転生の狂気
血のにおいがする。
奈緒は倉庫に入って一番にそう思った。妙に鼻につくさびたような鉄くさい臭いだった。大量に流れる自分の物を嗅いだことがあるのだから、奈緒にとっては間違えようがないものだった。奈緒は、狭い通用路に所せましとおかれている段ボールや、奈緒には使用用途の全く分からない何かを避けながら、真登香についていく。
『何、このにおい』
血の匂いだよ。
『わかるの?』
……うん。
でも、クリアは違うようだった。なんでも知っているかのようにふるまうクリアが、奈緒の知っていることを知らない。もしその差がもっと朗らかな事柄であったのなら、奈緒はほほえみの一つでも浮かべただろう。
「奈緒、どうしたの?」
「な、なんでもないよ! ……血のにおいがするんだけど、真登香」
実を言えば、ほかにも嗅いだことがないような臭いもわずかに漂っているのだが、奈緒はそれをあえて無視した。
「……やっぱり、クリア、じゃなかった、奈緒にはわかっちゃうか。ごめんね、せっかくいい案を出してくれたのに」
そう言って、真登香は奥にある扉を開けた。
「……」
その奥にある光景を見て、奈緒は凍りついた。吐きそうになって、思わず口を押える。何とか吐き気を収めると、震える声で彼女は言う。
「ま、まどか」
「……ごめん」
そこは、壁の周りには段ボールが何段にも積み上げられ、空いているスペースは中央の空間のみ、という狭い部屋だった。そしてその唯一空いているスペースには、何をされたのか分からないが、人間かどうかも判別つかなくなったモノが四つ、転がっていた。
「み、みんな殺しちゃったの?」
「ううん。一人だけ」
真登香が肉塊の間に手を突っ込んで引っ張ると、そこから真っ赤に染まった人間がでてきた。カタカタと震え、失禁してはいるが怪我もなく、無事生きているようだった。
「……ひゃ、ば、化物……」
「黙れ」
真登香が一言いうと、その人間はあわてて、自分の手で自分の口を覆った。
「……真登香」
「ごめん、ごめんね、奈緒。私、我慢してたんだ。でもね、こいつらがうるさいから……」
そう言う真登香の表情は、身を切るような悲痛な顔だった。何を言われたのだろう。奈緒は思わず同情してしまう。
「話、聞かないと」
「うん。道具あるよ?」
真登香は首を振って、血まみれの男に歩み寄った。
魔法、お願いできる?
『不可能じゃないけど、時間はかかる』
魔法ができた時にすぐ使えるよう、奈緒は杖を男のほうに向けた。
「ひ……ち、近寄るな化物っ! 魔法に取りつかれた悪魔が! 俺に近づくな! 俺に何もするな狂人が!」
奈緒は真登香が怒った理由を理解した。
「……真登香」
「なに?」
「今から私、変になるから」
自分に言い聞かせるように、奈緒は言った。奈緒の中にため込まれた黒い気持ちはもはや、抑え切れるようなものではなかった。
「どういうこと?」
「私、今から変になるの。……壊れちゃってもいいかな」
「……別に、いいけど。ちゃんと普通の奈緒に戻ってきてね」
「うん」
真登香に言われると、奈緒は少しだけ安心した。よかった。私はこれがおかしい状態なんだ。これが普通なんじゃなくて、おかしいんだ。
悪意と邪気に満ちた今の心が普通ではなく、本当の自分というわけでもないことに、奈緒は心の底から安心した。魔法のことなど頭から吹きとんだ奈緒は、冷たく聞いた。
「じゃあ、話聞くよ。口を開いて、襲撃者さん」
「従え」
真登香に命じられて、あわてて男は従った。奈緒は一度深呼吸すると、心に言葉を思い浮かべる。
クリア
『何?』
たぶん、もう魔法はいいよ。今の私、どうかしてる。私、どうやったらこの人から話聞けるか、もう道筋を思いついたから。いつもはこんなこと、考えないのにね。
『……恨みを持つのは人として当たり前。奈緒は、ふつうだから。だから、安心していい』
……ありがと、クリア。
クリアに言われて、また奈緒は安心する。
「ねえ、あなたのお名前は?」
「え、えっと、光。公義 光」
男の声はずいぶんと若かった。背丈もある方とは言えない。もしかしたら奈緒と同年代の可能性さえあった。
「……ねえ、光さんはいくつ?」
「25歳」
「へえ」
奈緒は冷めた目で光を見る。その眼は、視界にいる人間の存在を認めない、そんな鋭い瞳だった。
「あなたは、私たちに復讐したいんだったよね。でもさ、私、あなたに酷いことした? 私があなたの家族を殺した?」
「い、いや」
「じゃあ、なんで先生を殺したの? 私に酷いことするの?」
「そ、それは」
「仇討って言ってたよね。じゃあ、私も仇討していいの? ……真登香はもう仇討したみたいだし」
矢継ぎ早に次から次へと言われ、光はどんどん冷静さを失っていく。
「……どんなふうに死にたい? どんなふうに殺されたい?」
「お、おれは」
「殺されたくない、なんて言わせないよ。おかしくなっちゃうくらいに苦しんで、痛みにあえいで、最後には壊れて死んじゃえばいいんだ……私みたいに」
奈緒はこの世界に来て初めて、他人に呪詛の言葉を吐いた。奈緒はすごく気分が悪くなった。他人を罵倒しても、他人を脅しても全然気分が晴れない。たとえ、それが……
「あ……あ……い、いやだ……」
「死にたくないの? ……じゃあどうすればいいと思う? どんな努力をするべきかな?」
「な、何を?」
「私は、頑張ったよ。あなたも頑張って」
たとえそれが、演技だとしても。凄味のある言い方に、光は必死に頭を働かせ、奈緒が何をしたいのかを悟った。
「お、おれは何もしゃべれない!」
「別にいいよ、それでも。私は先生の仇を討つだけだから」
奈緒は冷めた目で見つめ続けながら、光に手をかざす。特に何もするつもりはないが、光は勝手に勘違いした。
「ま、待ってくれ! わ、わかった、全部話すから!」
「……あなたたち、あの武器をどこで調達したの?」
「い、異世界からだよ」
光の言葉に、真登香と奈緒の二人は、お互いに目を見合わせた。
「……続けて」
「俺らのうちの一人に、魔法使いが一人だけいて、復讐を手伝ってもらってたんだよ」
「魔法使いは敵じゃなかったの?」
「同じ家族だぞ!」
自分の仲間の魔法使いはよくて、ほかの魔法使いはダメ。そんな考えに、奈緒は嫌気がした。
「……それで、何を?」
「な、何をって」
「……」
奈緒はひたすら見下ろす。その様子を見ている真登香は普通にしていたが、奈緒の中にいるクリアは戸惑っていた。奈緒はこんなにもどす黒いことを考えて、実行できる人間だったのか、と。
「わ、わかった、言う、言うから殺さないでくれ……。異世界があるってのは知ってるか?」
「……いいから、続けて」
「い、異世界から、いろいろとかっぱらってきたってそいつは言ってた。とにかくあいつは頭がよくて、おれたちにここを襲撃するように言ったのもあいつなんだ」
奈緒は今までの話を頭の中で要約する。武器を調達したのはその魔法使い。ここを襲撃するよう指示したのも、そいつ。ならば。
「あなたたちのリーダーは、そいつね。名前は?」
「え?」
「その魔法使いの名前」
「で、でも」
「……真登香、かわいそうだけど、道具とってくれる?」
「え? あ、うん……」
真登香は光から手を放すと、血が飛び散った荷物の中から、何やら禍々しい道具をいくつか取り出して、奈緒に渡した。受け取った奈緒は、記憶の煌めきに意識が飛びそうになる。その苦しみの次には罪悪感が心の中に満ちていく。
「……ごめんね」
「ま、待て待て待て待ってくれ! わかった言う、言う!」
「あなたそればっかり。嘘かもしれないし」
「この状況で嘘を言うわけないだろ!」
奈緒は曇った表情のまま首を振った。
「あなたはまだ一度も痛みや苦しみを受けていない。……そんな状況じゃ信じられないよ」
「嘘だろ!? ちょっと待てよ、おれは嘘なんてついてない! 誓う! だからやめてくれ!」
奈緒は初めて能動的に人を疑った。絶対に間違いがあってはいけない。真登香と自分を守るために、絶対に。その強い気持ちが、奈緒の心を変えていた。
「あなたが、自分が死ぬかもしれないって思って、自分の命と引き換えに話した情報だけが、信じられる。今の状態じゃ、ダメ」
「ふ、ふざけないでくれ! お、おいあんた、頼む、やめさせてくれ!」
あまりにせっぱつまったのか、光は真登香に助けを求めた。
「……奈緒、あんた今ちょっと変だよ」
「言ったじゃない、変になるって」
「そういう変じゃなくて。奈緒、今、なんかちょっと何かに取りつかれたみたい。それに、今そいつが嘘を言ってるとは思えない。……奈緒がそういう復讐を狙っているんだったら、余計なこと言ったわね」
奈緒は真登香のほうを見て、首を振った。その顔は、光に向けているのとはうって変って、穏やかな表情だった。
「……ううん。私、復讐なんていいよ。ありがとう、真登香。じゃあ、名前を言って、光」
光のほうへと顔を向けると、また冷たい表情になる。その変化を、奈緒自身は気づいていない。
「グラウベンだ! グラウベン・シュバルツ。そう名乗ってた!」
「……外国人?」
奈緒は真登香に聞いた。
「どこの国の人だろ」
「さあ。どうでもいいよ。この国にいるんでしょ?」
「あ、ああ。お、おれが知ってるのはこれだけだ! 本当だ、信じてくれ!」
「……そう」
奈緒は何も言わず、踵を返した。
「……あなたたちの本拠地は、どこにあるの?」
「こ、この町の郊外にある森の、三つ並んだコテージだ!」
「町はずれの森の三連コテージね。わかった。真登香、行こうよ」
真登香のほうを向くと、奈緒は手招きした。
「なんで?」
真登香がそれを聞くと、奈緒はぽかんとした。
「なんでって、私、普通に生活したいから。だから、いつ襲ってくるかわからないような集団は、倒すか無力化しないと、安心して夜も寝られないよ」
「……そうね」
奈緒のさばさばした物言いに真登香は驚いたが、言っていることそのものは納得できた。
「……こいつは?」
真登香は視線を光に移すと、手を振りかぶった。
「お、おい、あんた何を」
「好きにしたら? 私は止めないよ」
「……いいの?」
「私が嫌いなのは、拷問だけ」
「さっきこいつにしたのは何なのさ」
「……尋問だよ」
道具を向けることが尋問になるのかどうかは本人にもわからなかったが、奈緒は無理やりそう納得した。
「……奈緒なら、こいつ殺す?」
「私は、別に命まではとらなくてもいいと思う。でも、真登香がその人の家族の仇になる覚悟があるのなら、するべきだと思う」
「そう。ありがと」
そういうと、真登香は目に殺意を宿らせた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 助けてくれるんじゃなかったのか!?」
乞うように叫ぶ光に、奈緒は冷たく言った。
「言えば助けるなんて言ってない」
奈緒は自分が殺されている最中のことを思い出す。奈緒は、自分が助かるために思い出すだけで背筋が凍るような恐ろしいことを口走っていたのを思い出した。それこそ、たとえ命は助かってもその先、生き地獄になるようなすさまじいことを。そんなことをかけらも口に出さず、ただ情報を話しただけで助かろうと思っている光のことを、彼女は許すことはできなかった。
……やっぱり、今の私変だ。
『大丈夫。大丈夫だから』
クリアは思わずそう言って、奈緒を慰めた。
「待てよ! それじゃ俺何のためにしゃべったのか……」
それから先、光が言葉を話すことはなかった。
「……ごめんね、奈緒」
「大丈夫だよ」
嘘はつかない。誰よりも誠実に生きようとする。しかし、汚い部分もあれば、醜い部分もある。奈緒もそれは重々承知していたし、なくしたいとも思っていた。しかし、奈緒は直感で感じたのだ。
これから先は、汚い所も認めないと生きていけない、と。
クリアはその決意に空恐ろしいものを感じた。