1話「猫柳翼」
戦争で互いの国力を削る行為は、まさに愚の骨頂である。このままでは、人類が同族ではない脅威――“別種族”との敵対に直面した際に、敗北に帰することは明白である。
そのため私は、ここに新たな次世代型戦争の形として、仮想空間〈アナザーワールド〉での戦闘を提案する。
これは〈アナザーワールド〉の発案者である、某国の大統領の言葉である。
この提案と、夢物語のような仮想空間の実現に、世界中の人々が驚愕し、そして歓喜した。戦争は仮想空間に押し込められ、現実世界には平和が戻ったのだ、と。
戦争という重荷を一手に背負った仮想空間〈アナザーワールド〉には、背負ったものの危険性から、厳しいルールが定められた。
・独立を認められていることを条件に、いかなる国でもアナザーワールドへの参加権を有する。
・アナザーワールドのシステムへの不正介入は重罪である。発見次第、全ての核所有国から該当国に向けてミサイルを発射する。
・一度にアナザーワールドへのダイブを許可する人数は、各国それぞれ三百人である。
・アナザーワールドにおいての死は、すなわち現実世界の死を意味する。
・アナザーワールド内に犯罪の概念はないものとする。
・〈異形〉を戦闘員として登録することを許可する。
・三百六十四日二十四時間、いかなる場所での戦闘行為の一切を許可する。
・十二月二十五日はクリスマス休戦として、戦闘行為の一切を禁止する。
・〈トリックスター〉は発見次第、速やかに処分せよ。
これは俺自身、中学校の社会科で全て暗記させられたものだ。
よし、大丈夫。完璧に覚えてる。
……だが、今の俺とって、このルールは全く関係ないものだ。何故ならこれは、入学テスト用の模擬戦闘。戦争ではない。戦争ではないが、俺はこの対人テストで負ける気は毛頭ない。
「にしても、眩しいな」
ふと歩みを止めて、空を仰いだ。雲一つない、目に痛いほどの晴天だ。そしてその蒼穹の下には、瑞々しい緑の草原がただただ広がっている。俺が転送されてきたテストフィールドは、蒼と緑の二色で構成された大草原だった。草と土の匂いが風に乗ってふわりふわりと鼻腔を擽る。
先程からずっと歩き続けているのだが、風景は何一つ変わらない上に、自分以外に人間の存在を感じない。
ここ、高将院の入学テストは、対人形式である。一対一で対戦し、勝者は入学でき、敗者はその場で不合格。この学校の受験資格を永久に失う。
ところがテストフィールドを探索すること約十分。もう一人の受験者に遭遇する気配は皆無である。満ち溢れていたテスト開始時の高揚感も、今ではすっかり落ち着いてしまった。
思わず草の絨毯の上に背中からダイブし、寝転がる。リアリティのある感触は気持ちが良い。
『テスト中に寝転がるなんて、兄さん気を抜きすぎだよ。万が一何かあったらどうするの?』
昔から成績優秀な優等生だった弟の淳が脳内にぴょこんと現れて、真剣な顔で忠告する。
うん、わかってるんだけど……風景変わらないし誰もいないし、暇すぎて。
『翔ってば肝心なときにいつもぼーっとしちゃって……もう、これだから放っとけないのよね』
実家の隣の家に住んでいる幼馴染も現れて、苦笑まじりに小突いてきた。
ああ、こんな妄想劇場を繰り広げるなんて、俺は相当この空間に飽きてしまっているらしい。
「あー、疲れた。いい加減現実世界に戻りた……!?」
刹那、草と土以外の何かの匂いが鼻腔を掠った。
条件反射で横に転がり、反動で起き上がった。背後でザクリ、と草に何かが突き刺さる音がする。
距離を取りつつ振り返ると、地面にぐっさりと刺さる刀を引き抜いていた彼女は、にやりと笑んだ。そこに立っていたのは、都内の私立中学の女子制服を纏う受験者。俺の対戦相手だった。
人工物の太陽光を浴びて、少女の小太刀は鋭く光っている。
「あれ、避けられちゃった。テスト中にお昼寝するような注意力散漫くんなんて、すぐに仕留められると思ったのになあ」
十五分ぶりに聞いた自分以外の声は、アニメ声とでも形容するような、特徴的な声だった。だが、アニメに声を吹き込むには、いささか好戦的すぎると言えるだろう。
「それともあれかな。貴方、自分が強いって奢り高ぶってる人種? あはっ、いいねえ。そういう勘違いさんのプライドを踏み躙るのって、あたしだーいすきっ」
言葉の端々から感じて取れる敵意が、俺の身体中を苛む。釣り気味の大きな目が俺を捉え、まるで獲物を定めるかのようにロックオンした。
そうかと思えば俊敏な動きで斬りかかってくる。独特の間合いに危うく呑まれそうになったが、ギリギリのところで身体を反らしてそれを躱した。
どうやら俺の対戦相手は、とんでもない化け物らしかった。
「っ、あっぶな……」
「あーあ、また逃げるわけ?」
今のは危なかったと冷や汗を拭う。あと一瞬遅かった俺の身体はざっくりといっていただろう。いくら仮想空間内で身体の損傷はないとはいえ、痛覚はある。どれほどの痛みかは考えたくもない。
一方、彼女はというと戦意こそ失ってはいないのだが、これ見よがしにつまらなそうな溜息をついた。
「話になんないなあ。なんでちょろちょろ逃げるわけ? これだったらネズミの方がまだ利口だよ」
「……手厳しいね」
「貴方がつまらないのがいけないんだよ。あーあ、高将院の入学テストだから、もっとマシな相手と戦えると思ったのに。……まあいいや。入学すればもうちょっと手応えある奴と戦えるよね。ほら、さっさ殺してあげるからそこに突っ立ってなよ」
言いたい放題された挙句、小太刀を向けられる。
“入学すれば”。自分の勝利を決定事項として疑わないその言葉。……俺は完全に、舐められている。
俺の中で、カチッと音を立ててスイッチが起動する。キタ。
勝利を信じきって小太刀を構える少女に、俺の高揚感は再び舞い戻ってきた。
もう一人の俺が言う――もう時間だ、入れ替われ。俺がやってやる。
少女の双眸と視線が交わった。快感とすら言える緊張感。ビリビリとスパークを起こしたかのように全身が痺れて熱くなる。
自分が強いと奢り高ぶっている人間?それは他の誰でもない、目の前にいるこの少女のことだ。俺が尊厳も何もかも、跡形なくぐちゃぐちゃにしてやるよ。
「殺されるのは、どっちだろうな」
「……あれ?」
ぼそりと呟くと、彼女は俺の変化に目敏く気付いたらしい。一定の距離を保ちつつ注意深く俺を観察し、首を傾げた。
「雰囲気が、変わった?」
雰囲気どころか別人格だ。俺が表に出ている間は、女子供であろうと容赦はしない。もう一人の俺は肝心なところでいつも詰めがなっていなくて、不要な甘さばかりを持ち合わせている。俺は同情も憐憫も持たない。
そんな意味を含めて、少女に初めて俺の方から仕掛けた。一気に間合いを詰め、剣を弾き飛ばすつもりで少女の右手に重い蹴りを入れる。
「いっ……たいなあ、もうっ!」
蹴りはヒットしたものの、得物を奪うまでは及ばない。彼女は手を握ったり開いたりして感覚を確かめていた。
痛みを感じているようだが……彼女の目は、まるで幼い少女が人形を与えられた時のように、輝き始めていた。
「あはっ……貴方、強いんだね」
浮かんでいる表情は、恍惚。
「いいねえ、すっごくいい。久々に楽しい相手に会えて嬉しいなあ」
「楽しいなんて随分と余裕だな」
「そりゃそうだよ。戦うのは楽しむため。楽しくない戦いなんて、価値がないよ」
「負けたら永久に入学権を失うっていうこの状況でもか?」
「うん。だってあたし、負けないし。ねえ、あたしは猫柳翼っていうんだ。貴方は?」
「……随分と突然な自己紹介だな」
「貴方だって、自分を負かした相手の名前ぐらい、知っておきたいでしょう? それにほら。名乗っておいて名乗らせないのもどうかと思って。ね?」
当然とばかりに言い放つ少女に、俺は笑った。自分でも相当、悪どい顔をしていると思う。彼女は俺の前に膝をつくことになったとき、一体どんな表情で俺を見上げるのだろう。
「雪村翔だ」
「ユキムラカケルね。ねえ翔、あたしの話聞いてよ」
戦闘態勢で殺気を垂れ流したまま、自分語りを始めようとする少女はまさに異様だ。その異様さに、俺はぞくぞくさせられっぱなしだった。
「あたしは知恵の輪、好きなんだよね。だって綺麗でしょ? はっきりとした答えを持ってる。それに比べて人間は、曖昧ではっきりしなくて不明瞭で! しかも簡単に行動が予測できてしまう。だから人間はつまらない。情だの絆だの愛だのって、馬っ鹿みたい! そんな不自由になるだけで面白くもないものに、何の意味と価値があるっていうの!?」
まるで誰かに話しかけるかのように、虚空に向かって激昂するその姿は、一言で言い表すなら異常だった。
怒鳴り散らしてだいぶ落ち着いたのか、彼女は笑顔を取り戻して首を傾げる。
「……その点、知恵の輪はいいよ。やってて飽きないし、脳を使うのも楽しいからね。貴方もそんな風に思ったこと、あるでしょ?」
本気で同意を求めている問いだった。だから俺も適当な応酬ではなく、本気の回答で返した。
「予想が容易いのは、知恵の輪の方だろう。数パターンしかない無機物の玩具と人間は違う。時に予想を遥かに飛び越えていくのが人間だとは思わないか」
彼女は同意を得られなかったことに不満げに眉を顰めた。彼女の心の中で、俺はその、醜い人間というカテゴリに追加しているのだろうか。子供のような無邪気な反応が、手に握られた青光りする刃に似合わず、アンバラスで奇妙だ。
「あーあ、結局貴方もあたしを否定するんだ」
不貞腐れた少女が、何故だろう。一瞬だけ迷子の子供のように見えた。
「逆に聞くけどさ、じゃあ翔は何が好きなわけ?」
「別に答えてもいいけど、意味はないだろう。お前は忘れる」
「どうして?」
「忘れるからだ」
「忘れないって!」
むっとする少女に、不敵な笑みで答えてやった。
「いいや、忘れる。何故なら、記憶が飛ぶくらい完膚なきまでにお前を叩きのめして、俺が勝つからだ」
断言すると少女はきょとんと目を丸くさせ、それからにぃ、と口角を吊り上げた。
「なるほど……いいねえ、すっごくいい。あたし貴方と対戦できて超ラッキー」
「アンラッキーの間違いだ。残念だったな、俺と当たったばかりにお前はこの学校を去ることになる」
「はっ。言うじゃない翔」
少女の刀の切っ先の直線上には俺の喉仏がある。少女の二つに結わえられた髪を、吹き抜いけてきた一際強い風が、ばさばさと乱した。
「もう一回言ってあげるよ、あたしの名前は猫柳翼。これが貴方を負かす人間の名前ね」
「お前の記憶が飛ぶ前にもう一度言っておく。俺は雪村翔だ。数時間後には忘れてるだろうがな」
どちらからともなく駆け出し、俺と猫柳はゼロ距離でぶつかり合った。