転生する、その重み
「……あ、う……」
奈緒は自分がここにいることの意味を、知ってしまった。気づいてしまった。
奈緒がここにいる、ここに存在している、ということは、誰かがいないということ。誰かが存在しないということ。
「どうしたの? クリア」
「あ、ああ……」
真登香が名前を呼ぶ。けれど、それは生前慣れ親しんだ自分の名前ではなく……どこの誰とも知らない、誰かの名前。自分が乗っ取った、誰かの名前。
「あ……う……」
「顔色悪いよ? 大丈夫?」
大丈夫。奈緒はそう言おうとしたが、自分がここにいるということの意味が重すぎて、全身が凍ったように動かなかった。
「……本当に大丈夫?」
「……」
ついに、奈緒はその場にへたりこんでしまった。力を急に抜いたので、お尻を床にぶつけてしまった。けれど、全然痛くない。『クリア』の身体が、軽すぎるのだ。軽すぎる体、力強い体、全く知らない友達。それらは奈緒が今存在している『クリア』の体が『他人の物』だということを、否が応でも認識させる。すさまじい後悔の念が彼女の意識を包む。
「……わ、わた、私は……」
私は、『クリア』を乗っ取った? ……いや、殺した?
奈緒は自分の手のひらを見つめた。綺麗な、白い指だ。……でも、これは他人の物だ。奈緒が『奪い取った』ものだ。血は一滴たりとも流れていない。けれど、奈緒は確かに、自分が殺人者になったのだと自覚した。
「本当に大丈夫……? クリア、今日ちょっとおかしいよ? いつもと違う……」
「……!」
奈緒はたまらなくなって、とにかく真登香の目から逃れようとかけだした。
「え、ちょっと、クリア!? もう授業始まるよ!?」
「……!」
逃げようと教室から出ようとした奈緒だったが、出入り口のところで誰かにぶつかった。
「あ、ご、ごめんなさい……」
誰にぶつかったか確認する前に、奈緒は教室の外に出ようとした。とにかく、今はこの教室……『クリア』の友達がいる場所から離れたかったのである。
「……待ちなさい」
「ひっ」
泣きながら教室を出ていこうとする生徒に向けた気遣いも、今の奈緒には咎めだてするようにしか聞こえない。
「……泣きながらどこへ行くの? ……それに、もう授業が始まるわ。何かあったというのなら、話を聞くけれど」
「え……あ……」
ずいぶんと優しげな声に、奈緒は顔を上げた。眼鏡をかけ、白衣を纏った妙齢の女性。教育機関にいる大人の身分は、そう多くない。
「……そんな怯えた顔をしないで。それも演技? それとも、本心?」
「あ、あなた、は……」
いつくしむような表情を向けられて、奈緒は少しだけ、ほんの少しだけ安心した。
「私? あなたの担任よ。忘れた? それとも、この学園一の魔法使いには、教師の名前は覚えるに値しないって?」
「ち、ちが、ちがい……」
すっとからかうように細められた目の意味も、奈緒には恐怖の対象だ。震えながら、後ずさる。
「……様子が変ね。……クリアさん、何か変なものでも取り込んだ?」
「!?」
担任の言葉に、奈緒は雷にうたれたように動かなくなった。
「……やれやれ。いつものこととはいえ、いちいちひやひやさせられるこっちの身にもなってね。『浮遊――フロート――』」
担任が指を杖のようにして振るうと、固まっている奈緒の身体が浮いた。そのまま担任は指を動かし、窓際の席に座らせる。ここが、奈緒の――『クリア』の席なのだろう。
「はい、授業始めるわよ! 今日もみんな、クリアさんに負けないよう、頑張ってね」
教室の一番前にある教卓に立つと、担任は当たり前のようにそう言った。
「……え」
「どうかしたの、クリアさん?」
驚いて声をあげた奈緒に、担任がすかさず聞く。彼女は『クリア』の演技はいつものことだと思っているが、泣きながら教室を飛び出そうとしたのには何か理由があると考えていたのだ。それを聞くきっかけをつかむため、彼女は『クリア』の動向には注意していた。
「な、あ、なんでも、ない、です……」
「……ふうん。今度は清純派おどおど系? また魔法の知識を一から教えないといけないの? ……全く、からかうのもほどほどにしてね?」
「え、あ、え……?」
奈緒は担任が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。『また魔法の知識を一から』? どういうこと? 奈緒は疑問を浮かべる。さっきまで、担任は『クリアに負けないように』と言った。それなのに、『魔法を一から』。まるで矛盾している。けれど、担任も、他のクラスメイトも、そのことにまるで驚いた様子はない。
――もしかして、もう、バレてる?
ぞわり、と奈緒の肌が逆立った。彼女の脳裏に、朝に見た小冊子の内容が思い浮かぶ。
――異世界から来たことは、悟られてはならない――
もし、ばれたらどうなるのだろう?
奈緒はなぜか、それが想像できなかった。嫌な予感はするが、具体的に何をされるのかを想像しようとすると、頭が霞みがかったようにぼやけるのだ。まるで、その答えを見つけまいとするように。
「ま、いいわ。したり顔で魔法講釈されるよりは、数百倍マシだし。今日は初心に立ち返ったつもりで、基本的なところからやりましょうか」
はい、と同意する声が教室のそこかしこで起こった。
「……何が……起こってるの?」
奈緒は不思議だった。なぜ、ここまで普段の『クリア』とは違うとわかっていながら、どうして誰も『クリア』ではないという結論に至らないのだろう。科学の世界なら簡単には発想されないだろうが、ここは魔法の世界。普通に考えれば乗っ取られた、とか魔法で性格が変わった、とか思いつきそうなものなのに。
「じゃ、教科書十ページから。魔法の初歩の初歩。この世界には魔力があり、その魔力は個人個人にもあります。その個人個人の魔力と、世界に満ちる魔力。これらを合わせて使うのが、『魔法』です。詳しい魔力粒子としては――」
もし奈緒がこの世界に来たばかりだったなら、ワクワクしながらこの授業を聞いただろう。しかし、今の奈緒は『クリア』を殺した罪悪感と、『クリア』が変わっているのに何も思わないこのクラスの違和感とで、それどころではなかった。
……何、この世界。
奈緒は生前の世界が一層恋しくなった。帰りたい。あの世界に戻りたい。
――死にたくなったら、生徒会長を頼ること。楽に殺してくれるはず――
奈緒の頭に、一度は訝しんだ一文が蘇る。
この授業が終わったら、生徒会長のところへ行ってみようかな。
また死んだら、元の世界に戻れる。きっとそうだ。奈緒はそう考えた。この世界で死んだら、また転生させてくれるかも知れない。今度は、慣れ親しんだ自分の世界で。
そう思った奈緒に死に対する忌避感は消え失せていた。死ぬことが救い。奈緒がそう考えるのも、時間の問題だろう。
「――では、クリアさん。早速ですが、実践していただきましょう」
「……え?」
奈緒はまた焦った。な、何を? 答えを探るように周りを見回しても、誰も何も答えは言ってくれない。それどころか、『クリア』の活躍を期待するような視線ばかりが奈緒に向けられた。
「あ、あの」
「大丈夫です。あなたは『記憶が消された哀れなクリア』さんですもの。魔法陣は書いてあげてますし、魔力の補助もしてあげます。あとはあなたが願うだけです。『杖よ、現れろ』と」
「う、うう……はい」
奈緒はおっかなびっくり、前のホワイトボードに書かれた魔法陣まで歩く。そこまでたどり着くまでに通った人は皆、『クリア』に対して並々ならぬ期待を寄せていた。なぜこんなにも期待されるのか、まるでわからなかった。
「はい、よく来ましたね。この中心に手を当てて、願うだけでいいんですよ?」
「は、はい……」
なぜ『学園一の魔法使い』にここまで初歩的なことを言うのだろう。奈緒はそれが不思議でたまらなかった。すでに彼らは奈緒が『クリア』にいることを確信して、からかうためにこんなことを言っている……そんな想像も、彼女はした。もし、失敗すれば、どうなるのだろう。そんな風に怖がりながらも、奈緒は言われるままに、大きく描かれた幾何学的な紋様の中心部分に両手のひらをあて、願う。
「杖よ、現れろ……」
言葉にまでしたのは、何がなんでも成功させなければならないという思いに縛られていたからだった。
それが功を奏したのかどうかはわからないが、紋様は赤く輝き、奈緒の手のひら周辺に収束していく。
「え、な、なになに!?」
半径五十センチ程度にまで狭まった紋様は、輝きを増してホワイトボードから浮き上がり、奈緒の腕をくぐりながら肩まで寄ってくる。今度は大きく広がって、頭の上に紋様が浮かぶ。
「な、なに、何これ……!?」
奈緒が驚いている間にも、紋様は動き続ける。ゆっくりと奈緒の頂点から足元へと移動する。紋様は奈緒の身体に合わせて大きくなったり小さくなったり。足もとまで来ると、紋様は地面に張り付き、奈緒がいる地点から少し前まで移動して止まった。
「……な、何、これ」
そして、紋様の中心が歪んだかと思うと、そこからステッキがせり上がってきた。
「え、え?」
それは一メートル強の長いステッキで、色は鉄色、頂点には宝石のようなクリスタルが装飾としてはめ込まれていた。ステッキはせり上がり終わってもまだ上昇をやめず、頂点が奈緒の目線の高さに来たところで、浮遊したまま停止した。
「……へえ、結構簡素ね。これが今回のあなたの杖ってわけね。さ、それを取りなさいな。これであなたも、魔法使いの仲間入り、よ」
「……」
奈緒は浮かび続ける不思議な杖に、震えながら手を近づける。これをとったら、もう元の世界とは完全に離れ、この世界の住人になる。なぜか、そんな直感がした。
今なら、やめられる。
奈緒は迷う。ここで自分が『クリア』でないことを告白して、生徒会長をたずねる。そうすれば、元の世界に戻れる。でも、ここでこの杖をとれば……もう、戻れない。この世界の住人として、第二の人生を歩まなければならない。自分の意思で、この世界の『魔法使い』という役職を選びとったのだ。中途半端では終われないし、終わってはいけない。
この世界か、元の世界か。奈緒は、迷う。迷いは振りきれない。
元の世界に、戻りたい。そう思う一方で、もう死にたくないとほんのわずか思う奈緒もいた。
「どうしたの? 魔法使い、嫌? なんでもはできないけど、大抵のことはできるわよ? 異性を虜にしたり、世界を征服したり、異世界を旅したり」
「――!」
異性や世界には全く興味が持てなかったが、最後の単語が、奈緒の迷いを振り切った。
魔法使いになって、元の世界に、帰る。
そうすれば、死ぬことなく元の世界に帰ることができる。
そう確信した奈緒は、一気に杖を握りしめた。
「――」
その瞬間、奈緒の世界が変わった。