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【余命もの】最後の花火

作者: maricaみかん
掲載日:2026/05/20

「この病室からでも、花火大会は見えるのかな。なんて、見えても味気ないか」


 ベッドに腰掛けたまま、僕の恋人は語った。シーツを手に、少し肌寒そうに。窓の外には、葉のない木とどんよりした雲が見える。

 花火大会は、毎年春のこと。珍しい時期なので、この町の人はみんな覚えていた。


「また一緒に見たいよね、すみれ。今度は、僕も迷子にならないと思うよ」

「もう高校生なんでしょ? 小学生の時と同じなら困るよ。まあ、行けたらの話だけど……」


 すみれは、シーツの端をギュッと握りしめていた。もう、何年目になるだろう。窓の外を見ると、まだ曇ったまま。


「たぶん、僕ひとりでは行かないと思う。だから……」

「うん。私も、一緒がいいな。奢ってくれる人も、必要だしね? なんて、ね」


 ふわりと笑う時の目は、確かに輝いていた。だから、僕は小指を差し出す。

 迷うことなく返されて、指切りをした。その指先は、とても暖かかった。


「奢るくらい、するよ。すみれと一緒なら、きっとなんでも楽しいんだから」

「今度は、食べすぎて集中できないなんてダメだよ? 介抱するの、大変だったんだから」

「僕だって、成長してるんだから。今度こそ、役に立ってみせるよ」

「検査も、君と一緒ならマシなんだけどな。あー、手を握ってくれるだけでもなー」


 手をブラブラさせながら、流し目で見てきた。ちょっとだけ、笑っちゃったりもして。


「ごめんね。ルールだから……。僕も、手伝えたら良かったんだけどね」

「そんな冷たい君は、もう帰っていいよ。そろそろ、時間だし」

「あはは、ひどいよ……。でも、そうだね。迷惑かけちゃ、いけないよね」


 手を振るすみれを背中に、僕は病室から出ていく。扉を閉じる瞬間、どこかうつむいているように見えた。

 けれど、これも決まりだから。僕にできることは、何もなかった。


 そして次の日。放課後になって、病院に向かおうとする。そうしたら、スマホが震えた。送ってきた相手は、すみれのお父さん。

 ただ、家に来てほしいとだけ書かれていた。胸騒ぎがして、空を見る。頬に、ぽつりと水滴が落ちた。

 僕は傘もさせないまま、ただ走って帰っていった。


 家について、すぐに着替えて、傘だけ持って隣の家に向かう。チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。

 出てきたお父さんに、ただ手招きだけされてリビングに向かう。

 その間、ただ足音だけが響き続ける。


 部屋に入って、扉を閉じて。すぐに、お父さんはこちらを向く。一度目をさまよわせて、まっすぐに僕を見た。


「すみれの親として、君にだけは言おうと思うんだ。もう、敗戦処理の段階だと言われたよ」


 肩に手を置きながら、平坦な声で語られる。冷たさを感じるような声で。

 胸ぐらをつかみそうになって、止めた。その姿を、お父さんはじっと見ていた。


「どうして、諦められるんですか……? 親なのに、どうして……?」

「……すみれの主治医は、私が発作で死にかけた時の担当医でね。私が知る限り、呼吸器では一番だよ」


 お父さんは、背中に手を回していた。肘のあたりが、少しだけ震えている。それは、つまり。


「……っ!」

「私は、彼が言うのなら信じる。生きていれば、きっと妻も。……でも、君は君の道を選べば良い」


 肩に手を置いて、優しく叩かれた。本当にそっと、何かを託すように。

 僕の道って、一体なんなんだろう。すみれに真実を告げられるはずなんて、ない。それだけは、できない。

 じゃあ、僕が治す? 幼稚な妄想もいい加減にしろ。僕は物語の主人公じゃないんだぞ。


 でも、だったら僕に何ができるというんだ。何が。どう、したら……。


「すみれ……僕は……」

「つらい決断を、させてしまうね。どうか、私を恨んでほしい。でも、これだけは言わせてくれ。君といる間、すみれは心からの笑顔を浮かべていたよ」


 ポンポンと、また肩を叩かれる。顔を見ると、優しい目をしていた。

 きっと、僕を信じてくれている。それを胸に、目を閉じる。すみれの顔を思い浮かべた。花開くような笑顔だった。

 ゆっくりと息を吸って、もっとゆっくりと吐く。そして、お父さんの目を見た。


 僕に、できること。僕の、したいこと。

 ほんの少しでも良い。すみれに、笑顔になってもらえたのなら。楽しいと思ってもらえたのなら。

 何より、生きていて良かったと思ってほしい。


 分かっているさ。高望みだって。分不相応だって。

 でも、それしかない。それしか。僕は、ただの凡人なんだから。


「そんなこと、言われたら……」

「やはり、優しい子だ。戸惑いも悲しみも、すみれのために飲み込んでくれるのだから」


 肩を、少し強く握られた。それこそが、きっとお父さんの感情そのもの。

 託されたものを、僕はつむぎたい。何よりも、すみれにふさわしい僕でいたい。


 なら、道化にだってなってやる。それで、すみれが笑顔になれるのなら。なってくれるのなら。


 自分の家に帰って、さっそく発声練習をした。録音をして、お腹から声を出せるように意識しながら。

 スマホから聞こえてくる声は、最初は聞くに堪えなかった。けれど、その日は食事とお風呂の時間以外はずっと練習し続けた。

 その甲斐あって、少しくらいはマシになったと思う。


 すみれがどんな時に笑ったのか、思い出した。祭りで花火を見た時のこと。僕が失敗した時のこと。お笑いを見た時のこと。どれも、とても輝いていた。

 今の僕に、できるのは……。よし、やろう。


 結局、日が落ちても眠らなかった。


 次の日から、準備の成果を確かめていく。


「竹にノコギリとかけまして、逃げたライオンと解きます」

「その心は?」

「どちらもししおどしきるでしょう」

「おおー。どこで調べてきたの?」


 乾いた拍手をしながら、首を傾げて問いかけてくる。からかうようなトーンで、にこやかに。


「ちゃんと自分で考えたよ……」

「それはすごいね。意外な特技もあるんだ。できる印象なんて、無かったんだけど」

「ひどくない……?」


 本当に、軽く見られているようなセリフが続く。でも、それで良かった。

 すみれは楽しそうに反応してくれたから、うまく行っている。そう思っていた。


 でも、何も分かっていなかったんだ。本当に、何ひとつとして。


 ある日のこと。今度はひとり漫才のネタを考えて、すみれに会いに行った。


「お嬢さん、お手をお取りください」

「良いよ。何がしたいの?」


 差し出された手を、握る。妙にざらついていて、じっと見てしまう。

 すみれの手は枯れ枝みたいで、目を伏せてしまった。少し遅れて、すみれが拳を握っているのが見えた。


 なんて、ことを。一番苦しいのは、すみれなんだ。なのに、僕はただすみれに現状を突きつけるだけ。

 目を、閉じてしまいそうになる。なんとか、開いたままでいられた。


「ごめん、今日は帰ってくれる?」


 冷たい声でそう言われても、逆らったりはしなかった。悪いのは、僕だったから。

 病院から出たら、冷たい風が吹き付けた。袖の隙間から、胸にまで入り込むくらいの。


 帰ってすぐに、涙を我慢する方法を調べた。

 深呼吸をすること。できるわけがない。それを見て、すみれは絶対に察する。

 痛みを感じること。それなら、隠せば良い。口の中を噛んでも良い。拳に爪を立てるのもありだ。お父さんみたいに、背中に手を隠しても良い。震えさえしなければ、きっと大丈夫。

 難しいことを考えること。頭の中で、計算でもすれば良い。顔には出ない。これも、使える。


 笑顔だ。ただ、笑え。楽しい話だけを心がけろ。僕が少しでも良いと思ったことだけを話すんだ。

 すみれの前で、少しだって暗い顔なんてするんじゃない。何のために、病室に向かうんだ。すみれの、ためだろ。


 ただひたすらに、話す内容を書き散らかす。

 何度も何度も読み返して、頭に入れた。すみれの前で、少しだって考えずに話せるように。

 とにかく同じことを繰り返した。実際の感覚も、伝えられるように。


 次の面会には、それだけを胸にすみれのもとに向かったんだ。


「歯磨き粉と間違えて、洗顔料を口に入れちゃって……。もう、泡が大変で……」

「あは、君ってそういう失敗もするんだ?」


 ちょっとだけ、唇を釣り上げている。声も高くなっている。この調子だ。そのために、本当に間違えたんだから。もっともっと、すみれに笑顔を。それで、良いんだ。

 すみれは、シーツを深くかけ直していた。


「色だけ見て上着を持っていったら、半袖で……」

「あー、なるほど……」


 なんか、声が平坦だ。窓の外も見ている。ちょっと反応が悪いかな。なら、別の方向性で……。


「昨日やったゲームではね、おんなじ面で100回くらい死んじゃって……」

「うる、さい……」


 とても低い声が、聞こえてきた。絞り出すかのような声が。

 すみれの顔を見ると、表情が抜け落ちている。僕だけを、じっと見ていた。


「すみれ……?」

「私にできないことを聞かせて、自慢のつもり!?」


 胸ぐらまでつかんで、叫ばれる。

 心臓が、きゅっと縮みあがった。指の先が、とても冷たい。寒い。暖房がかかっているのに。

 やめろ。被害者ぶるんじゃない。僕の役目を、忘れるな。


「すみれ、僕は……。いや、ごめん……。悪いのは、僕だ……」

「あっ……。違うの、私……」

「良いんだ。すみれの本当の気持ちを、聞かせてほしい。僕に、ぶつけてくれ」


 僕の服を握る力は、弱々しい。だけど、すみれの両手は震え続けている。それはきっと、限界まで握りしめているってこと。理由なんて、分かりきっている。


「私だって、同じ料理を隣で食べたかった! いろんなおしゃれを、見てもらいたかった! 君とゲームを、したかった! それだけ、なのに!」


 全部、中心に僕がいる。それが、すみれの想い。

 なのに、どうだ。僕は、何もできていない。

 せめて笑顔にしたくて、明るい話題を持ちかけた。それすら、満足にこなせなかった。死んじゃうなんて、すみれの前で言って良いわけがない。


 だとしても、泣くな。調べたとおりに、背中に隠した拳を握れ。7の累乗を数えるんだ。


「すみれ……」

「私は! げほっ、げほっ……」


 すみれの咳は、ひどく粘ついていた。

 ナースコールを押して、すぐに看護師がやってくる。当たり前のように、僕は追い出された。


 ただひとり、家に帰る。どうしようもなく、一歩が小さかった。


 ベッドに入って、膝を抱える。どうすれば良かったのか、何度も何度も考えた。

 分かったことは、ただひとつ。全部、僕が頭で考えただけだった。すみれが頼んだわけじゃない。

 それに気付いてすぐ、すみれの言葉を思い返す。


 僕と一緒に、いろんなことをしたかった。それはきっと、普通の生活として実現することはできない。

 せいぜい、外出許可を取ることくらい。どこかに、すみれを連れて行くことくらい。


 そうだ。すみれは、花火大会の話題を出していた。春までは、まだまだ遠いのに。つまり、すみれは。


 今度こそ、間違えたりしない。すみれの願いを、叶えてみせる。


 まずは、すみれのお父さんにメッセージを送る。すぐに、返事がやってきた。

 手続きは任せてくれとのこと。終末期なら、患者の意思を大切にしてくれるはずだと。

 僕は、ただ待つことしかできない。気付いたら、奥歯のあたりに痛みを感じていた。口が、少しのあいだ開かなかった。


 落ち着け。ひとりで解決しようとしたから、失敗したんだ。任せるべきところは、任せよう。

 大切なのは、僕が活躍することじゃない。すみれが笑顔になってくれることだ。優先順位を間違えるな。


 変に希望を持たせないように、面会では花火大会の話題は出さなかった。

 話は弾まなかったけれど、すみれは返事だけはしてくれていた。


 同じような日々が、しばらく続く。僕はもう、うまく話そうとはしていなかった。


 一週間だろうか。一ヶ月だろうか。カレンダーすら見ないまま、毎日を生きる。それで良いと、自分に言い聞かせながら。


 変わったのは、結局すみれの方だった。


「ねえ、聞いたよ。私の外出許可、お父さんに頼んでくれたんだって?」


 いつもより少しだけ高い声で、話しかけてくれる。きっと、僕に寄り添うために。

 少しだけ、目頭が熱くなった。すぐに、頬を噛んで7の累乗を数える。

 今は泣いても良いと気付いたのは、涙が去ってからのこと。


 だけど、だからこそ僕は最高の笑顔を見せられたんだと思う。


「うん。すみれと、最高の思い出を残したかったから」

「ありがとう。私も、ずっと残る思い出にしたいよ」

「そうだね。いつまでも残ると良いよね」


 その言葉に、すみれは目を伏せた。

 また、何か間違えてしまったのだろうか。みぞおちのあたりが、押し潰されているみたいだ。


 目を上げたすみれは、両手で僕の手を包み込む。絡みつくように、ぎゅっと。


「……ねえ。私のこと、ずっと忘れないでいてくれる?」

「もち……」

「いや、気にしないで。私も、ちゃんと分かってるから」


 すみれの目は、激しく揺れていた。だから、僕はとても深く頷いた。


「大丈夫。絶対に忘れないよ」

「……じゃあ、一生ひとりでいてよ……。幸せな家庭なんて、絶対に持たないで……!」


 すみれは、顔をくしゃりと歪めていた。痛いほどに、両手が握りしめられている。すみれの手は、ずっと震えている。

 僕はそっと、すみれの手を握り返した。


「分かった。約束する。僕の恋人は、すみれだけだ」

「……ごめん。ごめんね……」


 しゃくりあげるような声が、聞こえる。でも、お腹に力を入れて笑顔を浮かべた。


「気にしないで。僕がそうしたいんだ。すみれのためなんだから」

「ありがとう。花火大会、楽しみだね」


 すみれは、窓の外を見ている。僕も同じところを見ると、ツタが枯れた木に絡みついていた。締め付けるように、強く。

 ゆっくりと、手を離される。すみれは窓の外を見たまま。音を立てないように、僕は病室から出ていく。


「いいな、あれ」


 そんな声が、聞こえた気がした。

 振り返ろうとする前に、すみれのお父さんが入れ替わるように入ろうとしていた。


 頭を下げると、肩をつかまれる。


「良いかい。受付で、待っていてくれ。車で送っていってあげよう」


 言われた通りに、受付で待つ。その間、ずっとテレビを聞き流していた。


 お父さんがやってきて、車までついていく。エンジンが掛かって、暖房が届く。なんとなく、妙に暑い。


「なにか、あったのかい? 私に相談できることなら、聞かせてくれ」

「……その……、実は……」


 まとまりのないまま、僕は今日あったことを話した。すみれとの約束を、全部。


「なるほど。私の立場から言おう。忘れてくれて、良いとも」

「は……? なんで、そんなことが言えるんですか……? すみれの、親なんですよね……!? あっ……」


 お父さんは、病気を告げる時にだって我慢していた。肘が震えていたのが、その証。

 今だって、きっと苦しい思いをこらえて言ってくれている。今の僕には、分かるだろ。ずっと、すみれの前で同じことをしてきたんだから。


「謝らなくて良い。気持ちは、分かるつもりだ」

「でも……」

「申し訳ないと思うのなら、聞いてくれ。私も、人の親だ。生きているうちは、すみれを優先する」

「……はい」

「でも、君にも幸せになってほしいんだ。遊びたい盛りの時期を、ずっとすみれに使ってくれたんだから」


 時間を使ったことが、何だと言うんだろう。僕は、何度も何度も失敗してきたのに。

 どうして、僕を許せるんだろう。立場が逆なら、きっと無理だ。ズボンの裾を、ギュッと握った。


「別に、大したことは……」

「ふふ、君らしいな。もちろん、すぐに忘れろなんて言わない。そんなことができるほど、君は器用じゃない」

「なんですか、それ……」

「でも、いつか……。きっと、心の整理がつく。その時になったら、私の言葉を思い出してほしいんだ」


 少しだけ、声が震えているような気がした。本当に、気がするという程度に。

 きっと、勘違いじゃない。なら、僕だって安易に否定しちゃダメだ。

 ……忘れたくなんて、ない。忘れたいはずが、ない。


 でも、今だけは隠そう。声が、震えないように。


「思い出すだけで、良いのなら……」

「今は、それで良い。いつか、きっと分かる時が来るさ」


 その言葉を最後に、お父さんはただ車を運転し続けた。僕の家の前で降ろされて、頭を下げる。ただ手だけ振って、お父さんは去っていった。


 家に入って、ベッドに入って、膝を抱える。

 すみれを忘れることなんて、許されるのだろうか。忘れられたくないという叫びを、無視しても。

 手を握られた痛みも、しゃくりあげるような声も、忘れられるわけがない。あんな歪んだ顔をさせてしまったんだから。


 いや、違う。僕のすべきことは、後悔じゃない。

 二度と、あんな顔なんてさせない。今度こそ、笑顔にしてみせる。

 ずっと先のことなんて、まだ考えなくて良い。今の僕が本当にするべきことは、花火大会を成功させることだけ。


 そのためにすべきことを、頭の中で走らせる。思いついたことを、ただ調べる。

 やるべきことは、決まった。後は、それを実行するだけ。


 終末期を支えるボランティアの人に頭を下げて、花火の穴場を探してもらった。僕たちが、ふたりきりになれる場所を。

 教えてもらった場所全部に向かって、少しでも楽に座れそうな場所を探した。車椅子も通れそうか、ちゃんと確かめた。泥まみれになっても、枝が腕を傷つけても。

 目的地を決めた後は、実物でも確認した。筋肉痛になった次の日だって、必ず。

 足が重い時は、ただすみれの笑顔を思い浮かべた。浮かべ続けた。


 看護師さんに頭を下げて、いざという時の手順を教えてもらった。しっかりメモを取って、何度も一人で練習した。

 子供の頃に買った人形の胸を、繰り返し両手で押しつぶした。どう腕を曲げればいいか、動画とすり合わせながら。最後には、綿が飛び出るくらいに。

 その姿を見て、手が止まりもした。すぐに、首を振って別の準備を始める。


 薬を飲ませる時の角度も、しっかりと確認した。コップを持つ腕が震えるまで、ずっと。


 もちろん、すみれと過ごす時間も忘れずに。1秒1秒を脳に刻み込むように、ずっと顔を見続けた。笑う顔も、悲しい顔も、全部。


 ひたすらに準備を続けて、やってきた当日。一度家に帰ったすみれは、お父さんの運転する車でやってくる。

 真っ白なワンピースを着て、とても穏やかな顔をしていた。


 車に乗り込むと、すみれは僕の手に手を重ねる。そして、肩を預けてきた。

 目的地に向かう間、ずっと無言だった。それでも、穏やかな心地のまま。


 やがてたどり着いた、自然公園のような場所。まずは車椅子を下ろす。そして、すみれを抱えて乗せた。

 すみれは、お父さんに手を振っていた。


「じゃあ、行ってくるから。ふたりの時間を、邪魔しないでよね」

「……ああ。ゆっくりと待っているから、楽しんでくると良い」


 お父さんはすみれに近づいて、両手を肩に置く。そして、三秒ほどすみれを見つめていた。

 そしてもう一度肩を叩いて、運転席へと戻っていく。


「送ってくださって、ありがとうございました」

「気にしなくて良い。他ならぬ、すみれのためなんだから」


 お父さんは、ゆっくりと目を閉じていた。まるで、目を逸らすかのように。

 すみれに袖を引かれて、頭だけ下げる。そして、車椅子を動かす。


 ここには、桜の木が多く生えている。決してぶつけないように、慎重に押していった。


「良い場所だね。どうして、人がいないんだろ?」

「木でいっぱいだから、枝が邪魔で花火が見えないんだって」

「なら、なんで……?」

「もうすぐ着くから、その時を楽しみにしていて」


 練習をした時と違って、桜が花開いている。すみれは、周囲を見回しながら口元を緩めている。

 やっぱり、正解だった。大変だと分かっていたけれど、選んだ価値があった。


 薄暗い中を、ゆっくりと進んでいく。やがて、わずかに月明かりが届いた。

 周りより、少しだけ木と木の隙間が多い場所。そこからは、空がよく見える。

 ボランティアの人から聞いた、穴場中の穴場。すみれは、首を上げて空を見ていた。


「いいね、ここ……」

「でしょ? ここだけは、邪魔されずに空が見えるんだって」

「じゃあ、あとは待つだけだね。手、つなご?」


 差し出された手を、迷わずに握る。ふわりと笑う姿は、月明かりに照らされていた。

 そしてすみれは逆の手でスマホを取り出して、一度空に向ける。膝に下ろして、こちらを見る。

 お互いの体温と呼吸だけを感じながら、ただ待つ。やがて、その時が訪れた。


 まっすぐな軌道で、花火は空を駆け上がっていく。その頂点で、一気に弾ける。少し遅れて、お腹に響く音が届いた。


「きれい、だね……。胸は、痛いけど……」

「だい、じょうぶ……?」

「気にしないで。苦しくても、心に刻みたいんだ」


 ポケットにある薬を、すぐに取り出す。そして、すみれに差し出す。


「これ、薬……。飲めそう?」

「ありがと……。けほっ、げほっ……ん、ぐっ……」


 濁った声が、花火の音と混ざり合う。すみれは、胸元を握りしめていた。


「すみれ……! 病院に、連絡しないと……!」


 最初に連絡して、医者を呼ぶ。その間に呼吸が止まったら、気道を確保。救命処置に入る。1秒でも早い対処が、すべて。何度も練習したことが、頭によぎる。

 スマホを手に取ると、その手を握られた。すみれを見ると、ゆっくりと首を振っている。


「待って。お願いだから、呼ばないで……」

「すみれ……?」

「お願い……。私の息が止まったら、10分間抱きしめていてほしいの……。最後は、君とだけ……」


 それはつまり、絶対に助からなくなるまで待っていろということ。

 ……限界は、5分。その倍。救命しても、決して間に合わない時間。僕に、君を殺せというのか。

 すみれは、僕の手を握りしめている。弱々しい力で、それでも確かに。

 今なら、まだ助かるかもしれない。そのための努力は、ずっとしてきた。何度も何度も、練習を繰り返して。


 すみれの手を、離そうとする。すぐに、目の前にある顔が歪んだ。

 息を吸う。変なところに入って、むせ返りそうになった。すみれは、泣きそうな顔をしている。


 ……いや。これじゃ同じなんだ。本当に大事なことを、思い出せ。

 一番苦しいのは、すみれだ。なら……。


 すみれは、僕をじっと見ていた。それが、僕の選ぶべき道だった。

 どんなつらい未来が待っていたとしても、すみれほどじゃない。それ、だけ。


 しっかりと、手を握り返す。そして、すみれと目を合わせる。すべてを、刻み込むために。

 そっと、はにかまれる。とても、とても穏やかに。


「……分かった。罪なら、僕が背負うよ」

「ありがとう。でも、大丈夫。スマホに録音してるから……。暗証番号は、0623……」


 それは、僕の……。すみれはきっと、最初から……。全身が、わずかに震えた。

 ……本当の願いだというのなら、僕が叶えてあげないと。今度こそ、間違えたりしない。

 一瞬だけ、目を閉じる。肺の中の空気を、全部吐き出した。


 すみれの手を、握り直す。しっかりと、指をからめながら。


「……うん。ずっと、一緒にいよう」


 せめて最後は、笑顔を見せていないと。泣き顔で別れることなんて、きっとしたくないはずだから。

 左の手のひらの中で、爪を当てよう。7の累乗を、考えよう。

 大丈夫。何度も繰り返してきたことだろ。


 ただ、向き合う。すみれは、薄く微笑んでいた。


「ふふ、あったかいね……。わたし、いまがいちばん……」


 声が途切れる。首がコクリと下を向く。もう、手のひらに力は感じない。口元に手を当てると、息は止まっていた。落ちてきた桜の花びらが、すみれの頬に張り付いた。


 つないだ手から温もりが去っていくのを感じながら、すみれを抱きしめる。

 我慢できなかったものが、すみれの肩に落ちていく。ぽつり、ぽつりと。

 振り払うように、抱きしめる力を強める。1秒、2秒と数えていく。夜の寒さが、お互いに染み渡っていく。


 一番大きな花火の音が、背中に届いた。

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