第3話
コンコン
そんな、考えれば沈む一方の考えに没頭していた俺を呼び戻したのは、元気の良いノックだった。
「兄貴、夕飯出来たってさっきから呼んでるぜ。寝ちまったのか?」
ドア越しに聞こえる匡の声に、俺はベッドからバッと飛び起きた。
「いや、起きている。すぐに行くから、先に食べていてくれ」
「わかった。冷めないうちに来いよな」
階段を降りていく足音を聞きながら、俺は急いで学生服から私服に着替えて部屋を出る。
廊下には、シチューのいい匂いが漂っていて、今日は激しい運動をこなしてから何も食べていなかった自分を自覚した。
食卓を3人で囲むのは、ほとんど家の決まりとなっている。
そこで色々なことを話し、会話を作るようにしているのだ。これは、男兄弟しかいないと会話が少なくなるのでは、と考えた母さんが決めた上杉家の規則。
遊び好きな匡も、夕食だけは家で食べているんだから、俺の知らないところではかなり徹底した教育がされているらしかった。
「あ、そうだ。明日、有紀が家に来るから」
と、匡は箸も止めずにそう一言だけ報告した。
その瞬間、俺は持っていた箸を茶碗にぶつけ、固い小さな音を立ててしまった。
「まあ、そうなの。じゃ、ちゃんと自分で部屋片づけるのよ。汚い部屋なんか見せたら、女の子には嫌がられるんだから。…珪哉は、何か予定あるの?」
何も気付かなかったらしい母さんにそう切り返されて、俺は僅かに迷う振りをして見せる。
「…そろそろ小テストが重なるから、図書館にでも行って勉強してくるよ。匡が家にいると騒がしいし」
「なんだよ、それ。そんなうるさくしねぇだろ?」
噛み付いてくる匡に苦笑を取り繕って、俺はまだ残っている皿を手に立ち上がった。
「…なにかしら音楽をかけるだろう?お前の好きなロックは、勉強には向かないんだよ」
「ちぇ、なんだよ。俺が彼女連れてくると、必ず兄貴いなくなるじゃねーか」
その、逃げ道も無いほど心臓を鷲掴む台詞に、皿を持っていた手に知らず力がこもる。
「そ、れは…じゃまになるだろう?俺がいると…」
「べつに、なんねーよ。兄貴があんまり家にいない方が、なんか変な感じだよ。兄貴、あんま出たがんねーじゃん」
「最近は図書館の方が効率良いんだ!…お、お前が、かまうことじゃない」
今日に限ってしつこく食い下がってくる匡の追求をそう振り払ってから、俺は自分が声を荒げてしまったことに気が付いた。
慌てて逃げ口上にもならない否定で匡を振り切り、俺は母さんに声を掛ける。
「ちょっと、買物してくる。…コンビニに、単語帳買いに行くだけだから」
気まずい雰囲気を察しているのか、母さんは何も聞かずに頷いてくれた。
俺は一気に冷たくなったその場の雰囲気に気付かぬ振りをして、2階に駆け上がる。
1分でも1秒でも早くこのイライラから逃れたくて、財布と半年前に買ったPHSを手にし、家を飛び出した。
そのまま一番近いコンビニまで走り続け、行き過ぎた角でやっと立ち止まる。
おさまらぬ息のままPHSを取り出し、指が覚えている番号を押した。
『もしもし』
数コールをもどかしく待つと、すぐにいつもより少し固い阿久津の声が耳に届く。
「阿久津、俺だ」
努めてさりげなく声を掛けると、それだけで合点がいったらしく、すぐに声が柔らかくなる。
『おう、どうした。気が変わって泊りに来るってんなら歓迎するぜ』
阿久津が電話の向こうでどんな表情をしているのかが考えなくとも浮かぶ、何処となく緩んだような声。
…仕方ない。俺から電話をするときは、必ず体の関係を求める用件だからな。
それでも、何故か阿久津の声を聞いて、自然に心が落ち着いてくるのが分かる。
「…馬鹿言うな。明日は暇か?」
それが分かっていながら、つい誤魔化そうとしてしまう。固い、口調。
互いにいつものことなので、阿久津は大して気にはしていないようだが、俺はこの関係にすら馴れ合えない自分に、少し苛立ちを感じる。
電話での、約束のとき。
『明日…か、土曜は飲み会が入ってるが…いいぜ。他でもないお前の頼みだからな』
「誰が頼んだ。…まあいい、ならば昼過ぎにそちらに着くようにする。いい加減、片づけておけよ」
『ふん、汚くても俺の部屋でしかしねぇくせに。必ず、来る前には色々言うんだからな。ま、いいぜ。ゴミくらいは捨てとく』
「それぐらい言われずともしてくれ。用件はそれだけだ。切るぞ」
『ああ。…いいか、昼より前にくるんじゃねぇぞ』
「分かっている。それでは」
プツッという音と共に回線の切れたPHSの電源を切り、俺はまた阿久津に頼るしかない自分を情けなく思いながら、踵を返してさっき過ぎたコンビニへ戻った。