、じゃあ一緒に行こうよ。空を飛ぶのも楽しいよ」
旅人は無邪気に笑った。
「飛ぶのは私だ。勝手に小人どもを増やすのは遠慮してもらいたいものだ」
竜は憮然として言った。
「面白い話だけど、遠慮させてもらおう」
「どうして」
今度は旅人が憮然として言った。
「私にも約束がある」
「どんな約束?」
「ここである人と会うことになってるのさ」
男はひどく優しい顔をして言った。
「いつ会うの?」
「分からないが、いつかさ」
ようやく男は旅人に向き直った。
「会えるといいね。どんな人?」
「陽気な人だよ。笑うとね、満面の笑みっていうのかな、顔一面で笑うんだよ。本人はそれが嫌だったみたいだけど、私はそれがとても好きだったんだよ」
男は話すうちに竜への警戒が溶けて柔らかな口調になっていた。
「分かった。恋人を待ってるんだね。でも、とっても言いにくいことなんだけど、もしかして凄い長い間待ってるんじゃない?」
旅人は男から目をそらして言った。
「君は賢いね。そう、もうずっと昔に分かれたままなんだ。私も昔は森の向こうの村に住んでいてね。幼馴染だった少女と恋に落ち、婚約までした。しかし、そのころ、海の向こうの国と戦争があって私は徴兵されて戦争に行った。その時に、私は生きて帰ると、彼女は待っていると、それぞれ約束をした。彼女は毎日この灯台に来て、私が海から帰って来るのを探すと言ってくれた。戦争は長引き、どっちが勝ったのかもよくわからない形で終わった。しかし、私が帰ってくると、町は焼かれていて、彼女の姿もなかった。おそらく戦争のさなか、敵国の別働隊が上陸して略奪したんだろう。それ以来私はこの灯台に住んで彼女を待ち続けているんだ」
男は穏やかに語り、旅人は食い入るように話を聞いていた。ただ、竜だけは興味なさげに小さく丸まり目を閉じていた。
「また、すっごく言いづらいことなんだけど、その人はもう死んじゃってるんじゃないかな?生きていても約束を忘れてしまってるかもしれないし」
旅人は足元の土を足で掻いた。
「私もそう思った。一応死体は見つからなかったが、敵兵に連れていかれて、どこか遠くで殺されてしまったかもしれない。あるいは追い詰められてここの崖から身を投げたかもしれない。どこかに逃れてそこで幸せに暮らしているかもしれない。だけどね、私が帰ってきた時この灯台の机の上に一輪の花が置いてあるのを見つけたんだ。しおれていなくてね、摘んだばかりみたいだった。青い花弁の綺麗な、でも名前を知らない花だった。それはもしかしたら別れのメッセージだったのかもしれない。でも、どうにも確証が持てなくてね。もしかしたら、また会えるんじゃないかと思いながらもうこんな歳になってしまった」
男は意外にも晴れやかな顔をして言った。
「そうなんだ、でも、やっぱり寂しくない?こんなところに一人でいて」
旅人は小さな声で聞いた。
「まあ、寂しくないと言えば嘘になる。君たちにこんな長話をしてしまったのも久しぶりに人と話せて嬉しかったからだろうしね。でもね、いつか彼女が帰ってくるのを待ちながら、一人静かに作物を作ったり、魚を釣ったりする生活は、なんていうかね、すごく平穏で心休まるんだ。戦争から帰ってきて、最初のころは敵兵に殺される夢や戦友が死ぬ夢ばかりを見ていた。けど、ここで静かな暮らしをしているとね、そういうことを忘れたくなくても忘れていく、薄れていくんだ。要するに私はここの暮らしに、彼女を待っているということに救われているんだ」
男は顔を上げて竜の巨体を仰ぎ見た。
「それに、人間も約束ぐらいは守らないとね」
竜は片目を薄く開けて男を見つめた。
「さあ、食料が欲しいんだったね、魚の干物と豆なら日持ちするし量もたくさんある。灯台の中にあるから好きなだけ持って行ったらいい」
「ありがとう、でも、僕もいろいろお宝を持ってるんだ。交換でいいよ」
旅人はたすき掛けにしていた色あせた袋を持ち上げて見せた。
「話を聞いてもらったお礼だ。遠慮せずに受け取るといい。その代わり今夜は是非一泊していって、きみたちの話を聞かせてほしい」
気づけば太陽が海に足を付けていた。夕日を背後にした灯台は竜に挑む一人の巨人のように見えた。
「じゃあ、行くね」
「ああ、元気で」
「その人に会えるといいね」
「ありがとう」
男は最後に旅人の手を優しく握った。
竜はその手のひらに旅人を収めたまま大地を蹴り、崖下に姿を消した。心配になって崖際に駆け寄った男に見えたのは水面すれすれを海鳥の群れを裂き朝日に向かって一直線に飛ぶ、小さくなっていく真紅の背と二振りの翼だった。
「何を見ているんだ?」
竜が尋ねた。
「これだと思うんだよね。あの人が言ってた花」
旅人は一輪の花を竜に見えるよう振って見せた。
「アマリアスだな」
竜は一瞥して言った。
「竜の言葉ではそう言うんだ。僕たちはシブキバナって呼んでる。たぶん青い花がたくさん集まってるのが波の飛沫みたいだから、そういう名前なんだと思う。朝散歩していて見つけたんだ。そういえばハナツバメの巣でこの花を見たことがある気がするな」
再び旅人は花を見つめて言った。
「そうだな。ハナツバメは産卵の時期が夏に近いから、枯れ草ではなく、花で巣を作る。冬になると南に、温かくなるころ北に飛び、産卵する。時折海の上ですれ違い季節を教えてくれる律儀な鳥だ。そういえば、あの灯台の割れた天窓の上にもハナツバメの古い巣があった」
竜はつぶやくように言った。
「それ、あの人に教えてあげなかったの?」
旅人はどこか楽し気に言った。
「なぜ言う必要がある。巣があったからと言って中で見つけた花が本当にハナツバメが運んできたのか、待ち人が持ってきたのかわからないだろうが」
「やっぱりいい竜だよ」
旅人は上機嫌に叫んだ。
「必要がなかっただけだ。そういえば昨日、人と竜は共感しあえない概念があるという話をしたのを覚えているか?」
竜は(おそらく)すまし顔をして言った。
「そんな話したっけ?」
旅人は首を傾げた。
「まあいい。私にはお前たちの言う友という概念がよくわからん」
「えー。簡単だよ。君にだって他の竜がいるでしょ。それが、友達だよ」
「それはただの同族だ。お前たちは同じ人族の中でも友とそれ以外で分け、時に殺しあう。そこがよくわからん。それに同族が友だとすれば、お前と私は友ではない。しかし、お前は私の事を友と呼んだ」
「うーん。わからなくなってきたな。そうだ。一緒にいて楽しかったり、穏やかになったり、なんだか幸せになる相手の事を言うんだと思うよ」
「一緒にいて楽しかったり、穏やかになったり、なんだか幸せになる、か。もしかしたら我々が空を飛ぶ感覚に近いかもしれないな」
竜は目を細めて言った。
「それって、竜が空を飛ぶ感覚は僕たちが友達と一緒にいる感覚に近いってこと?なんだかおもしろいね」
「もう一つよくわからない概念がある。恋人という概念だ。我々はつがいになったりしない。竜はいずれ火に帰り、もう一度火から生まれ直す。他の生物が子孫を残すためにつがいになるということは知っているが、どうも感覚として理解できないな」
「恋人は、、、。なんだろうね僕もよくわかんないや」
旅人はまた首を傾げた。
「あの男はもしかしたら、竜の心が理解できるのかもしれないな」
しばらくの沈黙の後竜はつぶやくように言った。
「どうして?」
「1人で魚を捕り、作物を育て、心は安らか。その感覚は竜の日常の感覚と近い。我々は群れない、生涯ただ一頭の竜として生きていく。だが、人間のように怒ったり、悲しんだりはしない。目に入る太陽や星の光が、翼で掴む風が常に心を満たしている。他の感情が入る隙間もない」
「そうかなー。時々僕に怒っている気がするんだけど」
旅人は口をすぼめた。
「あんなものはただの戯れだ。本当の竜の怒りに触れればお前なんぞ骨も残らんよ」
竜は笑った。
「それは確かにそうだね。でも、僕はやっぱり、どうしても、あの人の事は寂しそうでかわいそうだと思ってしまうんだ」
旅人は悲し気に言うと、持っていた青い花をたすき掛けにして身に着けている袋に優しくしまった。