第6話
「…あんたさぁ、人ン家の前で兄貴にちょっかい掛けんの止めてくんねぇか?」
ぎぎっと音が聞こえそうなほどきつく阿久津の指を握り締める匡に、もう片方の手で強引に背中へ庇われて、俺は慌てて阿久津の表情を見た。
少し眉が寄せられていたが、『まだまだ余裕』とでも言っているような顔をしていて、匡の方も更に力を込めていっているらしいのが、白くなっている指先から見て取れる。
「お、おい匡、やりすぎだ。ふざけた奴だが、こいつは一応俺の友人なんだ。…離してやってくれ」
焦って匡の背中にすがり付くと、匡はちらりと俺を見やり、
「ふん」と鼻を鳴らして阿久津の指を投げ捨てるように離した。
「…随分乱暴な奴だな。ふ〜ん、こいつが珪哉の弟かよ」
「…そうだ。阿久津も、あまり柄の悪い事をしているからこんな目に会うんだぞ」
出来る限り和やかなように声を作りながら、はっきり言って今の俺はそんなどころではなかった。
匡には、阿久津の存在がばれてしまったし、阿久津には匡が弟であるとばれてしまったのだから。
…もし、もし匡に俺たちの関係を疑われてしまったら…。
もし、阿久津が匡に下手な事を言いでもしたら……。
全て、終わりだ。
そんな俺の青い顔を匡の背中越しに見ていたのか、阿久津がニッと俺と目を合わせて笑った。
「…つれないじゃねーか、折角送ってやったってのに。具合悪いんだから、今日はゆっくり寝てろよ」
そう優しく呟いて、阿久津は俺に軽く片目を閉じるとそれに口を開きかけた俺を遮るように窓を閉じると、挨拶代わりなのか片手を上げて車を発進させた。
それを見送って、俺は根がことなかれ主義だった阿久津の面倒くさがりに感謝する。
ほーっと息を抜いた俺に、その間ずっと俺を背中に庇っていた匡が振り返った。
「…兄貴。今の、ダレ?」
あまりに固い匡の声音に、俺は背中に冷たい汗を感じて目を逸らす。
「……トモダチ、だ。見た目ほど悪い奴では…」
「高校のじゃねぇだろ?…何処で知り合うんだよ。ナンパでもしてるみたいに…気障ったらしい奴じゃねぇか」
言い訳がましくならないように、口の動き、舌の動きにまで神経を集中させて話す俺の台詞を遮って、匡は一人ごちる様にぶつぶつと呟いた。
「…匡?」
いつもの匡らしくない機嫌の損ね方に思わず目を覗き込むと、匡はびくっと体を竦めて一歩下がってから歪んだ顔を逸らす。
「っ!あんな、あんなのと兄貴が、どうして一緒に帰ってくんだよ!!
それに、今日は図書館に行って勉強してんじゃなかったのかよ!!」
吐き出すように叫んだ匡がなぜ怒っているのか分からず、俺は恐る恐る匡が逃げた一歩分を追いかけた。
「どうしたんだ?匡。
何かあったのか?…そういえば、お前どうしてこんなとこへ出てきてるんだ。……彼女、は?」
思い出したくなかった憂鬱の原因をふと思い出し、俺は頭に血が上っているらしい匡には一番効きそうでもある存在を、嫌々口に乗せた。
すると、匡はぴくんと肩を揺らす反応を示しただけで、項垂れて黙り込んでしまう。
「…………………」
「た、匡?」
予想外の反応に慌てて声を掛けると、
匡は自棄にでもなったかのように、荒々しく短い前髪を後ろに撫で付けた。
そして、疲れたようなため息を吐いてから話し出す。
「……兄貴がいなきゃ、用はないんだと。
おかしいと思ったんだよな。有紀は中学から一緒でさ、あんなに積極的な奴なのに、最近になって急に纏わり付かれてたんだかんなァ」
「………なっ……!」
今まで見た事も無いくらいに生気の無い暗い表情でそう語る匡を、俺は目を見開いて穴があかんばかりに見つめるしかなかった。
今日見たのが初めての、『匡の彼女』。
持ちたくも無い妬みや嫉妬に胸を焼かれて、見ている事しか、祝福する事しか許されていないその立場を、手段として踏みにじられていたなんて…。
悔しくて、行き場の無い怒りに唇をかんだ。
嬉しそうに部屋を片付けていた朝の匡を思い出すと、更に切なさが焦げる胸を締め付ける。
しかし、目の前でしょげている匡を見ると、そんな自分の事より匡が悲しくなった。
「…誰がどう見ようと、お前には俺にはないお前だけの良い所があるし、十分格好いいんだからな。彼女は、その匡の良さを見る余裕が無かっただけなんだ。落ち込む事はないんだぞ、匡…」
慰めると言うには腰の引けている弱さで、俺は恐々と高い匡の頭に手を伸ばし、触れるか振れないかのところで撫でた。
「兄貴………ありがと、な」
ぼそりと告げた匡の声に、思わず出掛かった涙を堪えて手が止まる。
その瞬間、匡がクッと顔を上げたので、掌が熱い匡の額に触れてしまった。
溶けてしまいそうなほどの熱さにパッと手を離してしまうと、匡が変な顔をして覗き込んでくる。…あまり、顔を見られるのは慣れてないから、こんな時はどうしていいのかわからなくて、俺は目を逸らすしかない。
変だと、思ったと思う。
こんなことで動揺してるなんて、匡は思ってもいないだろう。だから、早く、早く匡の目を見て何でもない風に取り繕わなければ。
「あ、もうそろそろ家に入らないか?いつまでも外にいると、母さんが心配する…」
な?と高い所にある匡の目を真っ直ぐ見返して微笑むと、匡はただ首を落とす頷きを返し、素直に背を向けた。
その背中についていきながら、また、心の中で育つ切ない穴を持て余している自分に気付かない振りをする。
…いっそ、ばらしてしまおうか。阿久津との事を。……そんな、甘美にすら見える終焉を、ふと白昼夢に見た。
苦しくて、あるのに無い事にしなければいけないと言う制約には重すぎるこの恋心が、俺自身が、無くなってしまえばいいとすら思う。
溢れたら終わりの、表面張力の恋心。
でも、いつでも言えるなんて思っていたら、最初からこんな苦しい思いは抱かない。いつか消化するために、頑張ってきたんだろう?今までも。
距離を置くのと離別とは大きく違う。後者は、諦めてからでもいい。




