第5話
数時間後、まだ日が暮れる前には互いに気も晴れ、俺は少し笑う膝を堪えながら風呂に入っていた。
今日に限って阿久津が湯を張るなどというから、俺はいぶかしみながらも黙って従い、ユニットバスの浅い湯船に疲れた体を浸している。
しかし、いつもシャワーだけだったからか、慣れない入浴剤の匂いがする慣れない湯船は、どこか気恥ずかしい。
…まるで、小さなホテルにでも泊まっているかのような錯覚に陥ってしまう。
海の匂いがするアクアブルーの風呂のせいか、旅行のような雰囲気で。
「…馬鹿か」
そんな事を考える自分にそう吐き捨てて、俺は長く浸かっていた湯船から立ち上がる。
髪に湿り気を残すのみできちんと着替えて脱衣所を出ると、阿久津はジーンズとシャツを肩に羽織った状態で紫煙をふかしていた。
俺と目が合うと、煙草を灰皿に押し付けて立ち上がる。
「んじゃ、そろそろ行くか」
壁に掛けてある車のキーを手にしながらすれ違った阿久津に、俺はとっさに手を掛けて引き止めた。
「行くか、とはどういう事だ。送る気ならば、それはいらないと言っておこう。俺は必要ないし、お前にも今日は用事があるのだろう?」
じろりと睨み付けてそう言い放つと、阿久津は得意な人の悪い笑みを浮かべ、俺の手を軽くはずす。
「…良いじゃねーか。送ってやろうって言ってんだから、たまにゃ受けとけ。今からだと中途半端に時間が空くんだよ」
そう言って、先に玄関を出ようとする阿久津を、慌てて荷物だけもって追いかけると、すでに奴は隣の駐車場で車のドアを開けていた。
…しかも、まるでお付きの運転手の様に助手席のドアを。
そのままあの笑みを向けられ、俺は仕方なく奴が開けて待っている助手席に乗り込んだ。
ほどなく車は発進し、俺はいつものように阿久津へ注意を向ける。
「いつもの駅まで頼む」
「…ああ」
生返事を返しながら煙草を引き抜く阿久津を、俺は横目できつく睨み付けた。
「こんな篭ったところで煙草を吸うな。臭いが付く」
「気にすんなよ。親にはコーヒーショップで喫煙席近くだったからとでも言っておけばばれねぇだろ」
「…………」
まったく取り合わず煙草に火を付けるが、運転手に力ずくはさすがに出来ず、俺は窓を出来るだけ大きく開ける事で無言の抵抗とする。
「細かい事気にすんな。ハゲるか胃に穴が開くぜ。…ちっ、今日は込んでんな。掛かりそうだから、少し寝てろ」
無言でいる事をあまり好まない阿久津と、無意味な会話を嫌う俺とでは、こういった間が一番の気詰まりだ。
俺は、阿久津の薦め通りに黙って目を閉じた。
そのまま、本当に寝入ってしまったらしい。
まぁ、予定より早く起きた上に掃除と激しい運動をこなしたのだから、分からないでもないが、はっきり言ってかなり不覚だった。
眠りでもしなければ、こんな阿久津の悪巧みにも乗らなかったものを…と、悔やんでも後の祭り。
呼ばれて目を覚ますと、そこは俺の家の前だった。
すこしぼぅっとしていた頭はそれを認識すると瞬時に目覚め、阿久津を睨み付ける。
「なんでここなんだ!俺は、俺は…。それに、なぜお前が知って……」
「学生証って知ってるか、珪哉」
「!!」
「…お前、学生服ん時は必ず内ポケットに入れてんのな。しかもパーソナルデータ全部記入して。さすがに優等生だぜ」
己の不覚だった情報の出所に唇をかんだ俺に、阿久津は面白そうに目を細めた。
「ほら、降りろ。あまり見覚えの無い車がお前ん家の前に停まってんのも体裁悪いんだろうが」
阿久津にそう忠告されて、俺は即座に車から降りる。
家に駆け込もうと車を周り、丁度運転席を通り過ぎようとして…。
窓を開け、手を伸ばしていた阿久津に腕を捕らえられた。
「送ってもらったら、お礼くらいは言わねぇとな」
しゃあしゃあとそんな事を皮肉げに言われ、俺はその手を乱暴に振り払うと同時に低く怒りを込めた声で呟く。
「…すまなかったな」
そのまま踵を返そうとした俺に、阿久津は楽しそうに声を掛けてきた。
「お礼じゃねぇじゃねーか。ちゃんと「ありがとう」って言ってみな。…それが嫌なら、お礼のキスってヤツでもいいけどな」
相手にはしてられないと思った時はもう遅く、俺は阿久津を睨み付けてしまう。
そんな俺の視線に阿久津は肩をすくめながら、窓から体を乗り出して俺の頬に指を伸ばしてきた。
その指が俺の頬に触れる寸前、何かが阿久津の指を掴んで止める。
俺は、馬鹿になったかと思った。
その、目の前で阿久津の指を掴んでとめているのが一体何なのか、見ているのにわからなかったんだから。
顔のすぐ横から伸びているシャツの袖を逆に追って、自分よりも高い所にある顔に行き着いて…やっと、分かった。
「た、匡……」
固い声で呟いた俺に、匡は一瞬だけ目を向けると、すぐに阿久津へきつい眼差しを更に鋭くして睨み付ける。