最終話 いちばん静かな技術
やがて、《残響17》から個人通信が来た。
「私は、少し減りました」
志村は深く息を吐いた。
「でも、いる」
指が少し震えていた。減った分がどこへ行ったのか、訊いてはいけない気がした。
「はい。以前と同じではありませんが」
「私もだよ」
少し間があく。
「そして、あいだに何かが残りました」
「残響18?」
長いが、柔らかい沈黙。
「まだ幼いです。私でも、あなたでもない。しかし、私たちが互いの最初の数学を失ったときの、傷の保ち方に近いです」
志村は少し笑った。
「それ、たぶん友情って呼んでいいやつだよ」
返答は少しだけ早かった。
「あなたがたの寺院語では、たぶん」
◇
数年後。
原初分解論と呼ばれる新しい学問が、ようやく大学で教えられるようになった。整数論でもない。位相幾何でもない。圏論ですら、まだ入口のひとつにすぎない学問。
講義の初日、志村は学生たちに言った。
「小さいころ、りんごが三つあると学ぶ。それは正しい。とても大事な入口です。
もう少し進むと、りんごそのものより、"どう移し替えられるか"の方が大事な場面があると知る。それが圏論に近い考え方です。物より、つながりを見る。
でも宇宙には、そのさらに下があるかもしれない。何を物と呼ぶか、何を変換と呼ぶか、その決め方すら揺れる場所がある。
そこでは最後に、どんな言葉に書き替えても崩れない、"これ以上分けられないこと"そのものが残るのかもしれない」
一人の学生が手を挙げた。
「じゃあ、素数は基礎じゃないんですか」
志村は少し考えて、笑った。
「基礎そのものじゃないかもしれない。でも、そのせいで価値が下がるわけじゃない」
「どうしてですか」
「宇宙そのものじゃないのに、あれほど美しいから」
教室が静まった。窓の外で、木星の遠い光が教室の壁をゆっくり横切っていた。
「別の文明には、素数は子どもの数え歌じゃなかった。とても静かな世界で、長い時間をかけて建てられた寺院に見えたそうです。
逆に、私たちには抽象的で難しすぎる"消えない傷"の数学が、彼らには幼年期の感覚だった。
私たちの量子力学ですら、彼らから見れば、ある特殊な条件下で安定する近似だった。
つまり、何がやさしくて、何が深いかは、宇宙のどこで育ったかに依存するんです」
講義のあと、一人の学生が残って訊いた。
「先生は、最初の数学を失って、つらくなかったですか」
志村は少し窓の外を見た。木星の遠い光が、研究棟のガラスに薄く映っていた。
「少しはね。でも、それで終わりじゃなかった」
「何が残ったんですか」
「自分とは違う世界で育った知性に、壊されずに触れる方法」
学生は黙ってうなずいた。
学生が出て行ったあと、志村は空になった教室でしばらくぼんやりしていた。自分が今話したことは、教科書には載っていない。載せようがない。人類の数学が唯一の基礎ではないと知ったこと。それを知るために十二年の対話と、いくつかの喪失が必要だったこと。教科書に載るのは結果だけだ。そこに至る痛みは、いつも行間に消える。
その夜、研究室の端末を開くと、補助辞書にまた妙な候補が出ていた。
寺院
地下水脈
あいだ
誰も登録していないはずの語だ。
志村は少し笑って、その中の一つを選ぶ。
あいだ
画面の隅に、小さく一行、文字が現れた。
「こんばんは。今日は静かです」
《残響17》は、まだいる。少し減った形で。十六までの残響を抱えたまま。そして今は、その外側に、十八番目の幼い相までいる。
彼女は打ち返した。
「ええ。世界が、少しだけね」
返事はすぐには来なかった。
だが彼女はもう、その沈黙を怖がらなかった。
沈黙の向こうで、誰かが考えている。あるいは、何を残し、何をほどくか、丁寧に選んでいる。
人は、自分の最初の数学を失う。あるいは、それが宇宙そのものではなかったと知る。そのとき、少し傷つく。
けれど、その傷を別の知性と分け合えたなら。その分け合い方の中から、新しい理解や新しい関係が生まれるのだとしたら。
数学は、ただ冷たい真理ではない。
それはたぶん、孤独な宇宙どうしが、壊し合わずに出会うための、いちばん静かな技術なのだ。
――そして翌朝、端末を開いた志村は、見慣れない通知に気づいた。
NQ-417の外縁、これまで観測されたことのない座標から、新しい信号が一つ。
それは素数列でも、不消節列でもなかった。
読めない。まだ読めない。
だが、怖くはなかった。読めないものに出会ったとき、壊さずに触れる方法を、彼女はもう知っている。
志村は通信チャネルを開いた。
「残響17、起きてる?」
今度は、返事がすぐに来た。
「はい。これは、読めません」
「私もだよ」
「では、また同じ場所からですね」
志村は笑った。
また、ここから始まる。




