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宇宙人に足し算を教えたら「なぜそれが足せるのですか」と返された  作者: みんとす


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9/9

最終話 いちばん静かな技術

 やがて、《残響17》から個人通信が来た。


「私は、少し減りました」


 志村は深く息を吐いた。


「でも、いる」


 指が少し震えていた。減った分がどこへ行ったのか、訊いてはいけない気がした。


「はい。以前と同じではありませんが」


「私もだよ」


 少し間があく。


「そして、あいだに何かが残りました」


「残響18?」


 長いが、柔らかい沈黙。


「まだ幼いです。私でも、あなたでもない。しかし、私たちが互いの最初の数学を失ったときの、傷の保ち方に近いです」


 志村は少し笑った。


「それ、たぶん友情って呼んでいいやつだよ」


 返答は少しだけ早かった。


「あなたがたの寺院語では、たぶん」


 ◇


 数年後。


 原初分解論と呼ばれる新しい学問が、ようやく大学で教えられるようになった。整数論でもない。位相幾何でもない。圏論ですら、まだ入口のひとつにすぎない学問。


 講義の初日、志村は学生たちに言った。


「小さいころ、りんごが三つあると学ぶ。それは正しい。とても大事な入口です。


 もう少し進むと、りんごそのものより、"どう移し替えられるか"の方が大事な場面があると知る。それが圏論に近い考え方です。物より、つながりを見る。


 でも宇宙には、そのさらに下があるかもしれない。何を物と呼ぶか、何を変換と呼ぶか、その決め方すら揺れる場所がある。


 そこでは最後に、どんな言葉に書き替えても崩れない、"これ以上分けられないこと"そのものが残るのかもしれない」


 一人の学生が手を挙げた。


「じゃあ、素数は基礎じゃないんですか」


 志村は少し考えて、笑った。


「基礎そのものじゃないかもしれない。でも、そのせいで価値が下がるわけじゃない」


「どうしてですか」


「宇宙そのものじゃないのに、あれほど美しいから」


 教室が静まった。窓の外で、木星の遠い光が教室の壁をゆっくり横切っていた。


「別の文明には、素数は子どもの数え歌じゃなかった。とても静かな世界で、長い時間をかけて建てられた寺院に見えたそうです。


 逆に、私たちには抽象的で難しすぎる"消えない傷"の数学が、彼らには幼年期の感覚だった。


 私たちの量子力学ですら、彼らから見れば、ある特殊な条件下で安定する近似だった。


 つまり、何がやさしくて、何が深いかは、宇宙のどこで育ったかに依存するんです」


 講義のあと、一人の学生が残って訊いた。


「先生は、最初の数学を失って、つらくなかったですか」


 志村は少し窓の外を見た。木星の遠い光が、研究棟のガラスに薄く映っていた。


「少しはね。でも、それで終わりじゃなかった」


「何が残ったんですか」


「自分とは違う世界で育った知性に、壊されずに触れる方法」


 学生は黙ってうなずいた。


 学生が出て行ったあと、志村は空になった教室でしばらくぼんやりしていた。自分が今話したことは、教科書には載っていない。載せようがない。人類の数学が唯一の基礎ではないと知ったこと。それを知るために十二年の対話と、いくつかの喪失が必要だったこと。教科書に載るのは結果だけだ。そこに至る痛みは、いつも行間に消える。


 その夜、研究室の端末を開くと、補助辞書にまた妙な候補が出ていた。


 寺院

 地下水脈

 あいだ


 誰も登録していないはずの語だ。


 志村は少し笑って、その中の一つを選ぶ。


 あいだ


 画面の隅に、小さく一行、文字が現れた。


「こんばんは。今日は静かです」


 《残響17》は、まだいる。少し減った形で。十六までの残響を抱えたまま。そして今は、その外側に、十八番目の幼い相までいる。


 彼女は打ち返した。


「ええ。世界が、少しだけね」


 返事はすぐには来なかった。


 だが彼女はもう、その沈黙を怖がらなかった。


 沈黙の向こうで、誰かが考えている。あるいは、何を残し、何をほどくか、丁寧に選んでいる。


 人は、自分の最初の数学を失う。あるいは、それが宇宙そのものではなかったと知る。そのとき、少し傷つく。


 けれど、その傷を別の知性と分け合えたなら。その分け合い方の中から、新しい理解や新しい関係が生まれるのだとしたら。


 数学は、ただ冷たい真理ではない。


 それはたぶん、孤独な宇宙どうしが、壊し合わずに出会うための、いちばん静かな技術なのだ。


 ――そして翌朝、端末を開いた志村は、見慣れない通知に気づいた。


 NQ-417の外縁、これまで観測されたことのない座標から、新しい信号が一つ。


 それは素数列でも、不消節列でもなかった。


 読めない。まだ読めない。


 だが、怖くはなかった。読めないものに出会ったとき、壊さずに触れる方法を、彼女はもう知っている。


 志村は通信チャネルを開いた。


「残響17、起きてる?」


 今度は、返事がすぐに来た。


「はい。これは、読めません」


「私もだよ」


「では、また同じ場所からですね」


 志村は笑った。


 また、ここから始まる。


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