第4話
次の日、俺は家中を駆け回る足音に起こされた。
10:30に来るという彼女のために、匡がでかい図体で家中を行ったり来りしているせいで。
「…おはよう」
そのせいで、もう少し寝ているか本でも読んでいようと思っていた土曜の朝に、俺はしっかりと着替えて廊下に出てしまっていたりする。
「お。早えーな、兄貴」
匡は、それがすべて部屋から出たのかと疑いたくなるほど詰まったゴミ袋を手に右往左往していたところで、俺は溜息を吐いた。
「匡。………手伝ってやるから、早くしろ」
「サンキュー、兄貴。ちっとも片付かないから困ってたんだよな。…えっと、ゴミを捨てたら……なんだっけ」
嬉しそうに俺の申し出を受け、嬉々としてゴミ袋を振り回す匡に、俺は複雑な嬉しさと理不尽な悔しさで心を分けながら、先に立って匡の部屋のドアを開ける。
「ゴミを片づけたら、散らばっているものを……ぅわっ」
後ろの匡を振り返りながら部屋に入り、前を向いたところで…俺はみっともなく声を上げて驚いてしまった。
「…そんな驚くことねぇだろ、兄貴…」
力無い呟きを背中に聞きながら、俺は阿久津のところよりももっと凄まじい惨状となっている部屋を呆然と見渡す。
「…こ、これを今日だけでどうにかしようとしていたのか!まったく…」
「あ、兄貴……」
ぼそりと呟いた俺に、匡は恐る恐るという風に声を掛けてきた。
すっかり怯えているらしい弟に、俺はキツイ一瞥をくれてから、強く怒鳴る。
「いいから!早く洗濯物を下に持っていって母さんに洗濯を頼んでこい!!それから、雑巾と掃除機、はたきも出してもらえ。いいな!」
…そして、3時間後の10:20。
俺はどうにか埃の溜まっていない部屋にまで片づけを取仕切り、彼女を迎えに行く匡を見送った。
「はぁ、どうにかなるもんだな。…まったく、あいつら二人が似ていると、良くぞ見破ったな、俺。こんな所までそっくりだ」
今やっと人心地がついた俺は、リビングでビターにいれたココアを飲んでいる。
まだ阿久津の言っていた時間には早く、家を出て時間をつぶしているには疲れてしまっているため、そろそろ出ないと匡の彼女に会ってしまいそうだというのに、まだ動きたくなかった。
しかし、25分になり、そろそろ部屋に篭ろうと腰を上げたそのとき。
「ただいまー」
「…おじゃまします」
匡と、家では聞きなれない女の子の高い声が聞こえてきて、俺は椅子の前でかたまった。
「でも、よく家の方分かったな」
「あ、うん。ほら、聞いてたから。駅のこっち側って」
「あんなとこで会うもんだから驚いたぜ」
「うふふ、ごめんね」
少し格好付けたような台詞に、これまたネコをかぶっているような女の台詞。
ドア越しに嫌でも聞こえてくる会話に、俺は唇を噛み締めて胸の痛みと焦げるような嫉妬心を堪えた。
「あ、ちょっと待ってろよ」
ドアの前で止まった足音に、締め付けられるような嫌な予感に襲われる。
しかし、どんなに探しても逃げ場すらなくて、ただ、ドアを睨み付けた。
「今日は兄貴がいるんだ。紹介しておく」
思わず顔がこわばるような台詞とともに、ドアが開き2人の姿が見える。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げた今の彼女は、前に一度見た最初のよりももう少し意志の強そうな目をしている美人だった。
俺は知られる前に顔の強張りをどうにか押し殺し、2人に歩み寄る。
「やぁ、いらっしゃい。匡の兄で、珪哉といいます。少し悪いところが目立つかもしれないけれど、弟とはよろしくしてやってほしいな。
…今日は少し出掛ける用事があってね、すぐで悪いけれど、失礼するよ。
匡、女の子なんだからあまり遅くまで引き止めるんじゃないぞ。…では」
目を細めて笑顔を作り、匡の顔も彼女の顔もまともに見返すことも出来ぬまま、俺はそれだけ言うのがやっとの状態でリビングから逃げ出した。
そのまま2階の自室に用意しておいた荷物を取ると、挨拶もそこそこに家を出てしまう。
11:00には目的の駅につき、駅前の時計で早すぎることを知った俺は、仕方なく近くの喫茶店に入り時間を潰すことにした。
…しかし一向に気分は晴れず、読むために持っていたはずの本は、延々と同じページを目で追うだけの紙にしかならない。
女の子を前にして態度の違う匡は、いつもより更に“男”を意識させた。
それが、彼女との関係を表しているようで…考えたくないのに、頭に浮かんでは俺自身を苦しめる親しげなツーショット。
胸に溜まるどす黒い感情に胸が溢れてしまいそうで、耐え切れずに顔を上げると、まだコーヒーが来てから10分も経ってはいなかった。
「……くっ」
忌々しさに知らず咽を鳴らす。
そのまま俺は、まだ熱いコーヒーを一息に干すと、伝票を持って立ち上がった。
慣れた道を強く歩き、阿久津のアパートへ乗り込む。
「阿久津、きたぞ」
声とともに2度のノック。…返事が無いのを確認し、俺はカバンから出した何の飾りも付いていない鍵を鍵穴に差し込んだ。
カチリと小さな音の後、当然ノブは何の抵抗も無くまわる。
「…そろそろ12:00だぞ。起きろ、阿久津」
「ん〜?なんだ、珪哉か……?」
相変わらず汚い部屋の中、ひょっとすると1ヶ月は干していないんじゃないかと疑いたくなるような布団の上、掛け布団を蹴散らした寝相で寝ている部屋の主が、寝ぼけきった声でそう話してきた。
「そうだっ。…おい、いいかげんに起きろ!」
ゴミを蹴散らし布団の傍に立った俺は、掛け布団を奪い焦れてそう声高に叫ぶ。
と、阿久津は1度固く目を閉じてから、そろそろと瞼を上げ、じろりと俺を睨んだ。
「…おい、珪哉。俺は昼過ぎでなければ許さねぇと言ったはずだがな」
「そろそろ昼だ。大差ないだろう。それに、俺は起きていろといったぞ。
部屋も片づけろ、とも言ったはずだが…ゴミすらそのままだな」
「ああ言えば、こう返す奴だな。…ったく、わかったよ。お前もぐだぐだ言うんじゃねーぞ」
頭をガシガシと掻きながら、阿久津は半裸の体を起こすと布団の上であぐらをかく。
そんなくだけた状態…しかも寝起きだというのに、阿久津は強い視線で俺を強い眼差しで射竦めた。
「…で?今回は何があった」
眼差しと同じ強い口調で、阿久津はそう俺の心を切り開こうとする。
俺は、その強さに倒れそうになりながらも、揺れそうな目を布団に下ろした。
「…別に。そんな事、知らなくとも良いだろう?俺たちの関係では必要のないことだ」
顔を逸らしたそのままで言い放つと、いきなりぐっと手を引かれて布団に倒れ込んでしまう。
「『昼間からコトに及ぶのは気に入らない』んじゃなかったのか?あのな、イライラしてるお前を相手にすると、俺の方が体もたねぇんだよ。
…で、何に苛ついてんだ」
淡々と語る口調でそう話した阿久津に、いたわるように頬を指の背でなぞられて、俺は不覚にも次の台詞を返せなかった。
「…やはり、ここだけは似ていないな。すぐに俺の事を当ててしまう所だけは。……年齢の差か、個性なのか…」
阿久津の、めったに見ない穏やかな台詞に動揺しながら、俺はそれでも匡に繋げてしまう自分を恨めしくおもう。
俺がこんな所で阿久津に動揺させられている原因だというのに!
ぽたり、と顎の下で音がした。
ふと見下ろすと、そこには丸い水の跡が。
「あれ?」
そして、俺はどうして阿久津が俺の頬をなぞるのか分かったのだ。
指は涙が残した道を辿ると、眦を拭って離れる。
「そうやって泣くから、離せねぇんだけどな」
「泣く気など無い」
優しげな…含むような台詞に即否定して、俺は乱暴に自分の目を拭った。
「泣く気など、無いんだ」
「泣かされてんだろうが。…匡とやらに」
「泣かされてなどいない。ストレスなだけだ。俺が勝手に想って、俺が勝手に想いを伝えないんだからな」
「…お前はわかりづらいタイプだが、一途すぎて分かるぞ。それを分かんないたぁ、無粋な相手だな」
「せめてウブだと言ってやってくれ」
「…へーへー。負けましたよ。……気も、少しは晴れたみてぇだしな」
「あ」
言われて、気付いた。
何も考えず話しているうちに、さっきまでのせっぱ詰まったような気持ちが薄れて、知らず、薄笑みまで浮かべていた事に。
…これだから、俺も阿久津以外にも気分転換の相手を探そうとしなくてすんでいるんだ。
「……あぁ、そのようだな」
「あー、助かった。今日はおごりで飲み会だってぇのに、キャンセルするようなザマになんなくてよ」
大声で半分本気のような台詞を吐いた後、阿久津は布団の上で頬杖を突くと俺を覗き込んできた。
「ヤるんだろ?服着たまんま寝そべってんじゃねーよ」
ん?と顎で俺の足元をしゃくると、一番上まで留めてあるボタンを器用にも片手で外しはじめた。
「お前には情緒もムードも関係無いな。まったく。…まあ、今日は時間も無いみたいだしな。言い出した俺が折れてやろう」
苦笑のまま横柄な物言いをわざと言い、俺は阿久津の手を止めさせると体を仰向けに直し、自ら服のボタンをはずしにかかった。