羊になりたかった少女。
少女は、羊になりたかった。
多くの羊を手にかけ、それらの皮を身に纏ったが、
纏うたびに自分は羊から遠ざかっていく気がした。
そして少女は気づく。
ワタシは羊にはなれないんだ、と。
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ある山中の、ある羊飼いの家。
父、母、兄、そして妹である少女の四人家族が、その家に住んでいた。
羊飼いとは、羊を保護し飼育し放牧する労働者である。飼育する目的は、羊の乳・肉、そして羊毛を得ること。上質な羊の乳で作ったチーズ、上質な羊の肉、上質な羊の毛。それらは高値で取引される。羊飼いは、質の高い羊を多く育てる。その中で、解体して売りに出す羊や、乳を絞る羊、子供を産ませる羊を選んでいく。その仕事は、絶妙なバランスで行われる。売り出すものを作らねば、金が手に入らない。しかし、売り出しすぎて次の羊を育てられなければ、これまた金は手に入らない。安定した収入を得るためには、羊を知り、羊と共に生き、羊に愛を持たねばならない。自分たちの生命線が、この羊の群れなのだと理解し、そこに愛情を注いで育て上げ、最後には何の感慨もなく金に換える。それが、羊飼いの仕事だ。
この家族も、その羊飼いに当てはまる。生きていくためには、羊をより上質かつより多く育てる必要がある。そのために、父も母も兄も、羊に愛を込めた。しかし、生まれてまだ8年の少女にとって、それは不可能だった。
この家族、父と母は40歳目前、兄は14歳。三人とも、羊に愛を注ぎ続ける生活を送る。一方で、8歳の少女だけが言われるがまま、何の感情もなく羊を育てる毎日を送っている。
何故、少女は愛を注げないのか。それは、愛を知らないからだ。
少女は物心ついた頃から、羊の飼育を手伝わされていた。少女に、自由な時間はなかった。朝から晩まで羊の世話。羊の数を数え、羊に散歩をさせ、羊の小屋を掃除し、また羊を小屋に戻す日々。
まだ小さい少女は、失敗を犯す。それは、仕方ないことだ。父も母も、承知している。だから、二人は少女を創ったのだ。兄だけでは足りぬ人手を増やすために、子作りをし、少女が生まれた。幼いうちから仕込めば、早い段階で使い物になる。そう思って、父も母も少女を育てる。だから、少女が失敗しても叱りはしない。ただ、こう言うのだ。
――――もっと、羊を愛するんだ。この羊がいるから、私たちは生きているんだ。
その言葉は、まさに呪いだ。
羊を愛さなければ、生きてはいけない。それは、ある意味羊飼いの到達点だ。自分の全てをかけて羊を育てることを意味するのだから。現に、その心理に到達したこの家族は妹が生まれる前から今まで、上質な羊を育て続けている。
故に、父も母も、そして、兄も呪いの言葉を口にする。
羊を愛せ。
羊と共に生きろ、と。
だが、少女は未だ、呪いには染まっていなかった。
なぜなら、少女は愛を知らない。家族から愛を貰わなかった少女は、愛と言うものを実感できない。漠然と、自分以外の家族が羊に対して行っていることが愛と言うものなのだろうと、想像することしかできないでいる。
それが、ある意味彼女の救いだった。羊飼いの到達点へ至ることはない。呪いに染まることもない。愛は知らないが、それ以外は他の家族よりもよっぽど普通な人間に近い位置にいる。しかし、少女が救われていたのはこの先4年後までである。愛を知らない少女は、羊飼いの呪いに染まるよりも、もっと恐ろしいものへと成り果てる道を辿る事となる。
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少女が12歳となって暫く経ったある日。父が少女言う。
「町の市場に用がある。お前もついてくるか?」
「……うん」
父の言葉に対して少女が返した言葉はそれだけだった。
少女は、生まれて初めて市場へ行く。いや、正確には山を降りること事態が初めてである。
羊飼いは基本的に、硬い牧草の生えた山岳地帯で羊を育てる。そこは、麓の町とは隔絶された一個の世界。羊を飼うためだけの場所であり、羊を飼うものだけが住める世界。羊飼いが下山するのは基本的に、日用品の買出しと市場へ羊を売りに行くときの二つだけだ。月に片手で数える程度しか、下山することはない。
父は、少女に町へ降りる方法と市場の様子、そして買い物を経験させるために、同行を求めた。将来、羊飼いをする上では必要な知識だからだ。
対する少女は、何の感情も沸かなかった。ただ、自分が知らない場所へ連れて行かれる。その程度にしか、思っていなかった。
父と少女は下山をした。
午前中に山を下り始めて、現在はお昼過ぎ。4時間程歩いたことになる。
「そら。あれが町だ」
父の言葉に少女は目を見開く。少女の視界に映るのは、自分の家なんかよりももっと立派な家の数々。そして、大勢の人、人、人――――。
思わず少女は、父の手を握った。少女の手は、震えている。
「どうした? 別に怖いものなどないだろう?」
父は不思議そうに少女を見下ろしながら、自分の手を握る彼女の手を引き、歩を進めた。
少女は、町についてからびくびくと振るえ、身を縮ませながらも、なんとか父についていく。ただ、目に映るもの全てが真新しいもので、視線だけはキョロキョロとあらゆる方向を彷徨う。暫くして、父の歩みが止まる。
「市場の人と話をしてくる。ここで待っていろ」
少女は頷き、町の噴水広場にあったベンチに腰を下ろす。市場へ向かう父の背中が遠ざかり、少女の視界から消えるまで、見つめ続けた。
父が見えなくなり、少女は周りを見渡すことを再開した。その中で、一つ、目を引く光景があった。
「父さん! あれ買って!」
「うーん。まあ、いいか」
「やったー!」
はしゃぐ子供と、その父親の様子だ。買い物をしている最中に、子供が欲しい物を強請り、父が仕方なく購入を決めたところだ。その光景を見た少女の近くから、ふいにこんな声が聞こえる。
「あの親父は、ホント子供に甘いよな」
「仕方ないさ。あの親父は、子供のことを愛しすぎてるからな。子供の願いなら、何でも叶えたくなっちまうんだよ」
――――愛すると、願いを叶えたくなる?
それが、少女が純粋に抱いた疑問だった。
――――愛してもらえれば、願いが叶うなら、私はどうなんだろう?
「でも、あれは生きすぎだよなー。まあ、家族が愛し合ってるのは普通だとしてもさ」
――――家族は、愛し合っているもの?
少女は、愛が分からない。しかし、町の人の言葉を聞く限り、家族とは愛しているのが普通である。では、父、母、兄を持つ少女もまた家族であるため、愛されているのか。
少女は、愛されている自分を想像してみる。愛が分からない少女は、先ほど、物を強請って買ってもらった子供を自分に重ね、それを買ってくれる父を頭の中で幻視した。
「どうした? ずっとあっちを向いて」
気づけば少女の横には父が帰って来ていて、少女へそう言っていた。
少女は意を決して、愛されている自分を期待して、父に尋ねる。
「お父さん。私、あれが欲しい」
「ああ?」
少女が指差す先には、先ほど子供が強請った、お菓子の屋台がある。どんなお菓子かまでは、父も少女も、その距離からは分からない。
少女はただ、真似をしただけだ。先ほどの子供のように、愛されてみたくて。
しかし、父から返ってきた言葉は
「帰るぞ。お前に買ってやれる金なんかあるもんか」
素っ気無い一言だった。父はその言葉の後、少女の手を引いて歩き出す。
「……え」
「ほら、行くぞ。買い物を済ませて、早いとこ帰らないと夜の山を歩くことになる」
少女の顔を見ることもなく、娘に父は語る。
だが、少女にはその言葉は聞こえない。
父のその一言で、自分に愛は注がれていないと思ってしまった。
そして、羊のことを考えて、
――――羊は愛されていて、いいな。
そう、思ってしまったのだ。
===
少女は自分への愛がないと知った日から、羊の世話を真面目にできなくなった。
「なにやってるんだ!」
父と母、そして兄に怒鳴られる日々が続く。
そんな日々を嫌だと感じているが、少女は羊の世話をすることができなかった。
少女の家族は、羊に愛を注げという。
しかし、少女は羊に愛を注がない。
だが、それは仕方ないことだ。
愛とは循環するものだ。
誰かが愛を送ることで、送られた人は愛を知ることができる。
そして、その愛をまた誰かに送ることができる。それが、愛の循環だ。
しかし、この少女は愛を与えられていない。故に、羊に送る愛がないのだ。
さらに少女は、羊に別の感情を抱いている。
それは、嫉妬だ。
自分には注がれることのない愛情が、血のつながっているわけでもなく、人間でもない生き物に注がれていることが、とにかく嫌だったのだ。
羊を育てなくなり始めた少女を見て父は、どうしてこうなってしまったのかと頭を抱えた。母も、兄も、少女が羊に愛を与えない理由が分からない。少女以外の家族は、羊に愛を与える日々が当たり前になりすぎて、少女の心を理解できない。知ろうという努力も、羊の世話が忙しいという理由で行われない。
だから、母がある行動を起こした。
ある日少女は、羊毛のコートを貰った。冬の寒い日が続く中で、作業を滞らせないためと、ご機嫌取りのつもりで母が送ったものだが、このとき父が、
「何だか羊みたいでいいな」
少女の頭を撫でながら、いつもより優しい声で言った。
母も父の言葉にのっかって、「あら本当」と言った。
これが、父が少女に対して分かりやすい愛情を注いだ瞬間だ。
これが、母から少女へ送られた初めてのプレゼントだった。
そして、少女は二人の行動が、自分に愛が注ぐ好意だと理解した瞬間に、誤認した。
――――ああ。羊になれば、愛をくれるんだ。
これが、少女が羊になろうと思った瞬間だった。
===
――――羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹。
少女はゆらりゆらりと船を漕ぐような、ゆったりとした足取りで羊に近づく。
これは、少女が最近気づいたことだ。羊を狩るなら、策を弄して追いかけるよりも、無心で近づくほうが向こうも逃げやしない、と。
少女の目の前で『めーめー』と鳴き声をあげる羊たち。今日も少女は、羊を狩る。その手に持った、少女が持つには似つかわしくない大きな鎌を両の手で握り締め、振り下ろす。羊の鳴き声が、大きな悲鳴へと変わる。断末魔もかくやというほどの絶叫。三匹の羊のうち、鎌の標的にならなかった二匹の羊が逃げようと踵を返したそのとき、少女が振り払った第二刃が羊達を切り裂いた。
「ごめんなさい」
鎌についた血を落とすこともなく、少女は絶命した羊にそう伝えた。
少女は羊の皮を刈り取る。
羊の皮を身に纏い、自身が羊になるために。
羊になれば、もっと愛してくれるに違いないと。もっと良い羊になれれば、羊を愛した家族が帰ってくるに違いないと、彼女はそう確信している。
羊の皮を刈り取った彼女は、いつか家族に愛される日がくると、家族の下に帰れると信じて、今日も羊を狩る日々を過ごす。
家族のいる家とは、まったく別の山岳地帯で。