第10話
手を振って別れた匡の背中を見送り、近くの参考書をいくつか見てみるが…自分がわかっても仕方ないことに気がついた。
どれもわかるように書いてはあるけれど、少し悩んで基礎位がいいかと幾つか見比べてみる。
教科書分すべてを掲載しているものは今回避けて、例題を多く載せているもの、説明文が簡単に済まされていないものをいくつかピックアップして、時計を見ると別れてから30分が経過していた。
手元に残した3冊の参考書を見下ろして、その間ずっとアイツのことを考えていたんだと思い、ふと気恥ずかしくなった。
隠すことばかり、無くすことばかりに執心していた最近では、こんな風に自然にあいつの事を考えることはなくなっていたから。
物が参考書では色っぽくなりようもないが、相手のことだけ考えて物を選ぶというのは、それだけで結構幸せな時間なんだなと、 胸の中と同様に少し温もりを増した頬に指の背で触れ、そのちょっとした満足感に緩む自分をほんの少しだけ許し、すぐに自分へ渇を入れ、そろそろ待ちくたびれただろう匡を呼びに歩き出した。
少し離れた広い雑誌コーナーを覗くと、いると思ったコミックの棚では見つからず、2列向こうのバイクや車の棚の前で俯いている大きな背中を見つけた。
「匡」
声をかけるとすぐに顔を上げて左右を見渡す姿に、笑みを誘われる。
すぐに後ろを振り返った匡へ手を振ると、慌てた様子で読んでいた雑誌を閉じて平積みの山へ雑誌を戻した。
歩み寄りながら、ちらりとその雑誌へ目を向ける。
読んでいたのは、車関係か…。最近はそういうのに興味あるんだな。
「兄貴、もう決まったのか?」
そんな気の早い匡の言葉を聞いて、思わず苦笑が口の端から漏れた。
「何言ってるんだ。決めるのはお前だぞ。一応3冊見繕ってみたから、あとは好みで選んでくれ」
「えぇ〜」と不満そうな声を上げて、げんなりとした表情を隠さない匡を軽く睨むと、少し唇を尖らせた子供じみたアピール。
笑ってしまいそうな顔を背けついでに、先に立って背を向けたとき。
「あれ?匡じゃんか。珍しいとこで会うな!」
俺とは反対側から元気な声がかけられて、匡が振り返った。
「マサかよ。なんだお前こそ珍しいじゃねえか」
返した声がとても親しげで、俺は匡の背中に反射的に隠れてしまった。
相手は気づかずに匡に近寄り、話しかけている。
「おれは漫画買いに来たんだ。今日コミックスの発売日だからさ〜。ん?どした?…お、彼女連れか?」
相手が不意にそう口にして、おれは覗き込もうとした体をこわばらせた。
匡の背中も、少しこわばったように見える。
「…ちげーよ」
少し憮然とした声で短く返すと、マサと呼ばれた相手は、えぇ〜と声をあげてさらに食い下がった。
「なんだよ。週末デートって言ってたじゃねーか。まったく、お前は良いよな〜彼女とっかえひっかえできてー」
「してねぇよ!人聞き悪いこといってんじゃねーよ」
「はは、わりーわりー。あ、匡も読んでたよな、アレ。ほら警備隊のシリーズのやつ。最新刊今日だぜ。読むか?」
「ああ、次まわしてくれよ。…つかホントやめてくれよな。俺、毎回振られる方なのにさ。人聞き悪ぃっていうか…」
え?と後姿を見上げた。
何回か彼女が変わっているのは知っていたけれど、そのことで口を出すのは自殺行為だとわかっていたから、話したりはしなかった。
だから、詳しいことは何もしらなかったけれど。
匡を振るような女性がほかにも居たなんて…信じられないし、なんだか心臓の辺りがモヤモヤと重苦しくなる。
「そうなん?お前いっつも堪えてねーみたいだから、てっきり振ってんのかと思ってた」
「あー、もうこの話題やめようぜ。今日一人じゃねぇんだよ」
「え?誰だよ」
ひょいと匡の肩越しに覗き込まれて、初めて見る匡の友達…らしいその人物に、慌てて小さく会釈する。
目を見開いてじっと見ながらも会釈を返してくれたマサは、そのまま顔を匡に向けた。
「…誰?」
「俺の兄貴。兄貴、こいつ飯野っつって部のトモダチ」
「あ、そうなんだ。…はじめまして。匡の兄で、珪哉です」
「あぁ!噂のおにーさんなんだ!はじめまして。おれ、飯野雅史です!…いやー。ほんと似てねぇ。すげぇ。噂聞いてたとおりなんだな〜」
「噂?」
初めて聞くその話に首をかしげ、話を促す為に匡を見上げると、こっちを見ていた目と視線が合った途端、匡は口を歪めて視線を天井にさまよわせた。
おいておかれた俺は、仕方なく楽しそうにこちらを見ている飯野くんに向き直った。
「…あの、飯野君。噂って…俺の?」
「はい!匡の中学からの同級生が上杉兄のファンだとかで、綺麗で立ち振る舞いから何から優等生然としているんだけど嫌味がなくってステキ〜!とかって言ってたんですけど、匡が『兄貴はそういう風に騒がれるの嫌うから』つって誰にも紹介しようとしないんで、なんか噂ばっかり聞くんですけどね。でも、実際あんま誇張されてねーとこが怖いっつーか…」
「飯野、もう良いだろ。他校の噂なんか聞かせても仕方ねーし」
遮るように、匡がいきなり飯野くんの顔の前に手を翳して話を止めた。
たしかに、かなり気恥ずかしい話ではあるけれど、匡の学校のことを聞くのは少し楽しかったのに…と背中を見上げると、髪の間にほの紅い耳朶が見えた。
それに気付いて、つられたように急に気恥ずかしさが頬をほてらせる。
「何だよ。女子に人気ったら誰だって嬉しいだろ!…あ、でもお兄さん位だと自分の学校でもモテて困るとか?」
「…や、そんなことはないけれど…。でも驚いたな。自分の学校でもないのにそんな、噂なんて…」
「同じ中学から来てる奴多いですからね。お兄さんあっちでしょ?県立の進学校の」
「そう。もしかして、それも噂で?」
ほぼ確実だろう指摘をいれると、飯野くんは胸をはって力強く頷いた。
「ばっちり入ってますよ。生徒会役員してることとか、全国で30位に入る秀才とか。…運動は人並みとかね。いや〜女子の情報収集力にはホント驚かされますよねぇ」
屈託ない話し方をする飯野君には親しみがもてるけれど、話している間、匡が不機嫌な顔でため息をついているのが横目に見えて、おれは正直早くこの話題から離れたい気持ちでいっぱいだった。
「…マサ、もう良いだろ。今日は参考書探しに来たんだよ」
焦れた匡が先にそう促すと、飯野くんは大袈裟にのけ反って匡にすがりつく。
「え〜っ!お前が?!なんだよ〜期末対策か?お前も俺と一緒で体力バカ派じゃねーかよ〜。抜け駆けは許さん!あ、ひょっとして、お兄さんが選んでくれるんですか?いいな〜。俺も一緒に行っていいっすか?」
俺に向かって両手の指を組んで頼んで来る姿に戸惑うと、匡が横から飯野くんを小突いた。
「そんなんじゃねぇよ。…兄貴、わりいけど先帰ってくれ。参考書は今度自分でさがすから」
そういわれて、ふっと体からなにかが抜けた。
「…ああ、わかった。あまり遅くなるなよ。…飯野君、よかったら今度家に遊びに来てくれよ」
「うわ!ほんとですか!?ぜひ!あ、俺ことマサって呼んでくださいよ!」
「誰が呼ぶか。ほら行くぞ」
そう言って、匡は飯野君を引きずるようにして連れ出す。
「それじゃ、お兄さんまた今度ぜひ一緒に〜!」
「しつこいぞ!ほら漫画買うんだろ早く行くぞ」
取り残されて、暫くその場で立ち尽くす。
別に、高校の友達の方が大切だってことはわかるし、休日に兄弟とでかけるのを見られるのは恥ずかしいんだってこともわかるれど…なんだか、おいていかれたそのことが不思議なくらいショックで、離れた背中が見えなくなっても暫く立ち尽くしていた。