第7話
家に入ると、母さんが夕飯の支度を始めたのか暖かな好い匂いが満ちていて、知らず詰まっていた息をほっと吐き出した。
支度が整うまで部屋にいようと階段を上がりかけた所で、匡が部屋に入っていく後ろ姿を閉まりかける扉の向こうに見た。
…あいつ、自分の部屋に入るのは着替えと寝る時だけといえるほどずっと下にいてテレビを見ているような奴なのに…。
やはり、彼女に振られたのがショックだったんだろう。
たぶん、間接的だけど原因になった俺の顔など今は見たくも無いんだろう。
…仕方ないかもしれない、当然かもしれない。
けど、俺には辛いな、それは……。
まるで拒絶するように閉められた扉の前で自然と足が止まり、息を殺して扉の木肌に触れる。
離れたいと思う。
離れなければならないと思うのに、それでも俺が本当に望むのはこの中なんだと、痛む胸が嫌というほど俺に告げていて。
それでも、痛いのは叶えられない望みだからだと分かっているから辛い。
逃げ道の無い袋小路。
そこへ迷い込んだのが俺自身だから、いくら辛くても助けを求める事は誰にも出来なくて。
俺はまた必死に自分を取り繕う。
平気だと、ただ言い聞かせて。
そして俺は平気な自分を作りあげるために、今日も部屋に篭る事にした。
そんなせいで、夕食は気まずいほど静かに過ぎ、匡はただ一言
「別れた」と母さんに報告した。
母さんも分かっていたのか、2、3の慰めを口にしただけで黙ってしまい、俺は最近細くなった食を更にすり減らし、先に食卓を立つと自室に引き込んだ。
次の日、俺は家に居辛いこともあり、本屋に行く事を母さんに告げて早くから支度を始めていた。
さすがに、今日は阿久津に連絡する気にはなれなかった。会えば昨日の話になる。
けれど、どういうつもりなのか詰る元気も、不意を突かれた怒りを向ける気力も、今の俺には残っていなかったから。
そしてもちろん、無かった事にしていつも通りの関係を持つ気は全くない。
…今から少し足を伸ばして大きな本屋に行けば、帰りは嫌でも夕方になるだろう。
そうなれば、今日は家にいる匡と必要以上に顔を合わせる事も無い。そう思って、匡がまだ起ない時間に出ようとし、玄関で少し手惑う靴紐を結んでいた時。
「…どこいくんだよ」
頭上から聞こえた不機嫌な低い声に俺は全身で反応し、強ばりのとけない顔で恐る恐る振り返る。
階段の途中で、匡が寝起きのせいか昨日のせいなのか、判別の付かない不機嫌な顔で俺を見下ろしていた。
「た、匡…早いな、どうしたんだ?」
「目が覚めたんだよ。…で、どこいくんだ?珍しいじゃねぇか。兄貴が休みに2日とも出歩くなんて」
見上げた先に、口調よりも不機嫌そうな匡の目とぶつかり、俺は出掛かった重い溜め息をどうにか飲み込む。
「きょ、今日は参考書を買いに行くんだ。昨日、行けなかったから」
かわりに、言い訳がましくならないように細心の注意を払った台詞を吐き出した。
母さんに言ったのと同じ口調と言い訳をしたのに、匡はつまらなそうにそれを聞き流し、俺にとってはとんでもない事を言い出す。
「――ふぅん。じゃ、俺も行く」
「――――― えっ?!」
「だから、俺も行こうと思ってたんだよ、本屋に。そんなとんでもない声上げる事ないだろ」
驚いた俺に、さらに不機嫌を足したような声でそう言い、匡は絶対についていく、と頑なな意志を目で告げていた。
そして、今更
「本屋には行かない」と言うわけにもいかず、俺は頷くしかない首を縦に下ろす。
「……わかった。でも、もう出るからすぐ支度しなかったら置いていくぞ」
それしか言えず、俺は支度のために踵を返して階段を駆け上がって行く匡の後ろ姿を見送った。
2階から何かを落とす音と蹴飛ばした音が鈍く響いてきたのに、胸がビクッと恐れを示す。…2階で物に当たったりしているんじゃないか、なんて。
けれどそれは杞憂だったようで、匡は本当に5分ほどで支度を終え、玄関で待つ俺を見るとほっとしたような息を抜く。
上着に袖を通しながら玄関に下りた匡のために場所を空ける。
体ごとドアを開けるようにして外へ出ると、スニーカーのつま先で地面を蹴りつつ匡がついてきた。
「それじゃ、行こうぜ。兄貴」
どこか引っかかるような声色の硬さで俺を促す。
「……あぁ」
それに嫌というほど気付いて体を強張らせていながら、俺は何でもない風に偽って小さな唸り声を返した。
匡はそれに気付いているのかいないのか、すぐに俺から背を向けると先に立って歩き始める。
俺は、匡が絡むとすぐに無くなってしまう「大丈夫だ」という自信をかき集め、その背中を追って門を後にした。